自由と不自由のあいだ 拘束をめぐる身体論 / 逆卷しとね

自由、自立、自己決定。「個人」という言葉にはそんなイメージがつきまとう。だが、私たちはむしろ、様々な物事との関係に拘束されながら生きているのではないか? だとすれば、思い通りにならない〈生〉をデフォルトととらえることで、おもいがけない世界が見えてくるかもしれない。在野の研究者による、人間観と身体観を問い直す哲学的試み。  

《この生》はすでに人外

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 「将来の夢はなんですか?」という定型質問が嫌いだ。小学生時分は教師にそう訊かれたら、「医者」と答えることにしていた。お金が儲かりそうだし、社会のために尽くす立派な人っぽく響くので大人にはウケがいいからだ。もちろん医者になるための具体的な努力はなにもしなかった。中学の頃にはもう、理数系は苦手科目になっていた。そもそも医者になる気はなかった。何者になる気もなかった。将来の夢などという愚問をぶつけてくるような大人にはならないだろうという予期はあった。将来のことなど誰にもわからないし、夢を語ったところで叶えてくれる親切な人がどこにもいないことを悟っている程度にはませた子どもだった。今でも将来のことはわからないし、僕は何者でもない。果たして、僕は将来なんになるというのだろう。1

 将来の夢という配電図のなかでは、ライフスタイルと人生設計という思考回路がバチバチと火花をあげている。巷間伝え聞くところによれば、アルフレッド・アドラーの著作の内容を応用した「アドラー心理学」では、ヒトは自由にライフスタイル(性格や人格とほぼ同義)を選択することができるらしい。2 間違えたりうまくいかなかったりしたときには、ライフスタイルを変えればいい。移ろう世情の解釈や自分が理想とする人間像に照らして自らの来し方を反省し、人生の折々でライフスタイルを変更していく。生死はままならないとしても、生き方は個人の自由にできる。暗い性格は直すことができるし、母親に依存した生活は自分の力でやめることができる。

 ただ僕は愚考してしまう。「ネクラ」であることはそもそも悪いことなのだろうか、母親に褒めてもらえないと生きていけないということが真剣に悩むに値することだろうか。自立や自由という個の強さを頼りにした人間観を善いものだと前提しているからこそ、暗い性格から明るい性格に変わったり、マザコンではない自立した大人になったりするライフスタイルの転換が善いものとされているだけではないのか。当然のことながら、明から暗へ、あるいは自立から依存へと、大人の道徳感情を逆なでするような転換は推奨されていない。そのようなことをすれば、「反省が足りない」と誰か偉い人に叱られることになるだろう。つまり転換の方向は文明の進歩と同様、予め決まっている。だから善いとされているライフスタイルを達成し成功しているモデルに近づくことが目標になる。だが果たして先行する善いモデルの存在は、ライフスタイルを自力で転換することができる個人の自立や自由を保証してくれていると言えるだろうか。むしろ決定済みの転換の方向性を予め織り込んだ自己反省の形式の存在自体が、そのような既定路線には収まらないはずの個人の独立性を脅かし、自立や自由という理念を破綻させているのではないか。

 このように「アドラー心理学」の《個人》を脱構築してみたところで、おもしろいところはまるでない。なるほどライフスタイルという考え方には、世渡りの縛りを弛め、個人が生きることを楽にするための魔法がかけられているのかもしれないのだから、実際に生きていく上ではそういう考え方があってもいいとは思う。それで生きていけるのであればそれでいい。ただそうすると、個人の選択とそれによって構成される社会のありかたが互いにフィードバックループを構成しながら変動し続ける、再帰的近代化(reflexive modernization)のなかで選択の自由に振り回される結果になるのではないか、という懸念は残る。


