声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語 / 瀬尾夏美

伝えたいのに言葉にできないことがある。それでも、ふいに「語り」が立ち上がり、だれかに届く瞬間があるとしたら……。 土地の人々の言葉と風景を記録してきたアーティストが、喪失、孤独、記憶をめぐる旅をかさねた。 語る人がいて、聞く人がいる。ただそのことから生まれる物語と、著者の視点による「あと語り」がおりなす、ひそやかな〈記録〉。

ハルくんと散歩

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 今日はじいちゃんのお通夜なので、わたしの家はすこし慌ただしい。亡くなったのは母の父親で、母の実家は隣県にあり、お通夜やお葬式の準備は同居家族のばあちゃんと叔母がしてくれているから、母はとくにすることがあるわけではないようだけれど、何せじいちゃんは突然、あっけなく死んでしまったものだから、いつも冷静な母だって落ち着かない。そう思って様子を見てみると、母はいつもなら夕方に畳むはずの洗濯物を午後2時に畳んでいるわけだけど、その手つきはたんたんとして普段と変わらないように見える。むしろ父の方が動揺している感じで、何をするでもないのに部屋の中をうろうろしている。父が動くと、いつも父が着ているTシャツの腹のところに大きく描かれたリアルな牛の絵も動くのだが、その無表情が今日はやけに可笑しく思えて、わたしは少し笑ってしまった。お父さん、その牛よく見ると変だね、不思議と目が合わない感じでさ、とわたしが言うと、父は、ああもう着替えないといけないな、とつぶやいて二階に上がっていった。それで、わたしもそろそろ着替えようかとカーテンレールにかけられた就活用のスーツを手に取る。

 すでにハルくんは母が用意した長袖の白いポロシャツと黒い短パンに着替えて、窓際の食器棚に寄りかかりながら、何やら自分のノートを見つめている。まるで格子状に線が引かれていて、その輪郭いっぱいに書かれたみたいな奇妙に角ばった文字たちは、ハルくんのものだとすぐにわかる。11歳にしてはどう見ても下手くそだろうと言えるその文字は、とはいえ、母の根気強い指導によってやっと彼が体得したものなのだし、見方によってはずいぶんかわいらしいとも感じられる。なにせわたし自身が、ハルくんの文字を愛でる甘やかしの姉である。描かれている文字はテレビの出演者の名前がほとんどで、ハルくんは、日々テレビで気になった人物を見つけると番組表と照らし合わせてその名前をノートに書き写し、母の手を引いてその漢字の読み仮名を記入してもらい、父のお古のタブレットで検索して、その人の写真をあれこれ眺める。言葉で語ることのほとんどないハルくんのルーティンは、いったい何のために、どうしてそれをやっているのかはもちろんよくわからないし(いや、わかってしまうような気もするんだけど)、そもそもこれがどのような手順で行われるルーティンなのかさえ、彼の日常を注意深く観察することでしかわからない。とはいえ、姉として身近にいるわたしだって、ハルくんのルーティンを正確に理解しているかと言われたら怪しいという自覚があるので、まあこのくらいのところまでは解明されていると思われます、という風なものだ。

 ともかくルーティンを愛するハルくんからすると、特別な日というものは好きなんだけど、同時にすごく苦手でもあるんだと思う。たとえば、ハルくんはクリスマスや誕生日に、家族全員揃ってケーキを食べることをとても楽しみにしている。でもだからこそ、それがハルくんの思い描くイメージでなされないと大騒ぎになってしまうのだ。用意されたのがチョコレートケーキではなくフルーツタルトであったとか、家族の誰かの帰りが遅くなって同席できないとか、そういう誤差のようなひとつひとつが彼にとっては大事件である。そんなことが起これば、ハルくんはパニックを起こして自分の頭をバンバンと叩き大声で叫ぶし、それを父に注意されると、今度は行き場のなくなった怒りで自分の右手の人差し指に噛み付く。だからハルくんの人差し指の付け根は皮膚が分厚くなっていて、他の指よりも太い毛が生えている。言うなれば年中行事だって、ハルくんにとっては、ルーティンとしてやらねばならない(やれないなんてとても耐えがたい)ことなのだろう。

 それでいうと、人が死んでしまうなんて本当にイレギュラーで特別なことだ。ハルくんは普段着ることのない白いポロシャツと黒い短パンが出された時点で、今日が特別だということは察しているんだろうし、さらにこの後お通夜やお葬式という未知の場に連れていかれるなんて、ずいぶんストレスを感じるんじゃないか。ハルくんはイレギュラーなことが起きた日の夜などはいつも大暴れになってしまうのだから。とはいえ、これからのことを想像してみると、じいちゃんがハルくんのルーティンに登場するのは、お正月にみんなでご飯を食べるときくらいだし、彼の生活に大きな影響はないのかもしれないけれど(なんてはっきり言ってしまうとじいちゃんは悲しむだろうか)。しかし、もし仮に同居家族の誰かが死んでしまったりしたら、彼の世界は一体どうなってしまうのかと考えるとゾッとしてしまう。とくに、母が合図を出さなければお風呂にも入れないし、歯磨きも始められないハルくんである。もし母が倒れでもしたら、なんて縁起でもないことが頭をよぎるが、ハルくんと暮らす者にとっては、こういった想像は日常的なものでもある。日々、ハルくんの生活が安定して営まれていることの方が奇跡だと感じております。神様仏様、ありがたや。

 せめてイレギュラーな大イベントの前の息抜きにでもなればとわたしは思って、ちょっと散歩に行こうか、とハルくんに声をかけた。ハルくんはちらりとこちらを見て、一瞬眉を寄せて悲しげな表情になったがまた元に戻ると、出かけることを理解したのか決めたのか、さっそくいつもの上着を着て、わざわざ靴べらを使ってよれたスニーカーを履き、玄関を出ていく。母が、あら、いってらっしゃい、30分もしたら戻って来なさいよ、とわたしに告げる。わたしはスーツを戻してハルくんを追いかける。

 ハルくんは家の前の道路で軽く耳を塞いで、歌う準備でもするように、自分の身体からどんな音程が出るのかを試しているかのように、あーあーと声を出していた。やっと靴を履いたわたしがハルくんの背中を軽く叩いて、じゃあどっちに行く?と問うと、ハルくんは律儀に右手を顔の前まであげて細い路地の住宅街の方向を指差してから、ずんずんと進んでいく。コンリートと柔らかいスニーカーのゴム底がぶつかって、ターンターンと高い音を立てている。鼻の詰まったようなうめき声とも取れる声と、笑い声を交互に発しているハルくんの5メートルほど後ろを歩きながら、わたしは、今日はすっかりと晴れて気分がよいなあと気楽な気持ちになっていた。

 こんな風に日差しがきれいで暖かいのは、じいちゃんも嬉しいんじゃないの、なんて適当なことを考えていると、昨日の午後、家でひとり過ごしていたら固定電話が鳴って、その相手がばあちゃんで、おじいちゃんが死んじゃったかもしんないよ、と告げられたときの、あの声の緊張感が思い出された。ばあちゃんからの急な電話の時点で、すでに嫌な予感はしていたのだ。手短なやりとりだけで通話が終わり、わたしは母にメッセージを打った。その後、どの時点でじいちゃんの死亡が確認されたのかはよくわかっていないけれど、昨晩中にはお通夜の日取りが決まっていた。あっけないものだなあと思う。急に倒れてそのままだったようだから、あまり長いこと苦しまなくて、その点はよかったのかもしれない。定年で仕事を辞めて家にいるようになってからのじいちゃんは、暇を持て余してゆっくり気力を失っていくような感じで、早くポックリ逝きたいというのが口癖になっていたそうだから、有言実行になってすごいなとは思う。だけど、もうすこしじいちゃんと話してみたかったような気もしてくる。祖父母の家に遊びに行くと、いつもソファの左端に座っていたじいちゃん。ばあちゃんに、雨戸を閉めるくらいしかやれることがないと嫌味を言われて、ふふん、と苦笑いをしていたじいちゃん。じつは会社ではそこそこ仕事ができたというじいちゃん。孫の中ではわたしが一番年長だから、じいちゃんと写っている写真も多い。なのに、わたしはあんまりじいちゃんのことを知らない。思えば、ハルくんはじいちゃんと一緒に出かけたことすらないんじゃないか。そういえば、じいちゃんは、ハルくんのことをどう思っていたんだろう。おそらくばあちゃんは、ハルくんが喋らないと知ってから、彼に対してずっと困惑している。わたしはそれが、ちょっと気になってしまう。じゃあ、じいちゃんはどうだったんだろう? 聞いてみたかったような気もするし、聞かなくてよかったような気もする。

 ハルくんが大きな声を出したので顔をあげると、分かれ道の前できっちりと立ち止まって、不満そうな顔でこちらを見ているのと目が合う。うーん、どっちがいい? あんまり遠くに行きたくないから、右かな、ハルくん、次は右ね、と言うと、ハルくんはすこしはしゃいだように跳ねて、また大きな足音を立てて歩き出す。わたしはそれを見て、あ!と思う。すぐに小走りでハルくんに追いついて、軽く手を引く。多分ハルくんはスーパーに行って、何か買ってもらうことを期待しているんだけど、そこまでしていると時間切れになりそうだということに気がついたのだ。わたしはハルくんの肩に腕を回して、まあまあ、今日はジュースでも買って帰ろうか、と言ってグイと方向転換をし、自動販売機を指差す。ハルくんは歓喜する。どれがいいかと尋ねると、いつもと同じペットボトルの緑茶がいいみたいなので、せっかく160円も払うんだからちょっと珍しいジュースでも選べばいいのにとわたしは思うけれど、一度決めたらこれしかないのだというハルくんの意志は固い。お望み通りに緑茶を手に入れると、ハルくんはその場で跳ねながら、すごい勢いで飲み始める。わたしはあれこれ迷った末にコーラを買った。一口飲むかと尋ねても、ハルくんは決して飲まない。とにかくルーティン以外のことはあり得ないのだから。本来、ハルくんはコーラが好きなはずだけど、自動販売機で買うものは緑茶と決まっている。だから、何がいいかと問うことすらもはや必要ないんだけど、もしかしたら今日は特別かもしれないし、と思って、わたしは毎回尋ねてみる。

 あっという間にお茶を飲み干したハルくんは、空のペットボトルのラベルを剥がし、向かいのコンビニに堂々と入っていって、きちんと分別してゴミ箱に捨てた。帰り道はハルくんと手を繋いで歩く。右手の人差し指の皮膚が固いのが伝わってきて、なんてかわいそうな指だろうねえとわたしは思う。いちおうときおり話しかけるけど、ハルくんが応答することはほとんどないので、わたしは再び、そんなに多くはないじいちゃんとの思い出をあれこれ引っ張り出しながら、その合間に忌引きで休んだバイトのことや大学のこと、好きな人のことなどを考える。ハルくんといる時間は、すごくひとりになれる。わたしがハルくんを好きな理由のひとつは、これなんだと思う。

 我が家が見えてくると、ハルくんはわたしの手を振りほどいてダッシュし、玄関に飛び込んでいく。独特なイントネーションの、ただいま!という声が響いている。わたしはとくに速度を変えることなくコーラを飲み干してから帰宅して、着慣れたスーツにパパッと着替えて髪を束ねる。そろそろ出るぞ、と二階から父の声がする。中学校の制服姿の妹がのろのろと階段を降りて来て、何やら大荷物を抱えた母が居間から出てくる。みんなが慣れない革靴を履いて外に出たので、わたしは鍵をかけた。

 さあ、じいちゃんに会いに行くよ。正月に会って以来だから半年ぶりか。それにしても急だったね。でも苦しまずに済んだんじゃない? それならまあ、よかったのかな。ばあちゃんは大丈夫かな。おばちゃんの方が落ち込みそうね。猫はびっくりしてるかなあ。ね、どうだろう。ね。

 わたしたちは一見そつなく会話をしているみたいだけど、実はそれぞれがハルくんに話しかけているような形をとりながら、空振りの相槌を打ちあっている。おかげで、みんなひとりぼっちのまま、今考えるべきことを思い思いに浮かべながら、近しい人のお通夜に向かうことができる。じいちゃんとそれぞれが持っている距離感を尊重できる、この感じがいいのだ。ハルくんはまた軽く耳を塞ぎ、タンタンと高い音を上げながら地面を蹴っていて、玄関の前から動かない。妹が駆け寄ってハルくんの肩をポンと叩き、これからバスに乗るんだよ、と伝えると、ハルくんは目を大きく開け、顔をくしゃくしゃにして笑う。ハルくん、じいちゃんが死んじゃったんだよ。お通夜では騒がないでね。妹が人差し指を口に当てて、しーっと息を吐くと、ハルくんは歓喜の雄叫びを上げながら、ズンズンと歩き始める。黒い服を着たわたしたちは、笑いながらバス停に向かう。

 お通夜とお葬式のハルくんはお経のリズムにノリノリだったので、わたしと妹は笑いをこらえるのに必死だった。

 その後、じいちゃんの位牌が納められた仏壇に手を合わせることが、無事にハルくんのルーティンに組み込まれた。祖父母の家を訪ねると、ハルくんは毎度同じ手順をきちきちとこなしてお線香をあげる。そして、目を瞑って手を合わせたあとは、決まって叔母におやつをねだりに行く。じいちゃん、よかったね。こんな感じで、ご勘弁くださいませ。

©Natsumi Seo

 わたしの家は“語らない”人を中心に動いているという側面がある。以前もすこし書いたけれど、わたしの10歳年下の弟、Hくんは、いわゆる日本語言語を話すということがほぼない。とうに成人しているのだけど、医師にはだいたい3歳児と同じくらいの知能だと言われているらしく、おそらく言語というものをほとんど持っていない。Hくんは、簡単な、でも限られた単語の意味は知っていて、何かやりたいことや欲しいものがあるときには、動きや感情を交えながらそれを訴えるので、わたしたちは彼の要求に答えたり、あるいは注意したりと反応を返す。Hくんはそれに一喜一憂するのだけれど、感情が発露するときはだいたい困惑の表情が前面に出る。眉をひそめ、下唇が軽く出ている。嬉しくても楽しくても悔しくても怒っていても、どこか困っている。Hくんは人間と関わるとき、現行の人間社会の枠組みに触れるとき、とても困っているように見える。困惑を越えるとパニックを起こして暴れてしまうのだけど、Hくんだってそんな風にしたいわけではないだろう。反対に、静かな場所にひとりでいるときは落ち着いていて、とくに公園や山の中など自然が多い場所にいるHくんは、ゆったりとして、力が抜けているような気がする。

 Hくんが何を考えているのか、どう感じているのか、たぶん本当のところは誰にもよくわからない。最もHくんのそばにいて、身の回りの世話をしてきた母はよく、Hくんは幸せに生きているからそれは恵まれたことだよね、と言っている。わたしはそれに同意する。確かめようはなくとも、きっとそうなのだと思うからだ。けれど、Hくん自身が自分は幸せだと口にすることはないし、そもそも彼は幸せという言葉自体を知らないだろう。もしかしたら前提として、Hくんは家族と同居して暮らすこと、――それはつまり最小の人間社会で生きていくことでもあるので、そのこと自体に困惑があるのではとも思う。だけど、家族として長い時間をともに過ごしているわたしたちとしては、それでも彼が“幸せそう”だと思えるし、その感覚を共通の真実として信じているような気がする。

 もちろん、彼が“幸せそう”に見えないときは、その要因をそれぞれが思案し、やれそうなことを見つけられればやってみる。とくに母は、我が子が障害を持っていることに気づいてから、たくさんの本を読み、医師や学者に話を聞きに行き、教師たちと話し合っていた。Hくんがより楽しく、幸せに生活できることを願いながら、とくに彼が十代の頃までは、やれることはやり尽くそうとすごく努力していたと思う。こんなに喋れないHくんだもの、もしかしたら何か特別なものが授けられているかもしれない。そうでなくても、せめてもう少し、できることを増やしてあげたい。一番身近にいる親が諦めてしまってどうするの。どうしたって“親亡き後”が頭をよぎる子育ての日々に、母は手探りで向き合ってきた。わたしたちは、そういう母の試行錯誤の歴史を身近で共有してきたからこそ、Hくんは“幸せそう”だ、きっとそのはずだと信じていられるのかもしれない。それに、そうでなければ、自分たちも安心して暮らすことができないから。


 不安定なHくんと暮らすためには、生活の中にいろいろと守らねばならないことがある。たとえば19時に見たいテレビ番組がやっていたとしても、それがHくんのルーティンに反するチャンネルであれば、まとまった時間見つづけることはできない。おかずを取り分ける順番もHくんが思い描くものと違えば悲しい顔をされてしまうし、空いているからと言っていつもと違う席に座っているのが見つかれば怒りを買う。そういった細かな、一見どうでもいいような、だけどちゃんと守ろうとするとけっこう面倒な制約が、朝から晩まで、家中のいたるところにあるのだ。もちろん家族で外に出かける時も、気軽にどこへでも行けるはずはない。訪問先は、突然跳ねたり叫んだりするHくんがある程度受け入れられる場所を選ばなきゃならないし、何より彼自身がよしとするルートや行程を組まないといけない。わたし自身は実家を出て10年あまり経つのだけれど、ときおり帰ると、やっぱりHくんと暮らすのはかなり大変なことだよなあと感じる。せっかくこうしてHくんのお望みに叶うための制約の中で暮らしているのだから、彼には幸せであってほしいとわたしたちは願う。一方で、Hくんにとってルーティン的な行為は、“お望み”なんてポジティブで甘っちょろいものではない。ほとんど言語を持っていないHくんは、それらで日常を埋め尽くすことによって、ぎりぎり安定しているのだと思われる。言語がないということは、不安定な舟に片足で立っているくらい大変なことなんだって、と母に聞いたことがあった。おそらく、人間社会で暮らすHくんはいつもとても困っている。だけど人間社会で暮らすしか、彼に生きていく道はいまのところない。だから、身近にいるわたしたちは彼を手伝いたいし、同時に、そうしなければわたしたちも日常を送れないのだ。

 もっと我慢できるように躾けられなかったのかというご質問もあるかもしれないけれど、自分たち自身も生活していかなきゃならないなかでやれることはやってきたつもりだし、近頃はHくんも大人になり、(束の間かもしれないけれど)わりといい落としどころを見つけて安定した同居生活が送れている状態にある、というのが、わたしたち家族が共通して持っている感覚だと思う。

 すこし話が逸れるけれど、“語らない”Hくんの感じていること、思っていることをなんとか察して、それを代弁して誰かに伝えなければならないような場面が、わたしたちにはたくさんある。だから、当事者が語ることだけが真実である、代弁できるなんて思ってはいけない、という考え方自体はよく理解できても、わたしたちには、実際の生活はそれでは成り立たないという実感と、すでに積み上げてきてしまった実践があるために、無邪気に共感することは難しい。もちろん、代弁してしまうことへの葛藤や迷いはある。でも、現行の人間社会は、家族なり近しい人間が“語らない”人の語りを引き受けなければどうにもならないことばかりである。もちろん、わたしたちはできる限りHくんが不幸になってしまうようなことは避けてきたつもりだし、これまで代弁してきたことによって、“よいこと ”もたくさん起きた(と信じている)。もうひとつ言えば、そもそも“語らない”というのは、日本語言語で人間社会を動かしている側の感覚であって、Hくんなりに“語っている”こともあるのに聞き取れないだけなのかもしれない。いや、そもそも彼には言語がないようなのだから“語れない”のか……正直、それすらも本当のところはよくわからないのだと思う。

 いまのところわたしが思う“語らない”Hくんと一緒に暮らすコツは、彼をそんなにわかろうとしないことに尽きる。基本的にはただ隣にいる。ときには言葉のようなものでやりとりもするけれど、それが大した意味をなしているとは思えない。それよりは、一緒に手遊び歌をやったり、流れている音楽に身体を揺らしたり、または背中をくっつけたりしている時の方が何か通じ合っているような感覚があるし、その時間は楽しい。

 もちろん、どんな他者とだって、ともに暮らしていくことには大変さがある。お互いわからないなあと思いながら、でも折り合いを探りながら、日々を重ねていく。その時々の面白さに賭けたっていいんだと思う。

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます