声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語 / 瀬尾夏美

伝えたいのに言葉にできないことがある。それでも、ふいに「語り」が立ち上がり、だれかに届く瞬間があるとしたら……。 土地の人々の言葉と風景を記録してきたアーティストが、喪失、孤独、記憶をめぐる旅をかさねた。 語る人がいて、聞く人がいる。ただそのことから生まれる物語と、著者の視点による「あと語り」がおりなす、ひそやかな〈記録〉。

斧の手太郎

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むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました
その日もいつものように、おじいさんは山へ柴刈りに
おばあさんは川へ洗濯に行きました
おばあさんが汚れた着物をごしごしこすっていると
なんと上流から大きな桃が流れてきましたので
おばあさんはそれを拾って持ち帰りました
夕方、帰ってきたおじいさんが元気のないようすだったので
おばあさんは、どうかしましたか、とたずねました
おじいさんは、一日働いたのにこれしかとれなかった、と言って
カゴの中身を見せました
たしかにほとんど柴が入っていません
わかい頃はもっととれたのになあ
これでは冬が越せるか心配だ、とおじいさんはため息をつきました
おばあさんは、きっとなんとかなります、と励ましたあと
それよりおじいさん、今日は川で大きな桃を拾いました、と言いました
おじいさんは、その桃の大きさにおどろきながらも、すっかりお腹が空いていましたので
どれ、割ってみようか、と言って包丁を取り出しました
すると、その桃がふるふると震えているのです
ふたりはおそろしくなって飛び上がりましたが、それでも中身が気になります
それで、おばあさんが桃の肌に耳を当ててみると
なかからドクドクと心臓の鼓動のような音が聞こえました
なかにはなにか生きものがいるかもしれません、とおばあさんが言うと
おじいさんは目をまん丸くして、おばあさんと同じように耳を当てました
たしかにドクドクと音がして、内側からじわじわと温かいような気がするのです
これは大変だ、何が出てくるかわからん
おじいさんはこう叫んだあと
気味が悪いから捨てなさい、と言いました
するとおばあさんは、そう言わないで、まずは中を見てみましょう
と言って、サクサクと桃の実を切っていきました
すると、中からぱっと光が漏れて
飛び出してきたのは、男の赤ん坊でした
まあ、なんてかわいいんでしょう、とおばあさんはその子を抱きあげます
おじいさんは驚いてしりもちをつき
よく見てみなさい、その赤ん坊の手、おかしいじゃないか、と言いました
たしかに赤ん坊の左右の手がついているはずのところには
うすっぺらな金属の板のようなものが見えます
形とすればちょうど、斧のようです
おばあさんは、そのふたつのちいさな斧のようなものを
自分の手のひらで包んでやり、触っても痛くないですよ、と言いました
おじいさんは、おばあさんがうれしそうに抱いている赤ん坊の顔をのぞいてみました
すると、その顔が、どこか自分に似ているような気がするのです
それでおじいさんは、
その斧のようなものがほんとうに触っても痛くないのをたしかめてから
うちで育ててみようか、と言いました
ふたりにとってはじめてのこどもは、太郎と名付けられました

それからふたりは一生懸命はたらいて子育てをしましたので
太郎はぐんぐんと大きくなりました
そこで、困ったことが起こりはじめたのです
成長するにつれて太郎の両手の斧がかたくなり
遊んでいるときに友だちを傷つけてしまうようになったのです
たとえば太郎が追いかけっこの鬼をしていて
友だちをつかまえようとしたときに、ザクリ
あるいは虫取りで大きなカブトムシをつかまえたので
うれしくて肩を組もうとしたら、ザクリ
まわりのおとなが止めようとしても、そのおとなも怪我をしてしまうくらい
太郎は、まことにあぶないこどもでした
太郎の父親であるおじいさんは
大きな事故を起こす前になんとかしなければ
と思い、役所に相談することにしました
おじいさんが、うちの太郎は両手が斧になっていて、人にけがをさせてしまいます
親だけでは心配ですので、役所でどうにかできませんか、とたずねますと
担当の男は、それでは息子さんを連れてきてください、と言うので
おじいさんは、太郎を役所につれてきました
担当の男は、太郎のピカピカと光るふたつの斧をじっと見つめて
こんなものは役所ではどうにもできません
親のほうでなんとかしてください、と言いました
帰り道、おじいさんと太郎はとぼとぼと歩いていました
そして、もうすぐ家に着くという頃、おじいさんがふりかえると
太郎がさめざめと泣いているのです
おじいさんは思わずかけよって、太郎の肩を抱きました
斧が当たって腕から血が出ましたが、そんなことは気になりませんでした

それから何年か経ったある日のこと
ついに太郎は友だちにたいへんな怪我を負わせてしまったのです
おじいさんは太郎を叱りました
おばあさんは何があったのかを問いました
太郎はしばらくだまっていましたが、とつぜん立ち上がって
おふたりにはわからないことです、とかおを真っ赤にして言い
ドシドシと足音を立てて出ていってしまいました
なんと大きなからだ、なんと怖いかお、なんと固そうな斧
そのときおじいさんは、太郎をはじめて怖いと思いました
そして、もしあの大きなからだで斧をふるってきたら
もう自分には止めることができないだろう
だれかに襲いかかったら大変だ、と考えました
おじいさんは三日三晩寝ずに考えた末、太郎を川に流してしまおうと決めました
おばあさんは、おじいさんが悩んでいるのをよく知っていましたから
川から拾ったものだから川に返そう
とおじいさんに言われたとき、だまってうなずいたのでした
数日が経った朝、太郎はひょいと帰ってきました
おじいさんが、きょうは晴れているし釣りに行こうか、と声をかけますと
太郎はうれしそうに返事をしました
おばあさんは台所で涙をこぼしながら大きなぼたもちをつくりました
そして、布でつつんで、太郎の腰に結わえつけてやりました

おじいさんと太郎はふたり並んでつり糸をたらし
たのしい時間をすごしました
あの川上からおまえが流れてきて、おばあさんが拾ったんだぞ、とおじいさんが言うと
おかあさんありがとう、と太郎は言いました
そして、おとうさんも、このあいだは叱ってくれてありがとう、とつづけました
おじいさんはとても切ない気持ちになるのをこらえながら
敷いていた筵をバサリともちあげて
あっというまに太郎を巻きあげてしまいました
そして、筵に巻かれた太郎を、ドボン、と川に流してしまいました
おじいさんは太郎が見えなくなるまでそこに立っていましたが
日もとっぷりと暮れてきましたので、よろよろと家に帰っていきました

筵に巻かれた太郎はどんどんどんどん流されて
海の向こうのちいさな島の浜辺に打ち上げられました
目を覚ました太郎は、斧で器用に筵をやぶって立ち上がり
ぶるぶるとからだをふるって、着物の水をしぼりました
あたりには、何もない草っぱらが広がっていました
それでもしばらく歩いていると、高台のほうに
煙の上がっている屋敷を見つけましたので、行ってみることにしました
ところがそこは、大鬼の家だったのです
おい、おまえ、勝手におれたちの島に入ってきて何者だ
と、きばをむきだしにした大きなかおを近づけて、大鬼が言いましたので
太郎は、すみません、わたくしもたまたま着いたもので、と頭をさげました
すると鬼は、近ごろはどろぼうが多くてかなわない
おまえがそうでないという証拠を出せ、とすごみます
それで太郎は、わたくしがどろぼうなんてとんでもない
これをさしあげましょう、と言って
腰元についていたぼたもちをさしだしました
すると大鬼は、ひさしぶりのたべものだ、と滝のようによだれをたらし
おばあさんのつくったぼたもちを、うまい、うまい、とたべました
太郎が、大鬼さまは裕福なのに、たべるものもなかったのですか、とたずねますと
大鬼は、今年は雨がひどくて畑も田んぼも全滅だ、と言いました
そして、大きな障子をバッと開いて
ほら見なさい、下のほうの集落は、大水でぜんぶ流されてしまった
残ったのはこの屋敷だけだ、と泣くのです
太郎はおどろいて
あの草っぱらはただの草っぱらじゃなかったのですね
わたくしに何かできることはありますか、と聞きますと
大鬼は、おまえは立派な斧をふたつも持っているじゃないか
それで、こわれた家をなおしてやってはくれないか、と言いました

