声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語 / 瀬尾夏美

伝えたいのに言葉にできないことがある。それでも、ふいに「語り」が立ち上がり、だれかに届く瞬間があるとしたら……。 土地の人々の言葉と風景を記録してきたアーティストが、喪失、孤独、記憶をめぐる旅をかさねた。 語る人がいて、聞く人がいる。ただそのことから生まれる物語と、著者の視点による「あと語り」がおりなす、ひそやかな〈記録〉。

送りの岸にて

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 彼は余命いくばくもない。それまでの彼にどの程度の自覚があったかはわからないけれど、しばらく高熱が続いた年の瀬の冷え込む夜に、自分が営む設計事務所の入り口で倒れてしまい、ああこれはもうダメかもしれないと悟ったという。ちょうどその2年前に妻を亡くした彼は、冗談混じりではあったけれど早く死にたいといつも周囲に漏らしていたし、この1年くらいは自宅前の短い坂を上がるだけで息を切らすようにもなっていた。何より、いままさに力を入れようにもそれ以上どうにも動けないのだから、彼はもう諦めるしかないと決め込んだ。しかし、それからどれくらい彼が床にうつぶせのままでいたのかはわからないけれど、ふと全身の痛みが和らいだ瞬間に、自分の胸ポケットにあった携帯の角が胸に刺さるようで痛いのに気がつき、それを退かそうと取り出した。そして、ついでだと思って、着信履歴の一番上にあったこの事務所の経理担当の番号に電話をかけたのだ。息絶え絶えの所長の声を聞いたSさんは、30Kmほど離れた山間のまちにある自宅から、いつもより急いで車を走らせる。事務所の引き戸の鍵がうまく開かず泣きそうになったが、何度目かでガチャリと鍵がはまる音がして扉が開くと、応接間のテレビをつけてソファに腰掛けている所長を見つけた。Sさんは思っていたよりも状況が悪くなさそうなことに拍子抜けし、大丈夫ですか、わたし、慌てすぎて下はパジャマのまま来ちゃいましたよ、と笑った。所長は背中を丸めたまま、おう、と小さく手を上げる。Sさんが靴を脱ぎながら、病院に行きますか、と問うと、所長はまた、おう、とだけ答えた。ふだんは病院嫌いで仕方がない所長が、か細い声で素直に応じるので、Sさんは、これはやはりおおごとかもしれないと察したのだという。

 担ぎ込まれた病院で、彼は余命1年と告げられた。しかもそれはかなりよい方の見立てであるという。息子たちは遠方に暮らしているし、同居している母親は年老いており、近くに身寄りのない彼は医者の宣告をひとりで聞くほかなかった。彼は痛み止めと解熱剤が効いてぼんやりする頭でメールを打って、このことを先ほどの事務員・Sさんを含む3人の従業員と、ふたりの息子たちに知らせる。息子たちの返信は、わかりました、というだけのあっさりとしたもので彼は一瞬ムッとしたが、その後従業員たちからそれぞれ返ってきた、一緒に闘いましょう、という趣旨の言葉の方が彼を悲しませた。正確に言うと1通目を受け取ったときにはありがたいと思ったのだけど、それが2通も3通も同じだと、おや、と思うものだ。おれとあいつらでは置かれた状況がまったく違う。なのにこんなことが言えてしまうなんて、あいつら他人の悲劇を前にして舞い上がっているんじゃないか。そもそも一緒になんて無理だろう。だってこれはおれの身体の問題でしかないのだから。ふつふつと湧く怒りもあいまって、彼の体温が再び上がり関節の痛みが激しくなると、とたんに弱気になってくる。このしんどさは身近な人にだってわからないし、わかってほしくない。というよりもこの悲劇に巻き込みたくはない。とくに下の息子はまだ大学を出てもいないのに、母親だけでなくおれまでいなくなるなんて気の毒すぎやしないか。そんなことが頭をよぎると、彼は涙が止まらなくなってしまい、いつの間にか気絶するように眠ってしまった。

 彼はその晩夢を見た。高校までの同級生で、二十歳はたちで死んでしまった山田くんが、彼の入院している病院のエントランスに座っている。おい、久しぶりだな、と声をかけると、山田くんは顔を上げて、おう、お前はうまくやっているか、と言って目を細める。彼が、まあまあだな、と答えると、山田くんは、おれもだ、と頷いて消えてしまった。翌朝彼が目を覚ますと、東京から仕事を休んで見舞いに来た長男が、父さん、きのうベッドを抜け出して歩き回っていたらしいよ、と呆れ顔で言うので、彼は、見つかんないやつを探してたんだ、と答えた。当時二十歳になったばかりだった山田くんは仲間たちとしこたま酒を飲んだ帰り道、自宅が同じ方向のふたりと歩いていた。とはいえ大きな鉄橋を渡りきったところで山田くんは右、ふたりは左に曲がるのでそこで別れることになるのだが、その鉄橋の終わりらへんで山田くんは突然、度胸試しをする、と言い出したという。そして、ふたりがあっけにとられているうちに欄干から飛び降り、暗い川に吸い込まれ、以来行方が分からない。その時その場にいた友人から知らせを聞いた彼は、なんでそんな突拍子のないことを、と思いながらも、はやく帰ってきてほしいね、と答えたのだ。彼は山田くんと特別親しいわけではなかったから、これまでその存在を意識することもなかったのだけど、昨晩の夢で、まあまあ達者にやっている、と聞けたのは嬉しかったし、機会があればその友人にも伝えてやりたいと思った。それにしても、たとえ夢と言えども山田くんに会えてしまうくらい自分にも死が近づいているのだな、と彼は察した。それで、ベッドの横でうつむいて携帯をいじっている長男に、おい、と声をかける。すまんな、おれあと1年しか生きられないぞ、と彼が言うと、長男は、おう、とだけ答えるのだった。

 小さなまちなので噂はすぐに広まる。だから彼の病室には見舞いの列が出来るほどだった。かつて彼はまちの取りまとめ役で、町内会でも商工会でも何かしらの役員を引き受けていて、もちろん子どもたちが小学生の頃には何年もPTAの会長もやったので、とにかく顔が広かったのだ。それが妻を亡くして以来すっかり塞ぎ込んであらゆる役を突然辞めてしまったものだから、関係者たちは彼のことを心配しつつ困惑して、困ったやつだと見切ったりあらぬ噂を立てたりしたために、この2年で仕事関係以外の人とは疎遠になっていた。それでもいざ彼が死ぬかもしれないとなれば、疎遠だった人たちも含めてたくさんの人が訪れた。痩せて病室のベッドに横たわっている彼を見て泣く者もあれば、一緒に闘いましょうという例の言い回しを口にしながら手を握る者もいて、まあでも久しぶりに会って直接言ってもらうとこれも悪いものではないな、と彼は思う。おれはまだたしかに生きていて、彼らと同じ世界にいるのだから。そうやって熱と痛みで朦朧としながらも忙しい日々が続いていたが、それもある種のブームのように終わりを告げた頃、彼の体調は良くないながらも落ち着くようになっていた。そんなある日の訪問者は彼にとって意外な人だった。数十年ぶりに会う彼女は大学時代の同級生で、彼と彼女はしばらくのあいだ特別な会話をし、彼は余命を告げられて以来初めて、まだ生きたい、と口にした。

 彼は副作用の強い治療を受けることになり、彼女は週に一度隣町から病室を訪ねて彼を励ました。1ヶ月ほどの治療ののち彼は医者に呼び出され、もう一度余命を告げられる。ひとつふたつ改善された点はあるものの、それでも彼の寿命が延びるということはない。医者は、あとはどう生きたいかです、と静かに言った。彼は息子たちと彼女にメールをした。おれはもう自宅に帰りたいけど、それでいいと思うか。髪が抜けて痩せこけた顔が暗くなった携帯の画面に映っている。次の瞬間、画面がぱっと明るくなると悲壮な顔が消える。彼女からの返信。一緒に闘いましょう。楽しむのもひとつの闘い方です。彼は子どものように泣いた。

 彼は自宅に戻ってきた。日中は出来るだけ事務所に顔を出し、従業員たちの働きぶりを見守り、ときに助言をした。1ヶ月後、長男が東京の仕事を辞めて戻ってきた。もちろん彼は何度も、本当にいいのか、と尋ねたが、長男は、ちょうど転職しようと思ってただけ、と言い張る。無職になった長男と、年老いた母親と、余命10ヶ月の彼の3人暮らしはとてもふつうだった。3人は基本的にはそれぞれの時間を別々の部屋や外出先で過ごしたが、朝と夜の食事の時間だけは居間に集まった。面白みのないバラエティを見て適当に笑ったり、互いの生活態度に文句を言ったり、美味しいものをただ黙って食べたりした。夏休みには次男が帰ってきたので、長男と彼と3人で隣県の温泉宿を訪れた。長男が大学生になる頃まで何度も家族旅行に来たその宿で、彼らは長い時間思い出話をした。その夜、風呂上がりで半裸のままの彼が薄暗い部屋でため息をついているので、長男が、どうした? と声をかける。彼はチッと舌を打ち、背中が痒いのに薬が塗れない、と答えて右手を背中に回すけれどその手は空中を彷徨ったまま。長男が、全然届いてねえよ、と笑いながらチューブを拾い上げ、背骨の浮き出た彼の背中に薬を塗っていく。情けないな、と彼がつぶやくと、長男は、そんなことはねえよ、と言い、彼の背中をパチンと叩いた。それから長男は彼の身体の不自由をなんでも手伝うようになった。病が進み転びやすくなれば支え、目が見えにくくなれば手を引いた。薬の影響で彼が失禁してしまった時にも、おいおい、と文句を言って笑いながら彼の服を替えた。

 去年の年の瀬に倒れてから丸1年が経ったけれど、彼は生きていた。冬休みに入った次男が帰ってきて4人で過ごす日々もまたふつうだった。もう彼は歩くこともままならないけれど、調子のいい日には友人を自宅に招いて一緒に食事をしたり、息子たちとドライブに行ったりすることもあった。彼女とのメールのやり取りだって続いていた。

 1月の終わり、明け方目を覚ました彼の母親が、彼が息をしていないことに気がつく。訪問医が駆けつけ、彼が死んだことを告げる。長男が、結局ひとりで逝かせてしまった、とつぶやいたので、次男が涙をこぼした。彼の母親が次男の頭を撫で、医者は長男の背中を撫でた。

 通夜と葬式にはたくさんの人が訪れた。みな泣いた。そして、彼についての思い出話をして笑った。葬式の終わり、彼とメールのやりとりを続けていた彼女が息子たちに声をかける。これを伝えてと言われたの、とほほえんで携帯の画面を差し出す。

 ほんとうにいい1年だった。ありがとう。

Natsumi Seo

 友人が病に罹り、最期の1年、仕事を手伝っていたことがある。彼自身や彼の家族、近しい人たちの話を聞いている中で、看取りの時間を過ごすことが、逝く人にとっても送る人にとっても、とても大切なのだろうということを感じていた。

 友人は博識な人で、コミュニティのまとめ役でもあった。だからみなに頼られるのだけど、すこし気難しいところがあり、関係がこじれてしまっている人がちらほらいるようだった。とくに入院する前の一時期は体調が芳しくないのもあって、コミュニケーションがうまくいかない場面が増えている印象で、そのことを本人も気にしていたと思う。徐々に痩せていく彼の姿から、その体調の変化に気づく人も多くいたから、病院に行ったほうがいいという助言は日常的にあったと思うけれど、ついに彼がそれに応じることはないまま、ひとりきりの夜に倒れてしまった。病院に運び込まれた時点で病は進行していた。たぶん近しい人たちほど、やっぱり、と思っただろうし、彼自身もそうだったのではないか。

 数日が経ってすこし状況が落ち着くと、彼を見舞う人たちがぽつぽつ訪れる。そのなかには、前述のように関係がこじれてしまっていたAさんたちもいた。彼は、熱と痛みで朦朧とする頭と、でもやけに冷静な気持ちで、Aさんたちと対面し、久々に語らったのだという。最初は気まずさにドキドキしていたが、言葉を交わすうちにみなで涙を流し、手をにぎり合った。まるで生前葬してもらったみたいだよ。わたしが仕事の進捗報告に病室へ立ち寄ると、彼は力の抜けたすがすがしい顔で、そんな風に話した。彼がその時点で、自らの病や余命を受け入れていたかはわからないけれど、ともに泣いてくれる人たちとの再会の時間は、こんな状況になったからこそのご褒美のように、生き生きと語られた。


 その後、彼は数ヶ月の入院治療を経て、自宅療養を選択した。そして、週に何度かは職場に顔を出し、家族や友人たちと語らう時間も持ちながら、住み慣れた家で最期まで過ごした。その間わたしは、ここに居るのがわたしでいいのかと思いつつも、彼にとって大切な人との再会の場に同席させてもらったり、かけがえのない会話についての報告を聞かせてもらったりした。仲間内でAさんの経営する居酒屋に行き、思い出話で盛り上がる夜もあった。数年ぶりに地域の祭りに顔を出した彼が、集合写真にばっちり収まるのを傍らで見ていた。息子が仕事を継ぐ覚悟を決めた、と弾んだ声で知らせてくれたこともあった。しかし、どうしたってどの場面にも、別れの気配がある。このメンバーで集まるのは最後だろう。来年はないかもしれないから写真を撮ろう。いましかないから、決めよう。そんなことは誰も口にはしないけれど、みなそれぞれに切なさを感じていたと思う。とはいえ、彼と過ごすその時間はとりたてて特別なものではない。他愛もない話で笑ったり、時には口げんかになったりもする。日常とすこし違うのは、別れの気配があるからこそ、彼の周りにいる者たちの感度が高くなっていて、そのぶん1分1秒濃密だったということ。弱りゆく彼の身体を中心にして立ち上がる場は、そこで過ごす時間は、すべて彼を看取る準備のためにあったし、その濃密な時間は、立ち会う人たちにとっても特別なギフトのようだった。

 ほんとうに学びの多い1年だった。おれはまだまだ成長できちゃうんだよな。亡くなる1ヶ月前の食事会で、彼はそんなことを言った。彼自身がどんな悔しさや辛さ、葛藤を抱えていたかは計り知れないけれど、最期の1年、彼は穏やかで、寛容で、よく笑っていたとわたしは思う。

 誰かが病に罹り亡くなることは、どうしようもなく悲しい。そして、弱った身体を近くで見守るのだって苦しい。だけど、死にゆくその人の楽しそうな声が聞けたとか、近しい存在として何かしらの手伝いができたとか、そういう看取りの時間の記憶が、残される者たちのその後を支えてくれる。いまも、亡き友人の家族や近しい人たちと、あの1年にあったことを話して泣いたり笑ったりすることがある。Aさんの居酒屋に集まって、彼らの学生時代の思い出話を聞かせてもらったりもした。残された者同士で、つながっている。亡き友人にはなんて声をかければいいのか迷ってしまうけれど、どうかゆっくりしていてくださいと願うとともに、とてもありがたいです、とわたしは思っている。

ここにのこる
Natsumi Seo

 さて、ここで話が変わる。病で逝った友人の1年を思いながら、わたしは震災で亡くなった人たちの最期についても考えてしまう。震災死のほとんどが突然の死だ。それは本人にとってもその家族や近しい人たちにとってもそうだろう。さっきまで元気で、身体も丈夫な状態だった人が突然逝ってしまう。予想もしなかった突然の喪失が生み出す強いショックを、1年かけて積み上げられていった彼の看取りの時間に反射するようにして想像する。もちろんどんな死だって悲しい。言うまでもなく、亡くなってしまったその本人たちの辛さは計り知れないけれど、突然死はその死についての準備ができない分、残された人がその後に負う喪失の悲しみもまた大きいように思う。だからこそ、集って悼む必要があるのだろう。震災から10年が経ったいまもその悲しみに暮れている人たちのことを思いながら、同時に、世界中にある/あった無数の突然死の悲しみも想像する。

 そしてわたしたちはいま、コロナ禍にある。新型コロナウイルス感染症を発症して亡くなるまでには、短いけれど時間があるケースが多い。おそらく、災害や事故などによる突然死とは違う。感染防止の問題で面会などがままならないこともあると思うけれど、すこしでも時間があるのなら、本人にとっても見送る人にとっても、看取りの時間は持てたほうがいいはずだ、とわたしは想像する。これが看取りの時間であるということの残酷さを受け入れるには、時間がなさすぎるだろうとも思いつつも。

 友人の最期の1年の傍らに居させてもらって、いまわたしが思うのは、看取りの時間は本人と周りの人たちが一緒につくっていくもののようだということ。そして、そのためにはお互いかっこつけないほうがよさそうだということ。死による別れには抗いようがない。そして、別れは悲しい。せめて、訪れつつある別れに、精一杯向き合う。泣いたり笑ったり、ときに間違えたりもしながら、濃密な時間を積み上げておくこと。もしその人が無事に生還したら、それはそれで、また思い出として語り合えばいいのだから。

 

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