声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語 / 瀬尾夏美

伝えたいのに言葉にできないことがある。それでも、ふいに「語り」が立ち上がり、だれかに届く瞬間があるとしたら……。 土地の人々の言葉と風景を記録してきたアーティストが、喪失、孤独、記憶をめぐる旅をかさねた。 語る人がいて、聞く人がいる。ただそのことから生まれる物語と、著者の視点による「あと語り」がおりなす、ひそやかな〈記録〉。

ぬるま湯から息つぎ

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 もちろんほんとうは行きたいですよ、でも正直いま素直に行きますと言えるかっていうとそれはむずかしいです。ビデオ通話の画面越しの彼がすこし引きつったような顔でそう言うので、わたしは、うんうん、そうだよね、ぜんぜんいいよ、と、こちらは気落ちしていないですよと伝えるために、なるべくハキハキとした調子で相槌を打つ。
 すいません、ぼくいま実家暮らしで、両親と姉とみんなテレワークだし、自分もオンライン授業でみんなまったく家から出ないもので、ぼくだけ遠出するって言うのがちょっと。ほらしかも最近そっちの感染者が増えたってニュースになってるじゃないですか。それで親も心配みたいで。実際大丈夫ですか。ふつうに外出できる感じなんでしょうか。
 彼の問いかけに、自分の気持ちが波立つのを感じる。たしかに2週間ほど前に感染者が増えたが、それ以降ほとんどのお店が時短営業になっているし、アーケードの人出もだいぶ減っている。とは言え、ある程度ふつうの日常を送らないと気持ちも関係性も経済もあまりに大きな打撃を受けてしまう、というのが、未知の感染症とかいうやつが広まり始めてから1年あまりのわたしなりの実感で、だから外に出る人たちを単純に責めたりはしないようにしている。わたしは職業柄ひとり家でこなす仕事が多いけれど、友人たちのほとんどは毎日混んだ電車で通勤しているし、ときおりわたしも一緒に食事に行ったり、買い物に出かけたりもする。
 近しい友人のひとりは学習塾の講師をしていて、生徒にうつさないように細心の注意を払わねばならず、全員の受験が終わるまでは仕事以外の外出をすべて絶っていて、何度もこころを病みそうなほど落ち込んでいるのをLINE越しに感じていた。でもやっとそれがひと段落ついたからと、先週ちいさな小料理屋の個室にわたしを誘ってくれて、ふたりしずかに飲んだ。友人が、ああやっと外に出れたって感じだよ。わたし、親しかった叔母のお葬式にすら行けなかったの、と言うので、そうだわたしも去年叔父が亡くなったけどお葬式もなかったよ、と返した。すごい大ごとなのに、わたしなんだか忘れてたみたい。子どもの頃よく遊んでもらったのにね、とつぶやくと、友人はうーんと首をひねって、でもしかたない気がする。電話1本で知らされただけじゃそんな大きなこと、かえって実感湧かないよね、と頷いた。帰りがけに厨房から店主が出てきて、ありがとうね、今月いっぱいでこの店もおしまいだから、と言うので、ふたりで、え! と声を上げた。いつまでもこの状況じゃね、わたしも歳だし、と言って店主は目尻を下げたけれど、マスクで口元が見えないために、これが泣き顔なのか微笑みなのかさえわからなかった。この店はたしか3年くらい前、わたしたちがまだ学生の頃に一度火事になったのだけれど、半年後には復活してもとの賑わいを取り戻していたのに。しかし見渡せば今日の客はおそらくわたしたちふたりだけで、そのわたしたちだってもう1年半ぶりの来店だった。おじさんたちお店辞めてどうするの、と尋ねると、店主は、いまは考えないようにしてるよ。あんたらもがんばってね、と言いながら、わたしたちの手にポトリと飴玉を落とした。
 そして昨日、スーパーの帰りにお店の前を通ると、まことに残念ながら閉店いたします、と油性マジックで書かれた白いコピー用紙が木製の戸にぺたりと貼られていて、わたしはそのあっけなさにたじろぎながら、それを写真に撮って友人にLINEした。こうやってひとつひとつまちの一部が壊れていくのに何もできないままの1年だったし、しかもそれがまだしばらくは続くのだと思うと気が遠くなる。友人が、くやしい!! というテキストと、号泣するうさぎのスタンプを送ってきたので、ほんと泣きたいくらいだよ、と返す。数時間後、でも最後に行けてよかったよね。相変わらずおいしかったあ、と返信が来た。

 こんなことがあったばかりだったのもあって、ビデオ通話越しの彼の、実際大丈夫ですか、と言うたった一言の問いかけに、わたしの気持ちは波立った。感染リスクが上がっている状況で外に出るんですか、外食するんですか、飲食店はやってるんですか。べつに彼はそんなことを言ったわけではないけれど、わたしはもうこの手の会話に関しては、何手も先回りする癖がついていて、このまちで必死に生きている人たちのあり方をどこかで否定されたかのように、そしてこのまちがすっかり汚れてしまったかのように思われている気がして、勝手に傷ついてしまうのだ。家にいられない人がいて、家から出られない人もいて、それぞれ苦しさと矛盾を抱えている。そんなことはもうほとんどの人がわかっていて、彼だってそのはずだとわたしはちゃんと理解しているのに。
 わたしたちはそれぞれ遠く離れたまちで暮らしている。そして、わたしはひとり暮らしの社会人で、彼は実家暮らしの学生で、そんなことはこうなる前までは気にならなかったのに、いまはその違いが、越えられない巨大な溝のようなものをつくっている気がしてしまう。
 彼が暮らす都市Aは、わたしが暮らす地方都市Bよりもよっぽど都会で、初期の頃から感染者が多く、地方都市Bの住民たちのあいだでは、都市Aは危険だから行くな、なんて言われるようにもなっていた。感染症の拡大が始まった去年の春、わたしが外せない用事で都市Aに出向いたとき、彼は電車に乗って街中まで出てきてくれて、誰もいない公園で長いおしゃべりをしたことがあった。以来わたしは彼のことを、こんな状況でも会いたいと思ったら会えてしまう、一緒にちょっとしたズルをする共犯者になれてしまう、すこし特別な人だと思うようになった。けれど、それもいまはもう違うのかもしれない。なんだか途端に不安になった。頼りにしていた居場所がまたひとつ失われたような感覚、とでも言えるだろうか。
 この1年の間もこうして通話することがちょこちょこあって、時間が経つにつれて互いの考え方や選ぶ行動が違ってきていることには気づいていたけれど。たとえば誰かの発言に接したときに、個人的な感情と、自分が社会的に取っている態度や行動、そしてその背景として構築してきた考え方と、身体の中でいろんなものがぐるぐると綯い交ぜになり、それらが過剰に反応して、一気に感情が揺れる。世界がこうなってしまってからは、そんなことばかりだ。それでもいまから打つ相槌はちゃんと冷静にふるまおう、と思う。

 人出はずいぶん減ってるし、じきに感染者数も下がってくるんじゃないかな。わたしもほとんど外に出てないよ、とわたしが言うと、彼はホッとしたように息をついて、気をつけて過ごしてくださいね、と言い、でもぼくだってほんとうは行きたいんですよ、と続けた。たぶんひとり暮らしだったら行ってると思う。けど、いま学生ですぐ実家を出られる状況じゃないし、家の中に波風立てたくなくて。せっかくなのに申し訳ないですが、と言ってこちらに目線を向けるので、いやほんと、気にしないで。ひとつの家に同じメンバーでずっと一緒にいたら大変なこともあるよね、とわたしは答えた。彼は、そうなんですよ、これが結構大変で、と笑ったあと、大学も休み明けから対面になるんですけど、べつに状況は改善されてないって言うかむしろひどくなってるみたいなのに、来ていいって言われてもなんか腑に落ちないところもあって。素直に喜んでる友人たちともうまく話せる気がしないんですよね、と続けた。
 家から出ない人の話を、わたしは、うんうん、そうか、なるほどねえと相槌を打ちながら聞いている。ときおり飛んでくる、チクリと刺さる言葉に当たらないように受け流していると、話題は次第に共通の趣味の話に移り、いつも通りに盛り上がって気づけば数時間が経った。ああやばい、またこんな夜中になってる。課題あるんでしょう、と尋ねると、そうなんですよ、そっちも明日は仕事なんですもんね、と言うので、ふたりでふうとため息をついて笑う。
 ねえでもさ、この状況がずっと続くと思うと怖くない? そうして外に出られないまま歳を取っちゃうの、と問うと、彼は、そうですねえと首をひねり天井あたりを見つめながら、ぼくはでも、こうしてときどきあなたと話せるから悪くないかなと思いますよ。対面より気負わずに話せるような気もするし、と言った。わたしは内心、え、そうなんだ、と思いながらも、ちょっとうれしくなって、わたしもだよ、と返す。じゃあよかった。またそのうちに、と言う彼に、こちらも軽く手を振って通話を切った。
 冷めたコーヒーを飲み干して、なんだこの人、ほんとにいいやつじゃん、とひとり頷く。わたしはイスから立って伸びをしながら、でもこの状況が長く続くなら、わたしはそろそろ何かを決めたり、次に進んだりしたいんだよなあ、とつぶやき、とりあえず次はちゃんと自分の思っていることを話そう、と思った。


Natsumi Seo

 2020年の春ごろから始まった新型コロナウイルスの感染拡大は、1年あまりが経ったいまも収束の兆しが見えていない。こう言い切っても間違いではなさそうだという事実が、まだしばらくは普通ではない状態が続くことを表していて、これはけっこう気が滅入るな……と感じている。

 とはいえ、災禍も長期にわたると、そのなかで人の気持ちも行動も関係性もずいぶん変化するものだなと思う。ちょうど1年前の1度目の緊急事態宣言の頃は、まさに非日常の強い緊張感があったけれど、いまでは制限のかかる生活にもどこかで慣れて、災禍の中でもそれなりの日常を送れている、ような気がする。もちろんいまだって感染拡大の渦中で、その影響が社会全般から個々人の生活まで、ともかくいたるところに及んでいるのに、そのことを特別意識しなくとも日々を過ごせてしまう。外出時のマスク着用も、建物の入り口での消毒と検温も、オンラインのやりとりも、毎日の感染者数と死者数の確認も、日常のことになった。たとえば職種や住環境によって、あるいは重症化リスクが高いなど、さまざまな要因で会えない人も多くてさみしいけど、もうお互いどこかで諦めている気がする。見知ったお店が閉店したら、ああここもかとショックを受け、感染者数が増えてイベントの計画が泡と消えれば、ああまたかとため息をつき、粛々とその処理をする。

 この奇妙な日常がギリギリで保たれた理由のひとつは、多くの人が日々の生活の中で細心の注意を払いながら、“多くを語らない”ことを選んできたからのような気がしている。みんな辛いのだから、それぞれの考え方があるのだから、置かれている環境が違うのだから……と、何かしらの他者への配慮や状況判断によって、自分の気持ちをひとまず隠したり、発言を控えたりした経験が誰にでもあるのではないか。この1年あまり、未知の災禍を生き抜くために、“多くを語らない”という語りの技術が急速に広まった。それに大いに助けられた一方で、日々の生活を包むようなもやもやとした息苦しさが慢性化してはいないか。隣り合う人と語らうことを諦めてしまえば、息が詰まる。そして、思いを言葉にしないでいると、思考が鈍ってくる。時間を重ねるごとに、“多くを語らない”ことの副作用は強まっていく気がしている。

 ちょうど1年ほど前、わたしは「コロなか天使日記」というハッシュタグをつけて、日々の気づきや起きた出来事を言葉でつづり、鉛筆で描いたまぬけな天使の絵を添えてSNSに投稿していた。もともと被災地域で聞いた話をツイッターでつぶやき、記録と共有の場として使っていたこともあり、感染拡大でめまぐるしく変化する日々のことも、同じように書き留めたいと思いついたのだ。誰にとっても未知の災禍の渦中で、タイムラインの空気も当然のごとくピリピリしており、生のままで言葉を書くのは難しいと感じていた。そこで、ちいさな部屋の中から日々誰かのことを思い、祈っているという設定の架空のキャラクターを作り、彼の台詞として言葉をつづることにした。

 最近、展覧会1の準備があってその日記を読み直してみると、1年経っても状況があまり好転していないからか、当時よりも言葉が鋭く刺さってくるような気がした。日記は、欧米を中心に感染者が急増し、世界中が事の大きさに気づいた頃から始まり、その後日本での1度目の緊急事態宣言下で多くの人が家に籠っていた時期と、それが解かれて徐々に日常生活が再開していくまでが描かれている。当時からコロナ禍は長期に渡るだろうと言われていたけれど、あの巣篭もりからの開放は、このまま“普通”の生活が戻るのではという期待感を伴っていたと思う。しかし、そうはいかなかった。あれからずいぶん時が経ち、強い緊張感は慢性的な息苦しさに変わり、ふとふりかえれば、あの頃出会ったはずの問いや課題は積み残しになったままだったりもする。

 ここで、緊急事態宣言が明けた頃(わたしが暮らす宮城県は5月14日に解除)に書いたものをひとつ引用する。
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世界中が急速に、もとに戻ろうとしている
戻れるはずのない場所を無理に求めれば、大きな歪みが生まれてしまう
何かに焦るわたしたちは、歪みに落ちそうな人を無視するだろう
もとに戻ろうとしない人を面倒だと感じるだろう

3ヶ月前を思い出してみて
そこは、そうまでして戻りたい場所だった?

まだひとりの弔いもできていないよ

#コロなか天使日記 2020年5月22日

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 あまりにシリアスなトーンで書かれていて驚くのだけど、すこし補足すると、当時、緊急事態宣言が明け、駅ビルや飲食店も再開し、急激に普通の暮らしが戻ってきたという感触があった。一方で、再開した日常を楽しむことが、そうとはいかないコロナの罹患者や医療従事者、経済難で仕事を失った人たちなどを置いていくことに繋がるのではとも感じていた。最後に弔いについて触れているのは、この日記を書き始めたきっかけが、コロナで亡くなる人たちが家族にも看取られず、そのまま焼かれてしまうという状況を伝えるニュースだったから。感染リスクがあるからと言って、誰かの人生がこんな形で締めくくられていいのだろうかと思うのだけど、人手や物資が足りないなかで、近親者が寄り添って看取りたいと願うことすら、一種のわがままと捉えられかねない空気があった。そこで、ならばこの状況で人間的であるとはどういうことかという問いだけは抱えていたい、と思っていたのだ。

 さて、1年経ってこれを読み返したわたしは、最近はもうこのような解像度の高さで世界を見ようとしていない、むしろこういった問いについて考えることを避けているかもしれない、と気がついた。この頃書き留めておきたかったこと、問いたかったことの多くはいまだ解決されておらず、むしろ目の前で事例が積み重なっていくのに、日々の暮らしにかまけて何もしようとしない自分がいる。その後ろめたさを覆い隠すのに、“多くを語らない”ことは都合がいい。とても情けないことだけど、この1年で、そのちょっと奥に何かの本質に触れるような問いがあるはずの物事に対して、いまはそんなことを気にする余裕がない、何かを言ってもしょうがないと流してしまう癖がついたと思う。


 先日、2019年春から継続して作品制作に関わるワークショップに参加してもらっている3人に会い、2020年はどんな年だったかと尋ねてみた。ひとり暮らしの社会人のAさんは、そうですねえと首をひねったあと、ぬるま湯のような日々でしたね、と答えた。仕事のクオリティが下がっても咎められることはなく、現状を維持していれば褒められる1年だった。家から出ずとも楽しめる趣味を増やし、自分をあやすのが上手くなったと笑った。

 実家暮らしでかなり外出を制限しているという大学生のBさんは、信頼がベースにない人と関わるのが怖くなってしまったと言う。知人が参加した飲み会で集団感染が起き、自分が想像するよりも間違った行動をする人が存在することにショックを受けた。彼らもしんどいのかもしれないけど、その言い分を聞いてより幻滅するのも嫌だったと話した。彼女は、2020年はなかった、とも言った。一度きりしかない大学3年生の1年間をこんな風に過ごさなければならなかったのはやっぱり悲しい。

 劇場で働くCさんもそれに頷き、なかったというのはよくわかる、と言った。近しい友人以外には話せないことばかりになり、外にいる間も衛生面の気遣いが必要だし、日常生活を送るのにとても疲れるようになった。考えたいことがあっても帰宅すると気絶するように眠って、次の日には忘れてしまうと。

 半年ぶりに再会した彼らからは、いつも以上に、話したい、もっと聞きたい、という気持ちを強く感じた。“コロナ禍”の最初の1年をふりかえるちいさな会話は、ああでも、わたしは全然人の話を聞いてこなかったんだと思います、というBさんの言葉で締められた。自分の気持ちがなかなか話せないなって思ってたけど、一方で、他者の話を聞く前に拒否してしまっていて、その人たちの話す機会をつくってこなかったというか。この状況はまだ続くみたいだし、そろそろ人の話にも耳を傾けないと自分も相手もしんどくなりますよね。

 わたしは3人の会話を聞きながら、まず誰かひとりが話し始めることで、それにつられるようにして、また別の誰かの話が引き出されていくのだと思い出していた。言葉でやり取りを重ねていくうちに頭が回り出し、いつか気になったことや問いたかったことを思い出していく。思考の道すじが戻ってきて、新たな気づきが得られることもある。

 そろそろ“多くを語らない”から、“語るべきことを選んで語ってみる”に移行してもいいのかもしれないと思っている。

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます

 

  1. 金沢21世紀美術館で開催中の「日常のあわい」展のこと。瀬尾は、小森はるか+瀬尾夏美名義で「みえる世界がちいさくなった」という、コロナ禍で生きる人びとの声を集めて構成した作品の展示を行なっている。