声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語 / 瀬尾夏美

伝えたいのに言葉にできないことがある。それでも、ふいに「語り」が立ち上がり、だれかに届く瞬間があるとしたら……。 土地の人々の言葉と風景を記録してきたアーティストが、喪失、孤独、記憶をめぐる旅をかさねた。 語る人がいて、聞く人がいる。ただそのことから生まれる物語と、著者の視点による「あと語り」がおりなす、ひそやかな〈記録〉。

名のない花を呼ぶ

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旅人は初めてこのまちへやってきた
彼はどうしても、ここで起きたという悲劇を悼みたかったのである
それで内陸から峠を越えてやっとたどりついたのだが
眼下にあるのは広い広い草はらだった
右手に持った地図を開くと
半年前の新聞の切り抜きが挟んである
“一夜で街消失 死者数千”
太いゴシック体でそのように書かれてあるけれど
いまは鳥が鳴き、そよそよと風が吹き、草が揺れ
そのあいまに白い花がぽつぽつと咲く
ただおだやかな風景があるだけ

旅人はゆるやかな丘を下りていく
初夏の日を浴びて光る草はらに目を凝らせば
その根元にはひび割れたアスファルトの道すじが残っている
旅人は地図をたしかめながらそろそろと歩く
すこし前までここにあったはずのものたちを踏んづけてしまわないように
だっていままさに自分が立っているのが
誰かの暮らしや言葉や命があったその場所なのかもわからないのだから

草はらのあちこちには花束が手向けられていて
旅人はそれを見つけるたびにドキリとした
ここで死んだ人と、ここへ通う人のことを想像し
さて自分がここで立ち止まってよいものかと迷う
流れ込んでくる悲しみに反応するように
本当はただ手を合わせたいと思うのだけれど
ふとよそからやってきた自分が
死者と生者のその親密な関係に入り込んでよいとは思えなかった
だから旅人は歩く速度を変えることはなかったが
手向けの花の横を通るそのときにはきゅっと目をつむって
ほんのちいさく頭を下げた

それにしても今日はよい天気である
すみずみまでムラのない空色に山の稜線がはっきりと浮かび上がっていて
それを目で追っていると、ついこころが弾む
そこへ、おうい、という声が聞こえたので
旅人は思わず身構える
あたりを見渡すと西の丘のふもとで
青いキャップをかぶった中年の男が手を振っていた
男の足元には色とりどりの花が咲いている
一目見ればそれが自然に咲いたのではなくて
人の手で作りあげられた広い花壇だということがわかる

Natsumi Seo

旅人は男に向かって手を振って
きれいですねえ、とすこし声を張って答えた
すると男は花壇の一画を指さしながら
ここになんて書いてあるかわかるか、と問うてくる
植えられた花が大きな文字になっているらしい
しかし旅人はその文字を読むことができなくて
首をひねったまま泣きそうな顔になる
それで男が軽くため息をつきながら手招きするので
旅人がすこし迷いつつも小走りで近づいてみると
男が人懐こい顔で笑っているのがわかってホッとしたのだ
旅人が男のとなりまで来ると、男は旅人に短い言葉を耳打ちした
それはこのまち、とくにここら一帯の土地の名前だという
ここで亡くなった者たちを弔うために
生き残った有志たちで集まり
こうして広い広い花壇をつくったのだという

なあきれいだろう、おれたちはここを見捨てちゃいないぞ
男がそう言って歩き出すので、旅人は黙ってそのあとをついてゆく
ここがタケちゃん家、となりがヤマダ写真館
クマガイ駄菓子、こっちは昔サイダーの工場だったな
男は花壇の中をずんずんと分け入って進み
あちこち指さしながらそこにあったものたちの名前をつぶやく
まるで点呼を取っているみたいだ、と旅人は思った
いまは目に見えないけれど確かにここにあるものたちの、その輪郭を
男の声がひとつひとつなぞってゆくようだ
しかし旅人は相変わらず自分の足元が気になって
男のあとをついて歩くだけで必死であった
彼らが大切に育てた花々を
その根が抱きしめているものたちを
旅人はどうしたって踏みつけたくはなかったのだ

男がふと立ち止まったので旅人は顔を上げる
ここがおれの家だと示されたその場所には、ちいさな祭壇がある
母さんはむらさきが好きだったからこの花を選んだのさ
竹筒に刺さったその花が揺れるのを見て、旅人はぽとりと涙を流した
悪くないだろ? と笑って、男はその場にしゃがみこむ
そして、ぼんやりと立ち尽くしている旅人の膝にぽんと触れ
自分のとなりを示して、おいで、と誘う
旅人はそこへしゃがみ、男がするのと同じように手を合わせた
旅人はまだ、誰へ、何を、どう祈ってよいのかわかっていなかったけれど
目をつむっていると男のゆっくりとした息遣いが聞こえてきて
自分はただここでこうしていればよいのだと思えた

それからふたりはゆっくりと街跡を歩いた
男は道端に手向けられた花束をひとつひとつ見つめて
そこにいた人たちの名前をつぶやく
旅人はその名前をひとつひとつ復唱し
手持ちの地図に細かな文字で書き入れていった

ふたりがまちをぐるりと回って花壇に戻ってきたのは
ちょうど夕暮れになる頃だった
教えてもらった名前はきっと忘れません、と旅人が言って
右手に持った地図をその胸に引き寄せると
忘れちゃってもいいんだからな、と男は笑い
死んだことにさえ気づかれない人も
花を手向けてもらえない人も
おれの知らない人もまだまだいるんだからな
とつぶやいて足元をじっと見つめた
旅人は、ああ、と息を吐き
ありがとうございました、と頭を下げた
男はにこにこと笑いながら、また来いよ、と言って
旅人が見えなくなるまで手を振っていた
旅人は今晩の宿へとつづく暗い峠を歩きながら
男の名前を聞きそびれたことに気づくのだった

旅人がふたたびここを訪れたのは
それから何十年後のことだろうか
あの草はらはすっかり住宅街になって
身ぎれいな人びとが行き交っている
旅人はその事実にホッとしながらも
なんだか置いていかれてしまったような気分になった
道路もあの頃とは変わっているみたいだし、もう手向けの花も花壇もない
訪ねたいと思っても、男の名前さえ知らないのだ
わたしが知っているのは、死んだ人たちの名前だけではないか
旅人はふうとため息をつき
かろうじて覚えのある山並みから
花壇があった辺りを割り出して向かう

あの男が立っていた西の丘のふもとは、ちいさな公園になっている
旅人は使い込まれたベンチに腰かけて古びた地図を開く
近頃見えにくくなった目を細め、名前をひとつひとつ読みあげていく
おうい、何してるの、という声で顔を上げると
不思議そうに見つめる子どもらに囲まれている
このまちの昔の地図だよ、そしてここにいた人たちの名前
と旅人が言うと
子どもらは、へえ、歌かと思ったよ
なんだかなつかしいねえ、とはしゃいでいる
旅人は、君たちが生まれるずっと前のことなのに、と苦笑したあと
何かを思いついたような顔になる
ねえ、ひとつだけお話を聞いてくれる? と旅人が尋ねると
子どもらは高い声を上げて彼の前にちょこんと座る

むかしむかし あるところに ちいさなまちがありました
けれど、ある夜、そのまちは消えてしまったのです……

すると子どもらはぱっと目を開いて
あれ、その話
ね、ぼく知っているよ
つづきはこうでしょう!
と口々に言って跳ねまわる
驚き顔になった旅人に、子どもらが耳打ちする
そのお話の題名はね……

旅人が聞いたのは
あの男が耳打ちした、この土地の名前

Natsumi Seo

 このところ、コロナ禍で亡くなった人びとを弔うことについて気になっていて、それに関わるような物語を書きたいとあれこれ試したけれど、どうしてもうまくいかなかった。それで、東日本大震災後の陸前高田で、まちの人びとがつくっていた“弔いの場”についてあらためて記述しながら、今回のような流行病と自然災害とでは、弔いの場のあり方がどのように違ってくるのか、あるいはどこが同じなのかを考えてみようと思った。書きながら感じたことはあとで記してみるとして、まずは、なぜ弔いが気になっていたのか、その経緯をメモしていく。

 新型コロナウイルスの感染拡大が始まって、1年以上が経つ。もしまた、去年と同じように不安なままの1年が繰り返されるとしたら、もうしんどいかもしれない、と感じている。すくなくともわたしが去年の春に思っていたよりも、いまの日本の状況はよくない。ワクチンの接種はすこしずつ進んでいるようだけれど、感染力の強い変異種が広まっているみたいだし、医療崩壊のような状況もあちこちで起き、経済的な窮地に立たされる人も増えつづけていて、心身を病む人も多くいる。何より毎日のように死者数が積み上がっていくのは、悲しく、切なく、とても怖い。そのはずなのに、タイムラインに流れてくるその数字を、見るでもなく流してしまう自分がいる。コロナ禍2年目をこのまま進んでいいのだろうか。ともすれば、去年より苦しい状況が訪れるだろうけれど、果たしてちゃんと生き抜けるのだろうか。とくに、混迷のまま突き進んでゆくらしい巨大な祭典のあとにも、誰もが日常を送れるくらいの平穏が残っているのだろうかと心配になる。考えれば考えるほど苦しくなりそうだからと言って、さらに感度を下げて、心身ともに殻に閉じこもったまま粛々と暮らしていくしかないのだろうか。

 そんなことをもやもやと感じているときに、写真家・ジャーナリストとして活動されている小原一真さんの「Fill in the blanks」というプロジェクトを知った。これは、新型コロナウイルス感染症療養施設で働く看護師一人ひとりに対峙して行なった聞き取りと、看護師本人が思い返したいと考えたある特定の看護場面の詳細な記録を記した「プロセスレコード」を組み合わせながら、彼女らの言葉を記録していく取り組みだ。小原さんは、2020年5月からこのプロジェクトを始めたそうだが、各所への確認と調整を経て、冊子やYouTube上での朗読という形で、最近になって公開がはじまっている。

 小原さんが自身の動画内で朗読したのは、新型コロナに感染し、闘病のすえに亡くなられた方を看取った看護師さんたちの言葉だった。どのような状況でも、目の前の相手を人間として扱おうとする看護師さんたちの言葉に何度もこころを揺さぶられたという小原さんが、朗読の後に訥々と語ったことが印象深い。現在、死を伝える情報としてあるのは、連日繰り返される数値の速報値と、あるいは困難な状況の説明に終始していて、実際にその数値や状況説明の先にある“人”の存在に触れられる機会がごく稀であること。また、海外の様々な国においては、コロナ禍で亡くなられた方々の慰霊祭が行われているということ。それは、政府の式典だけでなく、個人や民間の団体によって開かれるものもあり、ロックダウンが始まった日や初めての死者が出た日から1年など、それぞれに日付を設定して開かれているのだという。「日本ではもう一万人を超える数の人が亡くなっているのに、僕らはいつ、その死を社会として共有して、追悼するっていうことができるんだろうか」という小原さんの問いかけが、ああそうだ、これを考えなきゃいけなかったんだと、すとんと胸に落ちた。

 死者を悼むということ。大切な人を失った人たちの悲しみに寄り添うということ。とくに、社会的に大きなインパクトを持つ災禍が起きた時、生きている人たちは、それをおざなりにしてはならないのだと思う。なぜかと言われても簡潔に答えられないのだけれど、理不尽な死、しかもそれに大勢が見舞われるという恐怖を目の当たりにした時、多くの人は、自分はたまたま“生き残った”という感覚を持つのではないだろうか。死ぬのはわたしだったかもしれないという強烈なイメージは、自然災害でも流行病でも変わらない。遠い土地で地震が起きたとき、もしこれが自分の足元だったらと考える。流行病で苦しむ人を見たとき、もしかすれば彼はわたしだったかもしれない、と自分の行動を省みる。理不尽な死を目撃してしまったとき、生き残った人たちは同時に、自分や近親者の死を想像している。

 もちろん死んだ人と生き残った人の間には境界線があり、死者の痛みを理解することは不可能だし、その事実をわきまえる必要があるけれど、もしかしたら互いの立場は入れ替わっていたかもしれないと思うからこそ、わたしたちはとても自然に、死者の痛みに寄り添わねばと願うのかもしれない。こう書くと、生き残った者たちはずいぶん傲慢なようだけれど、自分の身体を通してしか、他者の感情や経験を想像することはできないのだから、それは仕方がないことだとも思う。むしろ、そうやって強制的に感覚が開かれてしまった人びとの気持ちが、他者への寄り添いに注がれる効用に、希望を持ちたい。

2014年5月、岩手県陸前高田市高田町森の前

 津波に洗われた陸前高田で“弔いの花畑”をつくったおばちゃんたちは、隣り合って作業をする元近隣住民や、ボランティアに訪れる人びととの交流を楽しみながら、土に触れ、地底深くに根を広げる草花を通して、喪った大切な人たちへと想いを寄せていたのだと思う。花畑を始めた頃の彼女たちは、自分が“生き残った”偶然に申し訳なさを感じると話し、亡くなった人たちと生きている自分の境界線を引きかねているように見えた。けれど、復興工事が本格化するまでのおよそ2年半、花畑の作業を続けるなかで、彼女たちはゆっくりと自分たちの未来を描いていく。それは、亡くなった人たちの存在を内包しながら、これからを生きていくための具体的な方法を編み出していく時間だったのだと思う。復興のための嵩上げ工事によって花畑は土に埋まったけれど、その花々は工事の前に分有され、彼女たちがいま暮らしている自宅や集落、あるいは花畑に関わったボランティアや団体がある日本の各地で大切に育てられている。毎年季節になると花はうつくしく咲き、見る者を癒す。そして、この花はあの土地で育てられたのだという物語が、死者と生者を、そして“生き残った”人たち同士を繋ぎつづけてくれている。

 わたし自身も花畑から花を分けてもらい、実家の花壇に植え替えたのだけれど、わたしの家族も咲いた花を気に留めた時には、陸前高田や震災のことを想うのが習慣になっているようだ。東日本大震災という出来事を遠いと感じている彼らにとって、日常の中でその時間が持てることは、悪いことではなさそうに見える。遠く離れた場所で起きた災禍だけれど、その被災者たちの痛みに寄り添いたいとひっそり願っている。だから、そのための方法を具体的に得て、間接的にでも弔う人たちと連帯できたという実感は尊い。彼らは死者たちの名前や顔を知らない。けれど、そのままの状態でも、こうして寄り添うことができるし、すこしだけ近くに感じながら生活を送ることができる。

 なぜ災禍にあった人びとを弔うのか。その答えは簡単に導けるものではないけれど、“生き残った”人たちは、弔いに向き合う過程で自分が生きているということを実感し、死者たちとの付き合い方を発見していく。そして、生き残った人たち同士のつながりを再認識、再構築する。それは、未知の災禍を目撃してしまった、そのショックを受けてしまった人間社会が通らなくてはならない、切実で重要なステップのようにも思える。


 コロナ禍で亡くなった人たちを弔いたい、と思う。すでに世界中で約370万人、日本では約1万3500人(2021年6月3日現在)が亡くなっているという。死者たち自身の痛みと合わせ、その近親者や関係者たちの悲しみも忘れずに想像したい。わたしは、わたしたちはこんな世界で、たまたま“生き残っている”のだから。個人的に手を合わせればよいと言われればその通りなのだけれど、それと同時にやはり社会として、共同体として、なにかしらの行動を起こせたほうがよいと感じている。そして、この災禍を忘れずにいることで、同じ痛みを繰り返さないようにしたい。

 さて、ここでたとえば慰霊祭を行なうには、慰霊の場を開くのにはどうしたらよいのかと考えてみる。陸前高田で起きたような自然災害においては、災害が起きた“その日”と場所が具体的に存在するけれど、コロナ禍においてはそれらが存在しない。そのため、たとえば慰霊祭を執り行なう日にちや、花を手向けたり石碑を置いたりする場所を誰かが決めなくてはならない。もちろん関係者も多いから話し合いをするべきで、その席にどんな立場の人たちが着き、どうやって決めるのかも考える必要があるだろう。

 死者を弔うことの重さとはミスマッチに思えるほど、具体的で些細なプロセスが現れてくる。けれど、コロナ禍という災禍では、さまざまな負荷がかかるなかでも“日常”を続けなければならず、自然災害のように日常がはっきりと中断されてしまうものとは異なるから、人びとは忙しい中でこれらをクリアしていかなくてはならない。それが案外、とても難しい。とはいえ恐ろしいのは、忙しいから、まだ渦中だから、とりあえず保留してあとでやろうという感覚で居つづけると、弔いたいという感覚すら鈍ってくるということ。わたし自身もこの1年間、自分の感情や欲求をいなしながら日々を過ごすことで精一杯になり、大切なことを忘れていたように思う。

 しかし、海外では慰霊祭が開かれている。この違いには、宗教的な習慣や政治体制の違いも関わっていると思うけれど、日本でも、あるいは自分の暮らすまちでも、何かできないだろうか。ここ最近、友人たちと集まってそんなことを話しはじめた。いつまでこの状況が続くのかわからなくて気が滅入るけれど、今年は“コロナ禍2年生”として、すこしずつでも自分たちでこの先をつくっていく、そんな手触りが欲しいと思う。

 

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