太郎はそれから何年もかけて
大水でこわれた家々をどんどん直し、荒れた田畑を耕しました
むらじゅうの鬼が、はたらき者の太郎にたいへん感謝をしていました
大鬼は、おまえの斧はすばらしい、と感心し
なにも不自由はさせないから、ずっとここに住みなさい、と言いました
けれど太郎は、わたしには帰る場所があります、と答えたのです
大鬼はたいそう残念に思いましたが
それではお礼にこれをやろう、と言って金銀財宝をつつんでやりました
翌朝、太郎は自分でこしらえたちいさな舟で、島から旅立つことになりました
おおぜいの鬼たちが浜辺で見送ってくれます
大鬼が大きく手をふると、太郎もふたつの斧をふりました
それに太陽があたってきらきらと光るのが、いつまでも鬼たちには見えていました

それから数日後の明け方
太郎は、おじいさんとおばあさんの暮らす家へ帰りつきました
ひさしぶりのわが家は、すこし古びて見えました
太郎が、わたくしです、と言って戸をたたきますと
おばあさんはすぐに飛び起きて、戸を開けてくれました
太郎はまた一段と成長し、斧もピカピカに磨かれて光っています
おばあさんは、たいへん立派になりましたね、と言って
太郎を抱きしめました

しばらくして、おじいさんが起きてきますと
川に流したはずの太郎が朝ごはんを食べているので、腰を抜かしてしまいました
太郎が、おはようございます、ただいま戻りました、とあいさつすると
おじいさんは、せっかく安心して暮らしていたのに、と涙声で言いました
しかしおじいさんは、太郎のとなりに置かれた包みをめざとく見つけたのです
そして、それはなんだ、と太郎にたずねました
太郎はにんまりと笑って、鬼にもらった金銀財宝を広げます
これはすごい、とおじいさんは目をきらきら光らせました
すると太郎は、おとうさんも鬼ヶ島に行けばもらえますよ
おとうさんは柴刈りがお得意ですから、きっと活躍できます、と言いました
そして、あっという間におじいさんを筵に巻き
ひょいと担いで川へと走り、水の中へ放りなげてしまったのです
太郎はふたつの斧を大きくふって、おじいさんを見送ります
おじいさんはあっという間に流されていき、とうとう帰ってきませんでした
ぶじに鬼に会えたのか、海の底で暮らしているのか、誰にもわかりません

その後、太郎は、鬼にもらった金銀財宝を貧しい人たちに配ることにしました
金銀財宝をもとめる列には、あのとき怪我をさせてしまった友だちもいました
太郎のせいで腕がふたつともないのです
太郎は、過去のおこないを必死にあやまりました
すると友だちは、なに、もういいんだ
おまえはあのときも、ちゃんとあやまりに来てくれたじゃないか
それより太郎、おれはずっとおまえの斧をバカにしていて、すまなかった、と言いました
そしてふたりは、たがいの人生の苦労を思い、抱きあって泣きました

今日も太郎はピカピカの斧で田畑を耕し、おじいさんのぶんまで一生懸命働きます
腕のない友だちは、足を使って器用に作物をとります
おばあさんは、太郎たちがつくった作物でおいしいごはんをつくります
太郎はいつまでもしあわせに暮らしました

Natsumi Seo

 「斧の手太郎」は、語り継ぎの民話である「手斧息子」と「嘘吹き太郎」に着想を得た創作物語となった。もとになっているのは、『日本の昔話3 ももたろう』(福音館書店、おざわとしお再話)に収録されている「手斧息子」と、民話採訪者の小野和子さんに聞いた「嘘吹き太郎」だ。前者は手斧の手を持った子ども、後者は極端な嘘つきの子どもが主人公。もちろんふたつは違うお話なのだけど、大きな共通点がある。変わった特徴を持った子どもが周囲の人を困らせるので、父親がわが子を捨てようとする、という点だ。このことについてはのちほどまた触れるとして、まずはなぜこれらの話を扱いたかったのかを書きたいと思う。

 「嘘吹き太郎」について教えてくれた小野和子さんは、宮城県内を中心として、村々を訪ね歩いて出会った人たちから民話を聞き、記録することを約50年間も続けてこられた。そして彼女はかならず、お話それ自体だけでなく、語り手自身の生活のことや、むらが持つ背景なども丁寧に聞き、記録をしてきた。わたしはこの数年、小野さんが発足当時から牽引してきた「みやぎ民話の会」の集まりに参加させてもらっており、小野さんや会のみなさんが、民話採訪の現場で気づいたことや話し合ってきたことについて聞くのが好きなのだ。

 ある日、「民話の会」が主催するイベントに関する話し合いの席で、民話の中の子どもたちは異形である、という話が出た。とても小さなからだを持つ一寸法師、流されてきた桃から生まれる桃太郎、タニシの姿をしたツブ息子。かれらは特異な姿と状況で、子のない、貧しい老夫婦に授けられる。小野さんは、異形の子どもたちは、もしかしたら障害のある子どもたちだったのかもしれない、とおっしゃった。そして彼らの多くは、お話の中で何かしらの差別や困難に遭うのだけど、最後には親から自立して生きていくのだと。

 わたしはその話を聞いて、どこか救われるような気持ちになっていた。というのも、自分のきょうだいに障害を持つHくんがいて、彼の成長について感じていたことと重なったからだ。Hくんには重度の知的障害があり、現状、家族(彼と同居している両親と妹、とくに母親)が一緒にいないと “ふつう”の生活どころか、生きていくことさえできない。そんなHくんを献身的に支え、彼が安心できる暮らしを維持している家族には頭が下がる。一方でわたしは、きょうだいとして彼を身近に支えていく未来を想像しつつ、生まれた頃から家族との関係にあまり変化がないまま、他の同世代と比べて圧倒的に世界が小さいままで20歳を過ぎた彼が、本当はどんなふうに生きたいのかを知りたいと願っている。ここで使う“本当”という言葉はとても荒唐無稽なものだ。というのも、Hくんは、みんなのようには言語を扱うことができない。言語のない世界では、自分が何を感じているかを整理することも、自分の願いや考えを他者に伝え、共有することも難しいと思う。いまの日本の社会状況で“ふつう”に暮らすには、言語中心のコミュニケーション能力と、何かしらの技術や知力が求められるから、Hくんはいつも大変な思いをしているように見える。とはいえ、いまは不便を感じないくらいに、周囲からのサポートを受けられているかもしれないけれど、もしもそれがなくなってしまったら、という不安は、Hくん自身がもっとも強く感じているはずだ。でも、それもどうしたってわからないところがある。だって彼は言葉を喋らないのだ。

 だから家族の会話では、Hくんの気持ちをそれぞれが推し量り、それぞれが勝手に語っているところがある。もちろん彼がもっとも離れがたい存在である母親は、彼の気持ちを重々理解したうえで、Hくんはしあわせだ、と言ったりする。それを聞いたわたしは、きっとそうなのだろうな、と思いつつも、彼女の発言の背景にある複雑さを考えてしまう。いまも母の生活は、彼を中心に回っていると言える。見た目はまったく健康な状態で生まれたHくんが障害を持っているという事実を認めるところから、母には大変な葛藤があったと思う。それから人生の多くの時間を費やして向き合ってきたHくんが“しあわせ”であることは、母の強い願いだろうし、それが否定されてしまうことは、母にとって、自分の身が切られるように辛いことだと思う。母とHくんはまったく別の人格を持った個人である。それは母自身も、周りの人間も論理的に理解している事実だ。けれど、とくに障害を持ち、まだ親から離れては生きていけない状態にある子どもと、親の人生をまったく分けて語ることは難しい。Hくんのきょうだいとして、母とHくんの関係を見てきたわたしはそう感じている。

 わたしはずっとふたりの関係の繊細さと、それによって生じる危うさが気になっている。けれど、そのことについて直接問うのには迷いがある。いまのところ家族(とくに母親)がいないと生きていけないHくんだけど、わたしや妹は、将来どのように彼と一緒に暮らしていけるのだろう。当たり前のように、日々そのことが頭をよぎる。けれど、そんなことで悩むのは、わが家ではルール違反である。両親は、障害のあるきょうだいを持つことで負うハンディのようなものを、わたしたちに感じてほしくないのだから。Hくんに障害があるとわかった時から、母は、あなたたちは自分の人生を生きていいんだよ、と語ってくれていた。わたしはそれがうれしかったし、いままでHくんの存在を重荷だと感じたことはない。でも、いつかは具体的な支援の仕方を話し合わなければならない。そう思いつつ、まだわたしは自分のことにばかりかまけている。家族という小さな共同体が抱える問題については、そこに関わる全員が中心的な当事者なので、誰かに本質的な問いを投げかければ、すぐに質問者にも跳ね返ってくるからしんどい。もちろん外部の支援はたくさんあるけれど、いまのところHくんの生活に関わることは、基本的にはわたしたち家族が決めていかなければならないだろう。

 2019年6月、元農水相の官僚が引きこもり状態だった息子を刺殺してしまった。加害者である父親は、その3日前に川崎市登戸で、引きこもり状態だったとされる男が通り魔事件を起こしたのを報道で知り、強い不安を感じていたという。わたしは実家の居間で家族とご飯を食べながら、その事件のニュースを見ていた。母はため息をつきながら、このお父さんの気持ちはわからないでもない、とつぶやいた。父もうなずく。わたしは、悲しいよね、と相槌を打ち、Hくんはいつも通りこだわりの味付けを施した冷やし中華をすすっていた。

 いや、違う、とわたしは思った。どんなことがあっても、子どもは親に殺されてはいけない。しかし、いまの社会状況では、親がみずからの手で子どもを殺すところまで追い詰められてしまうことがある。なぜそうなってしまうのか、わたしにだって想像できる。しかし、それでも、どんな形で生まれても、子どもは親から自立できる。民話は、その可能性を多様な形で語ってくれているのではないか。わたしは、いつか「民話の会」の集まりで聞いた、数々のお話を思い出していた。


 ここで、冒頭で触れたふたつのお話について書いていく。おざわとしおさんが再話している「手斧息子」は、沖永良部島で岩倉市郎さんが記録した話なのだが、こちらは、帰ってきた息子が川の石で手足をこすると刃物が取れて、息子は立派な若者になり、両親と暮らしていく。対して宮城の「嘘吹き太郎」では、戻ってきた息子は父親を(おそらく、結果的に)殺してしまう。その後も調子よく嘘をついてお金持ちになるのだが、自分のためにまぶたを泣きはらした母親とのやりとりで嘘をつくことの悪さに気づき、その後は働き者になって母親と暮らしていく。どちらかと言えば前者の方がわかりやすい形でハッピーエンドなのだけど、刃物が取れると立派な若者になる(しかも本人が、「おれの体は、このとおり、ちゃんと人間の体になりました。もう心配いりませんよ」と宣言する)という展開は、障害を持つ当事者と家族にとっては辛いものがあるように感じる。対して宮城の「嘘吹き太郎」の父親は気の毒だけど、そもそも世間様の目を気にして、みずから息子を殺そうとしている。どんな理由であれ自分の存在を脅かす親を、子どもは残酷なかたちで、すっきりと越えていく。そして、特別に立派になるのではなく、自分自身のこれまでの行いを省みて、成長し、ふつうの生活を送っていく。わたしはこのお話が好きだ。民話は決して正しいことだけを語ろうとしない。ときに残酷で、矛盾だらけで、とても理不尽だ。けれど、どこかでその話に救われるからこそ、無数の生活者たちが、連綿と語り継いできたのだろう。

 小野和子さんは、民話が “障害を持つ”子どもたちを、こんなにも親しみを込めて描いている、という謎に向き合う時、翻って、人間はどんな者でも、(社会との間で)障害を持っているのだということを考える、ともおっしゃった。わたしたちはみな、“人間”はみな、“こまった存在”なのだ。

 わたしはいつかHくんと、「手斧息子」や「嘘吹き太郎」のような、さまざまな“こまった子どもたち”を主人公にしたお話について、語り合ってみたいと願う。

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます