声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語 / 瀬尾夏美

伝えたいのに言葉にできないことがある。それでも、ふいに「語り」が立ち上がり、だれかに届く瞬間があるとしたら……。 土地の人々の言葉と風景を記録してきたアーティストが、喪失、孤独、記憶をめぐる旅をかさねた。 語る人がいて、聞く人がいる。ただそのことから生まれる物語と、著者の視点による「あと語り」がおりなす、ひそやかな〈記録〉。

特別な日

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 11歳の8月15日、わたしたち一家は自宅を解体していました。家屋疎開と言って、来たる空襲による炎が延焼しないように、あらかじめまちの一帯を更地にしておくのです。その期限が、8月15日でした。そのためご近所さんたちはすでに解体を終えており、わたしたちの家だけが残っていたので、みなさんが作業を手伝ってくださっていました。数ヶ月前に、戦地に行っていた叔父が戦死したという報せが入り、祖父は叔父、つまり自分の息子の葬儀をこの自宅でやりたいと強く願っていたのです。しかし結局それは叶わないまま、この日を迎えることになりました。国からの命令に背くことなど、誰にもできなかったのですから。家の解体が進み、最後に残った柱はとても立派なものでした。わたしはそれ以前のことをよく知らないのですが、祖父の代から洋品店を始め、一時繁盛して改築を重ねて、なかなかに大きくなった店でした。家業と日々の暮らしを支えた柱に綱をかけ、それを引く大人たちの誰からともなく、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏という声が上がり、その言葉が連なっていったあの瞬間が忘れられません。あの時、わたしと一緒に少し離れた場所からその様子を見ていた母も手を合わせていたので、わたしもまた母の真似をして手を合わせて、ぎゅっと目を瞑って祈りました。叔父さん、さようなら。わたしたちの家、さようなら。

 ズズン……柱が倒れる低い音がして、高く上がった土煙を呆然と見つめていると、やがて、スッキリと晴れた青空が現れました。その屈託のなさが、幼心にもひどく悲しかったのを覚えています。

 そうして午前中のうちに作業が終わり、まさに出来立ての更地で、手伝ってくださったみなさんにすいとんを振る舞っていたときのことです。壊した家の木材を重ねて火をつけ、それで鍋を煮ていました。母はどのようにしてあの具材を調達してきたのでしょうか。久方ぶりに、汁には肉のかけらが浮かんでいて、穏やかな歓談のひとときがありました。しかし、そこでわたしたちは、ついに戦争が終わったことを知るのです。誰がどこから持ってきたのかわからないラジオが、ザーザーとひどい雑音を響かせていました。そして、途切れ途切れに聞こえてくる声を繋ぎ合わせるようにして、その語りの意味を拾い上げた大人たちが順々にくずおれていき、肩を震わせるのです。そのときのわたしは、何が起きているのかさえよくわかってはいませんでした。でも、ただならぬ事態だということは感じていたはずです。ラジオの放送が終わり、その場にしゃがみこんだり天を仰いだりしている大人たちの姿を、わたしは黙って見ているしかありませんでした。

 そのとき、隣にいた母が、戦争が終わったのよ、とつぶやいたのです。ギリギリと握った拳は小刻みに震えていましたが、その口元は少しだけ、綻んでいるようにも見えました。

 更地から、わたしたちの戦後が始まったのです。元の土地の半分以上が道路に取られることになったので、残った土地に建てたうなぎの寝床のような細長い小屋で、わたしたち家族は暮らしました。祖父は町内の外れに残った小さな家に、叔父のための立派な仏壇を拵えると、その家に篭り気味になりました。父と母は、必死に働きました。わたしが夜起きると、いつも仕事部屋から明かりが漏れていて、カタカタとミシンが動く音が聞こえてきました。経営していた店で雇っていた従業員たちと、一族の生活がその両肩にのし掛かったために、父はつねに強張った顔つきをしていました。それまでの、とても柔和な顔をした、ときに冗談を語るような朗らかな父は、すっかりいなくなってしまったのです。

 あの日から何日経っていたのか定かではありませんが、戦争が終わってから初めて学校に行った日のこと。わたしが大好きだった若い女の先生が、黒板に大きく、自治、という二文字を書きました。当時はその意味がよく掴めていませんでしたが、これまでとは何もかもが変わるのだ、ということはわかりました。

 教科書の墨塗りもしました。さあ、違う世界が始まる。これまでのことは、もう忘れてしまわなくては。先生の指示で、教科書の文字を一行一行塗りつぶしている時、わたしはとても無邪気でした。あちこちが黒く染まって見えなくなるのを、どこか清々とした気持ちで楽しんでいました。そのうちに、確かにそこにあったはずの言葉たちが、身体に刷り込まれるように繰り返し語られた物語が、わたしたちが生きた過去の時間が、真っ黒に染まり、見えなくなっていきました。その途方のなさには胸が詰まりました。墨の匂いが鼻の奥にツンと沁みて、わたしはぽろぽろと涙を流したのです。

 それから大人になったわたしは、物語を強く求めるようになりました。確かさを探して歩き、出会った人びとに尋ねるのです。あなたが本当に大切だと思う物語を教えてください。かつて祖先から伝え聞いた話を聞かせてください、と。

    *

 ぼくは、宮城県を歩き、民話を聞き、記録を続けている方にお話を聞きました。彼女はとても凛とした人で、見ず知らずのぼくを自宅に招き入れ、11歳の頃の記憶について話してくれました。ぼくは彼女に、とても会いたかったのです。新聞記者という職業を選び、日々の取材に追われているぼくは、50年あまりもの間、何かに突き動かされるように祖先の語りの記録を続けている彼女に強いリスペクトを持ち、憧れているのです。しかしぼくは、彼女の話を聞いて大変感激する一方で、どこか落ち込んでいました。ぼくには、職業的な立場上、取り組めていないことがたくさんある。いくら話を聞かせてもらっても、ほんとうに大事だと感じたことは、新聞には書くことができないという場合がほとんどなのですから。

 なぜ彼女に11歳の記憶を尋ねたのかといえば、ぼくの人生史は、11歳の頃に体験した阪神・淡路大震災がつねに軸となっているような感覚があるからです。ぼくは、大阪で生まれ育ちました。1月17日の明け方、突き上げるような感覚で目を覚まし、慌ててテーブルの下に潜ると、親が覆いかぶさるように守ってくれたという記憶から始まります。そして、そのまま起きてニュースを見ていると、長田地区の火災の様子が映ったのです。さほど遠くはない場所、いつか遊びに行ったことがあるようなまちで、大変なことが起きている。それなのに、ぼくは暖かい部屋でテレビを見ている。あんなに大きな地震があって、見知ったまちが燃えていても、大阪のまちなかは通常運転のようでした。当時通っていた小学校が進学校で、生徒が関西圏のあちこちから来ていたために、被害のひどかった地域に暮らす他学年の子か、もしくはその親御さんが亡くなったという話を、いつか先生から聞いたはずです。また、通っていた塾の警備員さんを最近見ないなと思っていたら震災で亡くなったようだということ、そして、遠縁の親戚が芦屋の方で被災し亡くなったということも、しばらく経ってから知ったのでした。こちら側にはふつうの日常があって、少し離れた向こう側には震災という現実がある。当時のぼくはこんな言葉を持ってはいなかったと思いますが、震災の数年前にバブルの崩壊も経験していたので、幼心に、世界のもろさ、というものを感じていたように思います。

 それからぼくは、被災したまちが復興していく様子を横目で見ながら育ってきました。とくに神戸は、大阪の学生たちがよく遊びに出かけるまちなので、友人や恋人と一緒にきらきらと明るい通りを歩き、楽しい時間を過ごす度に、ああよかったなあと、11歳の1月17日を思い出していました。とくに互いに口にすることはありませんでしたが、他のみんなも同じ感じだったのではないでしょうか。

 大学を卒業し、ぼくは子どものころから憧れだった新聞記者になることが決まりました。そして、東京にある本社で新人研修を受けているときに、東日本大震災に遭いました。高層ビルならではの、大きく激しい揺れに驚きつつもなんとか机の下に潜り、パニックになった同僚たちの叫び声を聞きながら、ぼくはやはりあの日のことを思い出していました。

 ぼくたちはその夜、会社が用意した車に乗せられて北上しました。緊張の隙間で寝落ちしたぼくが、上りつつある太陽の眩しさに目を覚ますと、窓の外にはぼんやりとした光に照らされた、灰色のまちが横たわっていました。風に運ばれてくる強い潮の香り、何もかもが混ざった不快な臭い、けむる砂埃。そしてぼくたちは、無慈悲にも被災地のど真ん中で、車から降ろされたのです。激しく緊張しながら、ぼくが初めて取材をしたのは、行方のわからない家族を探す男性でした。ぼくはまったくの新人で、あまりに無力でした。報道することの意義はもちろん頭では理解しているつもりだけれど、彼にいま話を聞くことが本当に必要なのか、確信など持てませんでした。何の役にも立たないぼくが話しかけ、立ち止まらせ、語ってもらうことで、彼を傷つけているかもしれない。いや、たぶん、絶対にそうだ。そのくらいのことは、当時のぼくにだってわかりました。それでも重苦しい声でぽつぽつと続けられる会話が、とても申し訳なく、悔しく、居た堪れなかったのです。

 それから数週間に及ぶ被災地取材ののち、ぼくはもともと赴任予定だった四国に移りました。そして、阪神・淡路大震災から20年のタイミングで希望を出して神戸に移り、今度は東日本大震災10年のタイミングで仙台に戻ってきて、取材を重ねているというわけです。ぼくは、あの頃よりはすこしだけ、自分にできることがわかっているような気がします。だから、話を聞かせてもらいたいのです。ぼくは、とても聞きたいのです。だから、ここにいます。

 自分が早口になりすぎているのに気がつき、ぼくはハッと顔をあげました。50歳ほど年の離れた、とても尊敬する人を前にして、ぼくはいつの間にか、ぼくの話をしつづけていました。長々と自分のことばかり話してしまってごめんなさい。ぼくにできることは少なくて悔しいのですが、とぼくがつぶやくと、長年村々を訪ね歩き、語りの記録をしてきた彼女は心配そうな目でこちらを見ながら、わたしもね、思いがけず阪神・淡路大震災の話を聞かせてもらって、ありがたいですよ、と言って頷きました。ぼくが、この人はいつもこうやって、人の話を聞いてきたのだろうなあと感じ入っていると、彼女はこう続けました。こっちの震災の話も聞きたいと思っているんですけどね、わたしはこの通り歳をとってしまったから、あちこち歩けないの。必ず残さなきゃならない語りが出てくるのは、これからずっと先のことなのにね。

 彼女の言葉に深く頷いたぼくは、できるだけ背筋を伸ばしてから、最後にひとつだけいいですか、と切り出しました。戦争が終わって70年以上の時間が経ちましたが、残すべき語りとは何だったと思いますか。すると彼女はうーんと首をひねり、宙を見つめて、わたしも戦争の話はだいぶ聞いてきたんですよ、でもね……と言ったあと、しばしの沈黙を選びました。時計の秒針が叩くコツコツという音を、どれくらい聞いていたでしょうか。それでぼくが、すみません、おかしな質問でしたね、と前言を撤回しようと小さく息を吸った時、彼女は真っ直ぐに目を向けて言いました。それはやっぱりまだまだ、わからないことなのではないかしら。

 その数日後、ぼくは、2011年3月11日に11歳だったという青年に出会いました。その日は小雪交じりの寒い日でした。仕事の合間に趣味の釣りをしようと埠頭に立つと、隣にいた彼との世間話が始まりました。そこで、お兄さんは何をしている人ですか、と問われたので、最近は11歳の記憶を聞いて歩いているのだと冗談交じりの口調で答えました。すると青年は、おれは2011年に11歳でした、と言いました。そして、あの日もこんな天気でしたね、とふと目線を空中に泳がせたので、ぼくはすかさず、あの日はどんな日だったのですか、と尋ねました。彼は、地震の揺れの直前の様子から、たんたんと話しはじめました。教室の斜め前の席にいた友だちと目が合って、すこし笑ったこと。校庭に避難するために廊下に並んだとき、ずぶ濡れの友だちがいたのでどうしたのかと問うと、めだかを飼っていた水槽が落ちてきたと答えたこと。避難してきた近隣住民らと一緒に小学校の屋上から、黒い、まるで巨大な壁のような津波を見たこと。そして、数日後に自宅跡地を見に行ったこと。おじいさんとの別れのこと。

 青年の一言一言が辿る描写の細やかさにぼくが驚いていると、彼は、こういう話、あんまり人に話すことってないんですよ、と言って笑いました。最近はもうないんですけどね、あの日からずっと、毎日毎日、寝る前に思い出していたんです。おかげでもう自分はあの日の出来事を忘れてしまうことはないっていう確信を得たから、自分としては、もう話さなくてもいいかなと思っているんです。それに、おれみたいに直接被災した人が震災の話をすると、みんな気を使うでしょう。彼は一気にそう話して、戸惑いつつも無言で相槌を打つぼくを特に気にすることもないまま、さらに続けました。

 それよりも、お兄さんの11歳の記憶を教えてくださいよ。おれは、聞きたいです。ずっと自分の記憶ばかり繰り返し思い出して、何度も何度もおんなじようなことを考えてきて、それが特別なことだと思いすぎてきたから。周りの人たちからも、特別なことだと思われすぎてきたから。正直、飽き飽きなんです。ほかにももっと大事な記憶もあったかもしれないのに、忘れてしまったような気がするんです。それが、ちょっと悲しい。だからおれ、もう、あの人にも聞いてみたいんです。あの人でも、あっちの人でもいい。あなたが11歳のときの、大切な記憶はなんですかって。

 そう言ってあちこち指を差したあと青年は、数十メートル離れた場所にいた釣り人の親子のもとへ駆け寄って行きました。ぼくが驚きつつも、青年の後を小走りで追いかけていくと、思いがけず親子はおだやかに青年を受け入れ、突然投げかけられた質問に、素直に首をひねっていました。父親が、あなたはいま11歳でしょう、何か大事な出来事はあった? と息子さんに尋ねました。明るい緑色のパーカーのフードとマスクの隙間から覗いている男の子の小さな瞳がしばし揺れたあと、彼は、牛の頭骨のデッサンが描けたことです、と弾むような声で答えました。それを聞いた青年は、わあ、それはすごいね、とうれしそうな声でつぶやいきました。そして、一瞬沈黙したあと、いつかその絵をおれにも見せてね、と言って、分厚い手袋をした右手で、目尻に溜まった涙を拭うのでした。

僕の特別な日
©Natsumi Seo

 2021年はずっと、現在11歳の人から92歳の人まで、60名以上の異なる年齢の人たちに、11歳の記憶を尋ねていた。以前から話を聞きたいと思っていた知人を中心に声をかけて話を聞き、またその人に友人知人を紹介してもらう“友だちの輪”形式で出会いをひとつひとつ得てきた。そして、聞き返し、書き起こし、語り手とやりとりをしてその文章を読み合わせる日々を送った。インタビューの内容は、基本的には11歳の記憶を中心にしながらも、それぞれがこれまでに見てきた時代とその変遷、または家族や友人との関係性やエピソードなど、思い入れのある風景などにも及んだ。個々の人生史のかけらを不意に受け取ってしまうような時間は、本当に得難く、とても豊かだった。じつは、ここでまとめた聞き書きやインタビューの映像などを中心に構成した作品『11歳だったわたしは』(小森はるか+瀬尾夏美名義)は、先日までせんだいメディアテークで開催されていた展覧会『ナラティブの修復』に出品していた。

『ナラティブの修復』展 せんだいメディアテーク

 なぜ11歳の記憶を聞こうと思ったかというと、東日本大震災後の人びとの語りを記録してきたわたしなりに、ひとつの仮説を持っていたからだ。それは、11歳前後、つまり小学校高学年の頃に体験したことが、その人の、その後の人生に大きな影響を及ぼすのではないかということ。なぜかはわからないけれど、わたしはこの10年間でよく、11歳前後で体験したことについて考えつづけている人によく出会ってきた。

 「東日本大震災と自分の人生は切り離せない」と語る大学生。阪神・淡路大震災の支援活動の調査をしている研究者。戦争についての膨大な資料を収集しつづける語り部。みな11歳で、その出来事に出会ったのだと教えてくれた。前述の大学生は、東京の小学校で東日本大震災に遭い、強い揺れに怯えながらも、未曾有の出来事に対しては大人たちもなす術がないことを悟り、ただ子どもらしく無邪気にふるまうしかなかったと話した。子どもという立場だけれど、大人の気持ちも想像できる。何が起きたかはある程度理解しているけれど、自分だけではできることが少ない。悔しくても、悲しくても、困っていても、あるいはうれしくても、喜んでいても、うまく言葉で表せない。11歳という宙ぶらりんになりがちな年齢で出会った出来事だからこそ、あれはなんだったのだろう、どうしたらよかったのだろうと、そののちも考えつづけてしまうのかもしれない。

 このような仮説から始まった聞き書き漬けの日々だった。正直に言えば、「結局11歳とはなんだったのか」と問われても、わかったことはまだほとんどないのだけれど、これは大事だと感じたことがいくつかあったので、今回はひとつだけ書いてみる。それは、11歳という年齢を辿ろうとするとき、痛みの記憶が現れてくることが幾度もあったということ。大人になってしまうことへの怖さ。それでもこれまで通りの無邪気な自分には戻れないし、留まれないという不安感。同じ年齢であるために、ほぼ同時期に同じように不安定になるクラスメイトたちとの関係性に悩んだり、それまで気にならなかった家族の行動や言動が癇に障るのだけど、うまく話し合えずにぶつかったりもする。いろいろな事情が重なって、ふとした拍子に自殺をしようとした経験があると語った人は、全体の10パーセントほどもいた。


 意識的にでも無意識的にでも、痛みの記憶が語られるインタビューの空間は、外のざわめきからは切り離されてとてもしんとしていて、どこか神聖な雰囲気がある。語り手とともにそんな場を持てたことへの高揚感はあるのだけれど、その後日、録音データを聞き返していると、匿名といえどもこれは書いていいことなのだろうかと考え込んでしまう。しかし、そう迷いつつも、これらが大事なものであると感じていたからには、やっぱり書きたいと思う自分がいる。それに、もう語られたのだから。つまり、書かれることを前提とした場に託された言葉たちなのだから、書いてもいいはずだし、むしろ、書くことを避けてはいけないのではという気がしてくる。語り手はきっと、試してみたのだ。自分の大切な記憶が、この人(聞き手であったわたし)を通して形になり、後世に残る可能性があるのだろうかということを。それでわたしは、痛みの記憶については、語り手が感じた痛みの度合いが下手に矮小化されることのないように気をつけながら、あえて表現を和らげずに書いてみることにした。出来た原稿を語り手に送り、緊張しながら返信を待つ。その反応は様々だったけれど、結果的には、痛みの記憶を記述した部分について特別に言及されたものはなかったと思う。もしかすると、語り手にとってはその記憶が身近なものすぎて特筆すべきことでもなかった、ということがあるのかもしれない。一方で、こうしてあらためて文章になったものを読むと、よくここまで生き延びて来られたなあと思い、うれしくなりました、というようなお返事をいくつかいただくこともあった。わたしはその言葉にホッとすると同時に、ひとつの問いが生まれてくる。わたしはこれまで被災地域で聞き書きのようなことをしてきたけれど、いつもどこかで痛みの記憶を描くことに躊躇し、ときには書かずに隠したままにしてきたのではないか。いま振り返ってみれば、痛いけれど大切な記憶を語ってくれた人たちにとって、わたしが選んできたその方法は、あまり誠実ではなかったと思えて苦しくなる。これはおそらく、語り手の尊厳に関わることだろう。

 これは語りを聞くときにいつも感じることだけれど、大抵の場合、語り手は聞き手よりも何枚も上手うわてで、聞き手がどこまでのことを引き受けられるのか、引き受ける気があるのかということを、語りの場に言葉を託しながら試している。もちろん、それが引き受けられずに消えていくことがほとんどだと承知したうえで。だからせめて聞き手は、受け取ったものが大切な語りであることを自覚し、できる限り誠実なふるまいとは何かを問いつづけながら、相槌を打ったり、時には書いたり、語り直したりしてみるしかないのだと思う。

 大人と子どもの端境期にある、11歳の記憶を振り返るという危うげな時間を、多くの人たちと過ごすなかで、わたしはそのことにやっと気がつく。痛みだって、その人を確かに形成する大切な一部なのだから。

 さまざまな痛みの、あるいは痛みではなくても繊細な記憶を抱えながら生きる無数の人びとが、この社会でともに暮らしている。聞き書きの効用のひとつは、語り手と聞き手がやりとりを重ねるなかで、両者ともに自分自身に向き合いながら、さて、わたしたちはこの世界に何を残したいのだろうかと思案する時間が持てることだと思う。またその結果として、当事者と非当事者、体験と非体験者、わかっている者とわかっていない者といった単純化されたカテゴライズをとりのぞく契機ともなるはずだ。共感したり反発したりしあうなかで、互いの複雑さをあらためて取り戻していく時間。それは、日本社会における“特別な日”(たとえば1月17日や3月11日、そして8月15日など)をより個人的な体験として捉え直すことでもあるかもしれない。

 まったく違う体験をし、物事に対して異なる反応をする者同士が出会い、対話をするための土台のようなものを、互いに聞き、書きあうことによって、またそれを物語ろうと試みることによって、つくってはいけないか。

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます