自由と不自由のあいだ 拘束をめぐる身体論 / 逆卷しとね

自由、自立、自己決定。「個人」という言葉にはそんなイメージがつきまとう。だが、私たちはむしろ、様々な物事との関係に拘束されながら生きているのではないか? だとすれば、思い通りにならない〈生〉をデフォルトととらえることで、おもいがけない世界が見えてくるかもしれない。在野の研究者による、人間観と身体観を問い直す哲学的試み。  

わたしたちを食べる(1)

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孤食と共食の《個人》

 僕は食べることが大好きで、貪食だと言ってもいい。外食するのは好きだし、居酒屋に入れば呑みながら延々と食べている。小旅行に出かける際には、その土地でしか食べられなさそうな珍品に好奇心をたぎらせる。名古屋でカエルの串焼き。早稲田大学の近辺でゲンゴロウ。プサンで活きダコの踊り鉄板焼き。ヨークシャーでプディング。バルセロナでウサギのパエージャ。熊本で砂ズリの刺身。嫌いなものと言えば、缶詰めの白アスパラ(なぜこんなまずいものがこの世にあるのだろう)ぐらいのもので、おそらく調理されていればなんでも食べられる。フナムシさえ食べる辻陽介という編集者の友人もいることだし、彼が毒見したものなら僕もきっと食べられるだろう。

 僕の食への志向のうちいくらかは《この生》における食べる行為が形づくったものだ、と言うこともできるかもしれない。けれども、その大部分は《個人》の選択である。連載第4回で紹介したように、アンソニー・ギデンズによれば、人生の正解を社会が与えてくれない再帰的近代化の時代には、自ら人生の軌跡を管理して、選択に一貫性が伴うよう統合していかなければならない。そのためには、「ひとつひとつは答えのない選択の帰結でありつつ、次の選択のために活かされることになる」ライフスタイルという装置が必要になる。これは食にもあてはまるように思う。僕は、なんでも手あたり次第食べているわけではなく、「変わったものを食べてみる」という選好にしたがっている。僕にとってその選好は、外食のたびに少しの揺らぎを伴いつつも再構築される、ある種のライフスタイルのようなものなのかもしれない。一見無軌道のようでいて、僕は外食のメニューの可能性を「食べたことがないもの」へと限定し、これまでの食の遍歴に一貫性を与えているのかもしれない。


 近年、食文化はさまざまな領域でホット・トピックになっている。ブームだと言っていい。なるほど食は個人から出発するものでありながら土地柄や流通、共同性と強く結びついている。食文化に注目すれば、各共同性の違いと相互の交流、食を規格化するグローバリゼーションといった事象を身近な経験から記述することも容易になる。だから、社会と個人が相互に影響しあい、答えのない変容を続ける再帰的近代化のひとつの例証として、食文化は恰好の素材になるのだろう。

 食を語る論客のひとり、歴史地理学者・湯澤規子は、戦前・戦中・戦後を通じた日本の食生活を概観する過程で、「近代から高度経済成長期までは確かに社会へとつながる、あるいはつながらざるをえなかった『経路』であった胃袋は、その後に到来した高度消費社会の中で、『家族』と『私』の世界で完結しうる、閉じた『容器』へと変化していくことになる」と論じている。1 個では賄うことのできない根源的な貧しさが公的機関による保障や共同体による相互扶助をつくりだす事例は、枚挙にいとまがないほど存在する。しかし全体としての豊かさを回復した再帰的近代化の時代には、各自・各家庭がアクセスできるライフスタイルに対応したさまざまな食の様態が現れてくる。湯澤はこうした食の断片化を、個人や家族に生活の責任を帰す自己責任論を問い直す契機として捉え返す。食文化は夕餉のひとときやファミレスのような特定の店舗に閉じるものではない。湯澤の見立てに従えば、このような食文化の変容は、相互扶助を残した「共在」世界の紐帯がほどけ断片化する「孤在」世界への転換という社会構造の変化を反映している。

 湯澤は次のように「共在」を語る。

 共在のあり方はいくつかの段階に整理できる。まず一つは、「生きているこの世とは異なる時空」との共在である。目には見えない世界であるが、先祖を思ったり、神に感謝したり、この世を支え共鳴するもう一つのこの世を感じたりすることなどがその例である。二つ目は、「自然」との共在である。これには生きているものだけでなく、土、水、風、空なども含まれる。そして三つ目は「人」との共在である。一対一の人〔間〕関係というのではなく、「村」や「家」といったまとまりのなかに身を置いて生きる暮らしを意味する。「村」や「家」は時代とともに、「地域」や「家族」へと変化したが、人と人が何らかの関係を取り結びながら生きる姿は長く続いてきた共在のあり方といってよいだろう。(終章第2節「共在世界と胃袋」)

 こことは別の異世界が在るという予感、森羅万象と共に在るという延長された感覚、そしてコミュニティを背景として個が在るという意識。これら非人間に対するアニミズム的な感性と個人間の関係を支えるコミュニティの意識が失われると「孤在」世界に至る。なるほど湯澤の言う「共在」は、近代以前、あるいは近代化の途中まで生のありかたを拘束していたアンソニー・ギデンズの言う「伝統」にほぼ対応すると見ていいだろう。もしそうなら、生き方の規範となる伝統を失い、自己再帰的に営まれる現代世界のあり方が孤在ということになる。

 湯澤は共在から孤在への社会構造の変化を「孤食」という現象に重ねる。

 これは共在感を脱ぎ捨て、胃袋を個々へと閉じていった二〇世紀の社会的構造そのものなのではないだろうか。そして今日、「私」の領域は、自由を謳歌してきた「個」から、不自由に苛まれる「孤」の位相へと変わりつつあるように見える。「孤食」が取りざたされるようになるのはこうした社会の反映でもあるのかもしれない。
 孤食は一人で食べることを問題視した言葉であるが、じつは私たちは人と食べなくてもよいのである。風と一緒に、空と一緒に、雲と一緒に、猫と一緒にという答えがあってもよい。共に在る、一緒にいると感じることさえできれば、何だっていいのである。孤食が問題なのは、そういう感覚を忘れてしまったがゆえに、自分一人になったとき、途方もない孤独感に苛まれるということなのであろう。(終章第2節 「「共」と「私」と「公」」)

 伝統に縛られた社会からの解放を約束した再帰的近代化は、約束通り「個」の自由の謳歌をもたらした。しかし自由の追求は、個々人の生の型枠となる伝統と共に、アニミズム的な感性やコミュニティ意識を放擲する結果となり、孤独感や自己責任に苛まれる「孤」が生み出されてしまう。つまり自由を追求していると、やがて別の不自由がやってきてしまうのである。しかし伝統社会に帰るという選択肢はもうない。とするなら、家族や貧困、暴力などの「外的拘束」によって疎外された者たちが負わされている、ひとつのライフスタイルとしての「孤食」を問い直すことになるだろう。孤食の問題は、どのように社会が変動しようとも、個人の選択に根拠を与え人生の軌跡を秩序づけてくれるライフスタイルにアクセスできるようにする、第4回で論じたライフ・ポリティクスの範疇にある。湯澤は食文化を現代社会のたんなる反映として見ているわけではない。食は実践である。実際に湯澤は、こども食堂の展開を通じて、孤食に共在の感覚を取り戻すことを目指す政治を実践している。共食のライフスタイル、あるいは新たな相互扶助をつくりだすライフ・ポリティクスは、ハイ・モダニティを《個人》として生きるためには欠かせない。

テンゴ・アンブレ(おなかがすいた)

 《個人》の政治は自然や人々とのつながりを伝統社会とは別のやりかたでつくりだそうとする。すなわち集団の分断や個人の断片化を克服する連帯の政治の一種として、共食は実践される。しかしながら、連帯をつくる実践は《この生》と関係がない。これまで再三述べてきたように、《この生》が身体を伴って具現化する「わたしたちの具体化」のフェーズは、意外な関係が奔放に結ばれてしまうままならなさと、名詞には還元できない動詞の横紙破りに蹂躙されている。《この生》は、共食の実践のようにつながりの欠如を前提しない。《この生》の所与となるのは、意識や意図の有無を問わない、さまざまな動詞による拘束である。しもべは繰り出されてくる関係のもつれから独立して存在することができないし、それらを所有したり、制御したりすることもできない。《個人》の自由や不自由で切り分けることのできない《この生》の食を考えるとき、どこでなにを誰とどう食べるかという問題はあまり関係ないし、そこには分断も連帯もない。

 食べることを余儀なくされる契機に《この生》は現れる。

 僕はいったん夢中になると時間の経過を忘れる。20代前半までの僕は、テレビゲームの『ドラゴンクエスト』シリーズや『ファイナルファンタジー』シリーズの新作の攻略にとりかかると、たいてい2、3日のあいだ力尽きるまで物語世界のなかに没入していた。あらゆる人間活動は疎かになる。当然、食事もほとんどとらない。そういうとき、食事の時間は無駄に感じる。おいしさや健康に良いかどうかは端から問題にならない。「餌」として重要なのはカロリーだけだ。空腹で目が回り耐えられなくなると、弁当やカップラーメンをドカ食いする。食餌の摂取を終えると、僕は再び物語世界のなかに帰っていく。カジノで稼いだ金が現実世界のYenではなく、モンスターをいくら倒しても現実の僕のレベルはちっとも上がっていないことに気づいてほとぼりが冷めるまで、そのような暮らしは続く。

 没入する時間は短くなったとはいえ、食事がただの餌の摂取になることは今でもままある。たとえば、食についてリサーチをし、たくさんの文献や論文をリストアップして、それらを斜め読みしている今。頭のなかを空にしたくてひたすらネット将棋を指しているとき。ふと手にとった小説の、見開きB5一枚ほどのスペースに広がる、言語の宇宙に点在する惑星間の重力と遠心力に翻弄されているとき。そういうとき、腹時計か、どこか力の入らないぼーっとした感じが、その日ご飯をまだ一食も食べていないことを教えてくれる。そうして僕は、胃袋に課せられた義務に屈従して餌を食べることになる。光合成ができればいいのにな、と従属栄養生物の悲哀を噛みしめる。

 なにを食べるか、どう食べるか、誰と食べるか、という《個人》の食にまつわる諸問題はまるで関係ない。すでにのめりこんでいる状況があるというのに、この身体がそこから無理やり引き剥がされてなにかを食べることにまつわる手続きに転じていくときに感じる、めんどうくささだけが肝心だ。《個人》が食事をする存在であるとすれば、《この生》は餌を摂取する。共食も孤食も関係ない。「食べる」という動詞がなんらかの食べものに達し、空腹を満たそうとするだけだ。目の前にバナナがあればそれを食べるし、冷蔵庫に納豆があればご飯にかけて食べるし、なければ台所の引き出しを開けて「うまかっちゃん」の袋を裂き、片手鍋に投入して素ラーメンをつくって食べる。飢餓の力は、僕の意志とはほとんど無関係にしもべを(食べものではなく)なんらかの食べられるものへと差し向ける。しもべを編み上げているある一定の作業の縛りからしもべはいったん解かれ、偶然目に入ったものへと誘引される。動詞「食べる」を「僕」という主語は所有しない。「食べる」に絡めとられたしもべは、食べられるものを摂食しながら、もともと僕をがんじがらめにしていた「ながら」作業に連れ回される。

 ここには、湯澤が論じていたような、食べる《個人》の意識を中心とした共在の感覚とは異なる運動がある。夢中になっている作業それ自体、僕の意志や想定とは関係がない。設定された締め切り、ゲームの魅力、学術的な感興、物語の蠱惑に耽溺しているしもべの持続が、空腹によっていったん途絶し、身近にある食べられるものに動線を巻きつける。飢餓に伴う、僕にはコントロールすることのできないこんな力こそが、僕を縛る関係の糸を繰り出す、全体像の知れない「わたしたちの具体化」に迫る糸口なのではないだろうか。


 飢餓の力には、その強度にある程度みあう、物体の可食性をつくりだす力も含まれている。可食性については、人類学者/神話学者・石倉敏明の慧眼が頼りになる。石倉は、食文化を「可食性のコード」として記述し直す。食は危険と隣り合わせだ。食べてしまうと、酩酊や嘔吐、下痢、ひいては致死的な病をもたらす生物がいる。「だからこそ、いつ何を食材として選び、どうやって調理し食べればよいのかという、地域食における『可食性』のコードが、地球上のどの文化においても構築されてきた」。2 実際、どの食文化においても、選別・屠殺・解体・調理・保存の技術と、予め食べられないものを排除しておく禁忌がある。わたしたちが食べものと呼んでいるものはすべて、意識的・無意識的な判断と慣習によってある種の生物を食べられるものへと変える過程を経てきている。

 石倉の問いは、ヒトが食べる主体ではなく食べられる対象に生成してしまうある契機への着目を分水嶺にして、異種が身体を共にする(共同体ではない)「共異体」やヒトの内臓がその外側にある世界と絶えず連絡する「外臓」という概念の考察へと向かう。3 だがここで僕が確認しておきたいのは、食べもの(food)とされているものが人為的な操作を受けないまま人間の食べものとして存在したことはない、という単純な事実である。なるほど食事に供される食べものは、食べられるもの(the edible)として認識され、しかる後に加工・調理を経ている。裏返してみると、現在食べものとして認定されているものが、将来、食べられないものへと変わる可能性もある。人為的な理由による汚染、文化的な禁忌のコードの変更、そして生態系の撹乱による絶滅によって、現在の食べものは可食性のコードから外れ、食べられないものに変わる。

 しかし潰瘍性大腸炎を患った経験に基づき、食と排泄という当たり前の営みを根本から疑った頭木弘樹によれば、食べものとしてすでに法的・社会的に承認されている食品が対象であったとしても、食べるという行為は根源的に危険である。

 病気ではなくても、そもそも人にとって、食べるという行為は、つねにリスクをともなうことだっただろう。〔中略〕
 本当に安全な食べ物ということになると、今でも入手はかなり大変だ。お金も手間もかかる。

 だから、ほとんどの人が、わずかなリスクは考えないようにしている。
 多少の毒はとっても、大丈夫ということにしている。
 その代わりに、何の不安もなく、なんでも口に入れることができる。これは大変に大きなことだ。4

 「本当に安全な食べ物」が手に入ったとすれば、ヒトは食べものを安心安全な対象として所有できる。そのとき世界はきっちり閉じているし、自己と他者をはっきり分けることができるようになるだろう。しかしそのようなことは現実には難しい。たいていわたしたちは、食べものに潜んでいる危険を考えないようにして食べている。そのとき、わたしたちは世界を所有できないことを本当はうっすら知っている。しかし潰瘍性大腸炎を患っていたときの頭木は、「何の不安もなく、なんでも口に入れることができる」世界に住むことはできなかった。病気を悪化させるあからさまなリスクを避けるには、食べても大丈夫な世界をできるだけ所有することに血道をあげるしかない。しかし主語に「食べる」という動詞を緩みなく結わえつける生を送っていくと、今度は別の困難にぶちあたる。

 しかし、食べることに問題が生じるということは、生きることに問題が生じるということであり、食べられない食べ物が増えるということは、それだけ外界に対して拒絶的になってしまうということであり、食べられないということは、現実を受け入れられないということにつながっていく。5

 頭木は食べることの難しい病を得て初めて、もともとトラブルに満ちた《この生》を生きていたことを認識する。わたしたちは食べることを通じて、知らずのうちにリスクに溢れている世界の複雑さを受け入れている。病のために、生に伴う些細な偶然性を逐一排除しなければいけなくなった頭木は、そのことを痛切に意識する。食べられないものが増え、「外界」から閉じコントロールの行き届いた世界に生きなければならない頭木は、《この生》からの疎外に生きづらさを覚えるのである。6

 実際、食べる際には、リスクを伴った奇縁を受け入れなければならない。食は人なり。さまざまな栄養素はもちろんのこと、腸内細菌やウイルス、菌類をわたしたちは食を通じて摂取している。長い年月をかけてわたしたちは食を通じて自らの存在を変容させてきた。たとえば、牛と共に生きる過程を経て初めて、ヒトと呼ばれている生きものは、牛乳に含まれている乳糖を分解するための酵素ラクターゼを生成できるようになった。この意味においてヒトは、食べものを通じて自らを馴致(自己家畜化 self-domestication)していく生きものである。7 だから食べものが見つからず空腹に耐えかね未知のものを食べられるものに変えるときに、ヒトはヒトでなくなってしまうかもしれないような奇縁を引き受けていることになる。なんらかの生物をヒトが食べられるものに変えるとき、ヒトもまたその食べものやそれに付随するなにかの不確定要素によって変わっていく。ヒトとは、自己同定を見失わせるさまざまな動詞の束につけられた暫定的な名詞に過ぎない。

 《この生》においては、食べものを食べる経験につきものの馥郁たる香り、シャキシャキとした歯ごたえ、爽快な喉越し、共に食事を楽しみながら語らう仲間は関係ない。文化的な価値は、食餌の摂取には欠けている。残されているのは精神科医ジークムント・フロイトなら「欲動=動因(drive)」、哲学者ジョルジョ・アガンベンなら「ゾーエー(zoe)」と呼ぶ、人間のもっとも根源にある動物的な生の力、あるいは生の形態だ。もっと無防備に「本能」と呼んでみてもいいかもしれない。ただし「本能」は主語が所有することのできる目的語ではない。しもべを縛っているのは自己保存的な名詞ではなく、自己を見失わせる関係を手繰ってくる「食べる」という動詞の力だ。人間らしさを剥ぎとられた食にまつわる過剰や異常をわたしたちはしばしば病理として、あるいは動物的な野蛮として忌避する。だが「食べる」というヒトには所有できない力は、絶えずこの身体を串刺しにしている。どんなに夢中になっていることが別にあろうとも、「食べる」は僕の夢中のなかに侵入し、それまでに僕を拘束していたプロセスを中断させ、別様の応答を僕に強い、食べられるものを求めさせる。それまでの進捗を暴力的に断ち切る力は、たとえ《個人》が食卓で味わう食べものと同じものであっても、その文化的なアイデンティティを剥ぎとり、しもべを襲う飢餓感にみあうというだけの食べられるものに変えてしまう。それだけではない。空腹に動機づけられた《この生》のフェーズにおいて、摂食の対象は食べられるものであればなんでもいい。ということは、もしかしたらそのような飢えは、ヒトが食べてはならないとされているものとの奇縁すらつくりだしてしまうかもしれない。そのとき、ヒトと暫定的に呼ばれている生きものはヒトと呼ばれなくなるかもしれない。自己同一性が担保できない可能性を含むものを、食べられるものとして食べてしまうとき、《この生》のバイオホラーが蠢動する。8

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 湯澤規子『7袋のポテトチップス 食べるを語る、 胃袋の戦後史』(晶文社、2019年、kindle)、7章第2節「『家族』と『私』へと閉じていく胃袋」から引用。以下、同書からの引用は掲載箇所の章・節・小見出しをカッコ内で示す。
  2. 石倉敏明「複数種世界で食べること――私たちは一度も単独種ではなかった」(『たぐい』vol. 1、2019年、46-54)49頁。
  3. 石倉の論の概要については、石倉敏明+唐澤太輔「外臓と共異体の人類学」(奥野克巳+近藤祉秋+ナターシャ・ファイン編、『モア・ザン・ヒューマン マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』、以文社、2021年、209-38頁)を参照。
  4. 頭木弘樹『食べることと出すこと』(医学書院、2020年)86頁。頭木は「共食」が帯びている同調圧力を批判する。
  5. 頭木87頁。
  6. 他にも注目すべき論点として摂食障害があるが、ここでは検討しない。磯野真穂『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』(春秋社、2015年)を参照。
  7. (自己)家畜化については、リチャード・C・フランシス『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』(西尾香苗訳、白揚社、2019年)、リチャード・ランガム『善と悪のパラドックス ヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史』(依田卓巳訳、NTT出版、2020年)、アリス・ロバーツ『飼いならす 世界を変えた10種の動植物』(斉藤隆央訳、明石書店、2020年)を参照。
  8. ここまでの議論を補完する著書として、レオン・R・カス『飢えたる魂 食の哲学』(工藤政司+小沢喬訳、法政大学出版局、2002年)、雑賀恵子『空腹について』(青土社、2008年)、ルース・ドフリース『食糧と人類 飢餓を克服した大増産の文明史』(小川敏子訳、日本経済新聞出版、2021年)、藤原辰史『縁食論 孤食と共食のあいだ』(ミシマ社、2020年)、藤原辰史『食べること考えること』(共和国、2014年)があるが、それらの検討は他日を期す。