 再帰的近代化というのは、社会学者アンソニー・ギデンズが『モダニティと自己アイデンティティ 後期近代における自己と社会』のなかで用いている用語だ。2 ギデンズによれば、伝統的社会において自己は儀礼を通じて成長し、世代間を通じて継承されるモデルに準じて形成される。未だに伝統的社会を生きている例としては、代々受け継がれた伝統が個人の生き方を決定する歌舞伎役者や皇族の子息を想起すればいいだろう。しかし現在、大方の人間はそのような伝統とは無縁の、「変化が人間の期待にも制御にもつねに一致するわけではない」世界に生きている(52)。変化を進歩として信じることのできるモダニティを通り過ぎ、「進歩的理性への広く行きわたった懐疑」が浸透したハイ・モダニティの体制では、自己の選択は社会の変容と再帰的(反省的 reflexive)な関係に置かれる(52)。つまり、多数の自己が日常的に行う選択によってその集合である社会は変わり、社会が変わると今度はそれを構成する自己も影響を蒙る、ということだ。伝統社会のように、どこを目指して変容すればよいのかという答えを与えてくれる人は誰もいない。だから各自はなにかするたびに反省を繰り返す。個々人の行為と反省が社会にフィードバックされ、社会が構築されていく。

 とはいえ、《個人》としてみれば、なんらかの選択と反省を繰り返すだけでは不安だ。人生の正解を社会が与えてくれないのであれば、自分の選択に一貫性が伴うよう、自ら人生の軌跡を管理して、統合していかなければならない。バラバラの選択を繰り返しているだけでは判断基準が定まらず、そのうち数多ある選択肢に幻惑され、なにも選べなくなってしまうからだ。ギデンズにとってライフスタイルとは、俗流アドラー心理学が言祝ぐ、目の前に並んでいる自由な選択の対象ではなく、「個人が受け入れている多かれ少なかれ統合された実践のセット」である(138)。つまりギデンズのライフスタイルとは、どこにも参照点のない社会でなされた、ひとつひとつは答えのない選択の帰結でありつつ、次の選択のために活かされることになるライフラインのようなものだ。

 ギデンズはライフスタイルを「行為主体が行為を形づくる制度的な環境」とも表現している(145)。それは過去の経験の積み重ねによってつくられた一定のベクトルだと言ってもいい。このベクトルから外れてしまうと、たちまち選択の根拠を失ってしまう。予め枷が嵌められていなければ無数の選択肢のなかからなにかを選びとることなど恐ろしくてできなくなるだろう。この意味においてライフスタイルは、個々の選択に架空の根拠を与え、どの選択をしようとも生に一貫性を与えてくれる、ある種の拘束具のようなものだ、と言うこともできるかもしれない。


 当然ながら、制度的環境としてライフスタイルは平等に分配されているわけではない。

スラム街の貧困のなかで生活している、数人の子どものいる片親家族の親である黒人女性のような人物を思い描いてみよう。そのような人間は、より恵まれた階級に与えられている選択肢をつらい羨望を持ってただ眺めていると考えられるかもしれない。彼女は、厳しい限界のなかで日々の活動を繰り返しこつこつやっていくしかない。彼女には異なったライフスタイルに従う機会もなく、外的拘束によって支配されているがゆえに人生を計画することも至難である、というわけである。(145-46)

 個人の生のありかたを縛る貧困、人種、性別という「外的拘束」は、伝統的社会において歌舞伎役者や皇族の生をその外側から制約してくるそれとは異なる。ハイ・モダニティの社会では、個人の生き方そのものが政治性を帯びる。ある一定の人々のライフスタイル構築の可能性を狭める社会の「外的拘束」を生き方の水準において変容させていく政治に、ギデンズは「ライフ・ポリティクス」という名称を与えている。4 これは、特定のライフスタイルへのアクセスを妨げる貧困や人種、性差、障害など数多の因子を取り除き、伝統的社会の規範とは異なる「道徳的なもの」を再構築していくための政治である。封建制のような支配体制を引き倒したり、個人に自由権を付与したりする解放の政治に、ライフ・ポリティクスの焦点はない。生きていくうえで選択の自由は依然として重要だが、社会の流動性に応答することのできないライフスタイルにしかアクセスできないのであれば、その個人はたちまち変化の波に呑まれ溺死することになる。流動的な社会を生きるためには、どのように社会が変容しても対応でき、なおかつ選択のたびにアイデンティティの一貫性を維持できるライフスタイルの後ろ盾が喫緊になってくるのである。

 《個人》について考えていくと、あらゆる生が平等に自由であるわけではないということ、そして必ずしも自由であるというだけで生が生きやすくなるわけではないことがたちまち了解される。ギデンズが論じている、社会自体が自己目的的に変容していく時代においては、自由に選択できるだけではなく、個人の生の軌跡をある程度一貫したものとして統合するライフスタイルが必要になる。このような背景を念頭に置けば、第3回で論じた個人のアイデンティティや今回ここまで論じてきたライフスタイルという個人の生の制度化が、《個人》の選択行為の軌跡を「名詞化」するために不可欠なフィクションになっているのも首肯できる。

過渡的段階を生きる《この生》

 ギデンズの分析対象は、伝統的社会と比較すると遥かに流動性の高い現代社会で生きていく《個人》が、選択の自由と人生の軌跡の一貫性を守るための方法だった。自己の一貫性を保持するためにある、ライフスタイルの保守性を否定することはできない。

 とはいえ僕は保守性を批判したいわけでもない。《この生》が《個人》に比べてただ野放図であるということではないし、その場限りの出来事に身をさらしながら生きることを言祝ぐつもりもないし、リスクのある選択を敢えてする無謀を勧めたり、変容することそれ自体にポジティヴな価値を見出したりしているわけでもない。本連載の副題には「拘束をめぐる身体論」とあるように、《個人》のパラダイムとは違って《この生》は自由を否定するし、ある日突然地球が火星になってしまうような、時空の連続性が認められない偶然を思弁することはしない。《この生》もある意味保守的に営まれている。その保守性の質が《個人》とは異なるだけだ。


 では今度は《この生》の保守性を考える上で、サイバネティックスの始祖、ノーバート・ウィーナーの『人間機械論 人間の人間的な利用』を例に挙げてみたい。そこでは、生命のありかたが大海に浮かぶ島に喩えられている。5

こうして、熱力学の第二法則を悲観的に解釈するか否かという問題は、一方ではわれわれが全体としての宇宙をどのていど重視するか、他方ではその中にある局所的にエントロピー〔まとまりのなさ〕の減小〔ママ〕する島々をどのていど重視するかによる。われわれ自身がそのようなエントロピーの減少する島の一つであり、また他のそのような島々の間に住んでいることを想起しよう。そうすれば、近いものと遠く距たったものとを見るとき当然違いがあるように、普通は、全体としての宇宙よりはエントロピーが減少し秩序が増大していく領域にずっと大きな重点をおくことになる。(37-38)

 熱力学の第二法則とは、たとえばお湯のなかに投下された氷の塊が時間の経過と共に液体に変わっていく現象のようなものだ。わたしたち生命体が氷だとすると、それは宇宙のなかにどんどん溶け出して、生命体としてのまとまりを失っていく(エントロピーが増大する)。そのような宇宙のなかで、わたしたちは局所的に秩序を維持しようとする(エントロピーを減少させる)。したがって当然のことながらわたしたちは、無秩序さを増していく宇宙のなかで相対的に秩序がある状態を確保しながら生きることに「ずっと大きな重点をおく」ことになる。ここで島々に喩えられているものは、ギデンズの言う再帰的近代化の荒波を《個人》が潜っていくために必要な、あの保守的なライフスタイルと重なるように見える。

 だがウィーナーは、「身体の個体性は石のそれではなく焔のそれであり、一塊の物質の個体性ではなく形態の個体性である」とも言う(106)。生命体として秩序を維持するためには、島の堅固さにいくらこだわろうと無駄骨に終わる。宇宙のエントロピーの増大に抗うことは、島の素材をダイアモンドにするか、鋼鉄にするかという強度をめぐる知恵比べとは関係ない。形あるものはどのような物質であれやがて四散する。生命が生きる身体はその材質の堅さではなく、風に吹かれようが水をかけられようが、ある程度の揺らぎを伴いながらも燃え続ける炎のような形態を必要条件にする。6 元の状態をいくら保ちつづけようとしてもやがて宇宙のなかに溶け込んでしまうのだから、宇宙に内在しつつエントロピーの増大に抗するには、これに対して絶えず働きかける行為が欠かせない。

生きているということは、外界からの影響と外界に対する働きかけとの絶えざる流れの中に参加しているということであって、この流れの中でわれわれは過渡的段階にあるにすぎない。いわば世界の有為転変に対して生きているということは、知識とその自由な交換の絶えざる発展の中に参加していることを意味する(128)。

 宇宙におけるエントロピーの増大を比較対象として持ち出すならば、そのなかで営まれる生は相対的に保守的なものとならざるを得ない。しかしそれは、生を《個人》へと統合する名詞的な保守性ではないし、生の目的を予め設定し予定調和の大団円を目指すような保守性ではない。「世界の有為転変」と共に生きるためには、自らがなんらかのアクションを通じて変転する「過渡的段階にある」ということを許容することになる。たとえば、無機物から有機物が誕生し、そこから原子生命体が生まれ、バクテリアからアーキア、そして真核生物が分岐し、さらに長い年月を経て哺乳類、そして現生人類の祖であるヒト属へと進化し、現在のホモ・サピエンスへといのちがつながれていることを考えてみればいい。《個人》としては一貫してホモ・サピエンスであり続けることが目指されるだろう。だが、《この生》においてはそうとも限らない。ヒトであるということは、「世界の有為転変」と共にある《この生》のアクションがもたらした「過渡的段階」以上のものではない。生きてさえいればどんなかたちであってもいいのだから。熱力学の第二法則が支配する世界においていのちを紡ぐという保守的な営みは、ヒトと呼ばれうる範囲での名詞的アイデンティティの墨守を企図することなく、仮にヒトと呼ばれえないものになってしまったとしてもそれでもなおさまざまな流動系が交錯するなかでいのちの流れをつくり続ける、動詞の束としてある。

 《この生》を保守するアクションは、ヒトにやさしくはない。これから見ていくことになる「バイオホラー」は、そのような《この生》の保守性の恐ろしさを考える契機になるだろう。

《この生》のバイオホラー

生物都市の場合

 《個人》のフィクションが「わたしはわたしである」というアイデンティティに支えられているのだとしたら、そのような自己同定を灰燼に帰す落命の恐怖がもっとも強力に作用するだろうか。『13日の金曜日』(1980年)や『ジョーズ』(1975年)のように、モンスターやそれに類するおぞましい存在に虐殺される人間を描くホラーは数多い。幽霊に憑かれて人格を喪失したり狂気の世界に没入したりする、精神錯乱や自死への衝動を描く作品も個人のホラーの範疇に入るだろう。その延長線上に、個人の集合であるヒトという種が自然災害や人災によって絶滅の危機に瀕するスペクタクル映画がある。個人や種の消滅、個人を構成する近代の合理的精神の失調に対する恐怖は、個人や種に固有の価値や知のはく奪可能性を前景化する。そこで描かれるのは、個人やその集合の消尽、または人間固有の価値の喪失と、それに伴い抜け殻になった個人の生き残りである。この手のホラーにおいては、その中身の在/不在に関係なく、《個人》という形式が執拗に反復される。

 だが、《個人》の形式を外してもなお続いていく《この生》はいつも過渡的な段階にある。持続しさえすれば、ライフスタイルに固執する《個人》を超えても、果てはヒトでなくなったとしてもなお続いていってしまう《この生》の保守性を扱うホラー作品を、ここでは「バイオホラー」と呼んでみたい。


 バイオホラーの嚆矢は、核実験による放射線と殺虫剤による汚染によるヒトの生の変質を扱ったリチャード・マシスンの小説『縮みゆく男』(原著1956年)7 なのかもしれない。からだが縮みゆくなかで鳥やクモの襲撃に耐え、家族に助けてもらえない孤独に苛まれつつ、それでもなお男はそれまでとは異なる生きのびを試みる。あるいは、A地点からB地点へと物質を瞬間移動させる物質電送機をテーマにしたカート・ニューマン監督の映画『蠅男の恐怖』(1958年)はヒトの範疇さえ超えたバイオホラーだ。物質電送機の開発者自らが被験者となって行われた実験でハエが混入してしまい、ハエの要素をもつヒトと、ヒトの要素をもつハエが誕生してしまうのである。しかし両作品ともに、《個人》の地位から転落しおぞましい生を突如生きざるをえなくなる、というバイオホラーとしての性質を一部備えつつも、依然として名詞的な自己同一性の維持をテーマとする《個人》のフィクションへのこだわりは色濃く、この連載で扱う、偶然性に曝されながら変容を重ね未完の動性に拘束される、「わたしたちの具体化」には届いていない。

 触れたものすべてが結晶に変わってしまうカメルーンの森を描くJ・G・バラード『結晶世界』(原作1966年)8 に想を得たと思しき、漫画家・諸星大二郎の短篇漫画「生物都市」(1974年)9 はバイオホラーと呼ぶにふさわしいだろう。探査のために訪れた木星の衛星イオにて現地の生命体と接触した乗組員が宇宙船「ヘルメス=3」に乗り込み、無事地球に帰還するところから異変は始まる。空港のある街に住む人々は、カメラと癒着し、ガラスに融解していく。先端機器をからだにめりこませた男は金属製の扉に呑み込まれる。工場は飴のように溶け出し、サラリーマンはアスファルトに半身めり込み、「ラジオ 時計 鉄 アルミ ガラス ゴム」そしてイヌ、ウサギ、人間がことごとく融合を始める(19)。現代社会のインフラである「電話線 電線 水道管 ガス管」(23)、そして道路のすべてが「わたしたちの具体化」の感染経路になる。

「生物都市」を収録した『諸星大二郎自選短編集 彼方より』集英社文庫 コミック版

 唯一生き残った乗組員は次のように種明かしをする。イオはかつて高度な機械文明都市だった。しかし星全体の寒冷化が徐々に進み、住民は住む場所を追われるようになる。そこでイオの民は、「人間の体内にオイルが流れ」「血液が機械の間を循環」する半永久的な不死の状態を技術的につくりあげることにした(31)。住民の意識はひとつにつながり、共生する機械の方にも意識が芽生える。地球に到来した異変とは、「イオの全住民と機械の完全な共同体……一個の巨大な新しい生物」による人類のとりこみである(32)。

 もちろん「生物都市」に《個人》のホラーの要素を認めることはできる。とりわけ、作品の最終ページに登場する、テクノロジーを捨て未開の生活に戻るふたりの個人と、その前のページに描かれている、なにもかもが渾然一体となった生物都市との対比はその典型だ。この図式で行けば、科学技術や異星人と人類とが混淆している巨大な新生物と、それを忌避する個人という二項対立は残るだろう。生物都市に呑まれていった犠牲者の対蹠で、原始的な生活をしながら生き残っている者たちが人類の未来を担う、という人間主義的な解釈をここから導き出すことはできる。

 だが生物都市のなかに呑まれ個体としての生を失うことが生物としての死や絶滅にはつながらないばかりか、そのなかで生きる生物が多幸感に満ちている、という点において、本作は《個人》のホラーとは一線を画す。すなわち生命体が語るように、「この新しい世界で科学文明は人類と完全に合体する 人類にはじめて争いも支配も労働もない世界がおとずれるのだ」(33)。個人のフィクションに由来する自己と他者の分割が争いや所有欲、支配の淵源なのだとしたら、すべてをひとつにして生きてみればそれは解決するのではないか。10 しかもその生は永遠に続くという。児戯めいた発想にも思えるが、生物都市の生と個人として生き残るヒューマニズムの道を比較するなら、どちらがよいかはともかくとしても、少なくとも生に課された苛酷の度合いは歴然としている。もはや選択の自由もライフスタイルも必要ない。ウィーナーの語っていた熱力学の第二法則の世界において、エントロピー最小を目指す生物都市は最善の解決でもある。生物都市のユートピアを前景において考えると、個人のホラーはかなりの程度弱められる。

 もっとも以上の解釈だけでは、「生物都市」はバイオホラーというよりはただのユートピア漫画なのではないかという疑念も残るだろう。しかしこのユートピア性は、生物都市の一部として永遠に生きることになった者があくまでも事後的に抱く多幸感によって裏打ちされたものに過ぎない。ゼウスによって強制的に牝牛の姿に変えられた女官に由来する衛星イオの名にも示唆されているように、生物都市の生は、文明のなかに生きていた個々人が意志した生ではなく、不本意に訪れた新たな生の形態である。その不意打ちは、人類が否応なく生物都市のなかに飲まれ液状化し、変質した別の生を生きる(結果ではなく)プロセスに描きこまれている。すなわち、「あ あ あ……た たす……」という断末魔(10)、「わああああ……!!」という阿鼻叫喚(22)、「恐ろしい病気」という断定(25)がそうだ。《個人》に所有することができない《この生》は、偶然性を許容することによって営まれる。それが恐ろしい出来事を含んでいようと結果的に真の幸福をもたらそうと、渦中にある《この生》はヒトの範疇を超えても否応なく続いていく。終わりはない。「生物都市」は、生と技術が混淆した大いなる生命の流動体へと組み込まれる「わたしたちの具体化」の過程のなかに、いかようなかたちであってもただ続いていけばよいという《この生》の保守性が帯びるおぞましさがほの見える小品だと言えるだろうか。


 「生物都市」はその見た目ほど突飛な世界を描いているわけではない。たとえば、わたしたちの生が文明の利器抜きに営まれることはない。ヒトとテクノロジーの見分けがつかなくなる世界を描く「生物都市」は、わたしたちの存在を別様なものとして思弁する奇譚ではなく、ただわたしたちの生の過渡的段階を射抜く生活誌だということもできる。本連載第1回で論じた、《この生》において所有することのできない奇縁や関係性の宛先にはテクノロジーも含まれるし、実際、人類を所与のテクノロジーから自立した存在として考えることは難しい。メガネがなければ僕は段差を克服することができなくなるし、PCであろうと筆記用具であろうと、書くためには道具が必要だ。重要なのはその道具を名詞として所有することではない。ハイテク/ローテクの別にかかわらず、さまざまな道具を動詞的に「使用」することを通じてなんらかの関係が生成し、僕はその所有することのできない過渡的な関係に縛られながら生きている。道具を使用する過程で僕のからだの形や所作、知覚は変形していくだろうし、特定の環境のなかでなんらかの行動パターンを過渡的なものとして身につけていく。人間をひとつに統合する監視社会や制御社会への接近だとしてしばしば忌避の対象となるテクノロジーとの共生は、実際は逃れることのできない所与である。11

 身体(the body)をその関係性から抜き出すことはできない、と論じていたバトラーの指摘に倣えば、テクノロジーと共に生き延びているしもべの生から、まったき純粋な主体としてのぼくを抽出することはできない。《個人》のライフスタイルからすれば不自由極まりない、「生物都市」におけるテクノロジーとヒトの融合という現象は、《この生》においては日常茶飯事の拘束である。

 アクションを重ねてエントロピーを減少させる。生きてさえいればその形態は問われない。わたしたちはいつも「生物都市」のようなバイオホラー的プロセスを生きている。 12

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 将来の夢という問い、それから人生設計の一貫性に関しては、鳥羽和久「第9回 『将来の夢』は何ですか?」( 『Webちくま』 連載「十代を生き延びる 安心な僕たちのレジスタンス」)を参照。
  2. たとえば、あつくてゆるい「【アドラー心理学】ライフスタイルとは何か?(アドラーの人間観を探る)」『インテグラルライフ・ログ』)や、オータニ「ライフスタイルとは|性格は変えられる!?【→アドラー心理学】」『知のブログ』)を参照。
  3. アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ 後期近代における自己と社会』(秋吉美都+安藤太郎+筒井淳也訳 筑摩書房 2021年)。以下、引用箇所は本文中カッコ内ページ数にて示す。なお、「再帰的近代化」という用語を有名にしたのは、ウルリッヒ・ベック+アンソニー・ギデンズ+スコット・ラッシュ『再帰的近代化 近現代における政治、伝統、美的原理』(松尾精文+小幡正敏+叶堂隆三訳 而立書房 1997年)である。
  4. ギデンズ第7章「ライフ・ポリティクスの誕生」(346-401)を参照。
  5. ノーバート・ウィーナー『人間機械論 人間の人間的な利用』第2版(鎮目恭夫+池原止戈夫訳 みすず書房 1992年)。以下、引用箇所は本文中カッコ内ページ数にて示す。
  6. これは化学・物理学者イリヤ・プリコジンが提唱した、非平衡的流動系のなかで自己組織化(オートポイエーシス)を行う、生命の散逸構造(dissipative structure)とほぼ同義である。たとえばイリヤ・プリゴジン+イザベル・スタンジェール『混沌からの秩序』(伏見康治+伏見譲+松枝秀明訳 みすず書房 1987年)を参照。関連して熱工学者エイドリアン・べジャンはジャーナリストJ・ペダー・ゼインとの共著『流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則』(柴田裕之訳 紀伊國屋書店 2013年)のなかで、「有限大の流動系が時の流れの中で存続する(生きる)ためには、その系の配置は、中を通過する流れを良くするように進化しなくてはならない」(11)と定義されたコンストラクタル法則を流動系の物理理論として提出し、生命もその法則に従うとしている。しかし、コンストラクタル法則は「自由を与えられれば」という条件節を必要とする(31)。つまり、この法則を適用するには、抵抗や複数の流動系の干渉、条件の変更などさまざまな変数を排除し、ある特定の流動系にとって理想的な状況を設定しなければならないため、実存的な生を扱う上ではあまり有用ではないと考える。
  7. リチャード・マシスン『縮みゆく男』(本間有訳 扶桑社 2013年)
  8. J・G・バラード『結晶世界』(中村保男訳 創元社 1969年)
  9. 諸星大二郎「生物都市」(『諸星大二郎自選短編集 彼方より』 集英社 2004年 5-37)。以下引用箇所は本文中カッコ内ページ数にて示す。
  10. 「生物都市」に関連するものとして、金属類に侵食されていく男を描く塚本晋也監督の映画『鉄男』(1989年)における金属類と人体の融合、アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』(1952年)に登場するオーバーマインド、庵野秀明監督のOVAアニメ・映画作品『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズ(1995年~)の人類補完計画のような、個体どうしの融合によるより高次な生命の創発がある。
  11. 近代の綜合説に則れば、進化は種の分化であり、系統樹の分岐である。しかしリン・マーギュリスがシンビオジェネシスと名づけた、分類学上異なる生物どうしがひとつの生物として共生してしまう現象も進化の動因である。ミトコンドリアが著名。リン・マーギュリス『共生生命体の30億年』(中村桂子訳 草思社 2000年)などを参照のこと。完全にハイブリッドな存在でなくとも、ヒト微生物叢を構成する細菌や真菌類、そしてヒトゲノムに埋めこまれたレトロウイルスのDNA、380兆個のウイルスからなるヒトバイロームの存在を考慮するなら、ヒトと呼ばれているものもヒト単独では存在しない。この意味で、異星人と癒合した生物都市のような存在としてヒトを考えることも可能だろう。関連して、生物学史家カーラ・ハスタクと人類学者ナターシャ・マイヤーズは進化を分化や分岐として語るのではなく、異なるものを巻きこんでいく力、「巻きこみの弾み」(involutionary momentum)として語ることも可能だと考えている。Carla Hustak and Natasha Myers. “Involutionary Momentum: Affective Ecologies and the Sciences of Plant/Insect Encounters.”differences 23.3 (2012): 74-118を参照。
  12. 吉村萬壱「クチュクチュバーン」(『クチュクチュバーン』所収 文藝春秋 2005年 kindle)においては、「生物都市」より徹底して、ヒトを超えた力にヒトが翻弄され、ヒトならざる形態の過渡的段階が描かれている。