未整理な人類 どうにもとまらない私たち / インベカヲリ★

人間は不可解な生き物だ。理屈にあわないことに、御しがたい衝動をおぼえることがある。逸脱、過剰、不合理……。私たちの本質は、わりきれなさにあるのではないか? 気鋭の写真家・ノンフィクション作家が、〈理性の空白〉に広がる心象風景をつづるエッセイ。

(最終回)「水槽学」的考察

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 先日、とある雑誌で取材を受けたら、ライターとしてやってきた男性がふいにこんなことを言った。
 「僕は自分がサイコパスなんじゃないかと思うときがあるんですよ」
 おお! 一体何を言いだすのか。
 聞けば、彼はアクアリウムが好きで、一人暮らしの部屋に水槽3つを置いて魚を飼育しているという。魚には、一緒に入れてはいけない種類というのがあるが、彼はそれをあえて一緒くたにして飼うのが好きなのだそうだ。当然、喧嘩したり食べられたりする魚が出てくるが、それが良いのだという。
 彼は熱く語る。
 「魚には、魚を演じてほしくない。ちゃんと魚をしてほしい。魚が演技をするわけじゃないけど、手を入れただけで寄ってくるような魚ではダメなんです」
 飼いならされたペットにはなってほしくないということか。魚が卵を産めば、隔離して稚魚を育てるのが普通だが、彼はそれも同じ水槽に入れて眺めているという。
 「稚魚は、ほかの魚に食べられてしまうから、時間が経つとだいたいいなくなる。でもそれが良いんです」
 とはいえ、彼はただ放置しているわけではない。水も取り換えるし、病気になったら薬もあげる。魚たちが暮らせるよう管理はしているわけだ。 
 「ただ、そこで起きる殺戮に関しては干渉しない。これが真のアクアリウムだと思ってる」
 つまり、水槽という人工的な環境の中で、魚たちに自然の摂理を味わわせているのである。
 「でもこれって、凄く大きなくくりで見ると、世界で起きてることだと思いません?」
 そう言われて、私はハッとした。拡大したら、ウクライナで起きていることそのものではないか。独裁者の管理下で同じ人間同士を戦わせ、その殺戮を世界中が鑑賞する。それこそがアクアリウムだと彼は言っているのだ。
 「僕は魚のことを愛してる」
 私はヒヤッとした。水槽はまるで、彼が支配する独裁国家だ。その手のひらの上で、魚たちは荒々しく生き、弱い者は淘汰されていく。
 彼が飼育している中で、もっとも殺伐としているのは、淡水魚を入れた水槽だという。そこでは、クチボソという小さな魚が、大きなニゴイをいじめている。最近、そこへチョウセンタナゴを投入したところ、同種同士で、大きなタナゴが小さなタナゴをいじめているそうだ。逆に、大きなニゴイはみんなに優しく、餌もほかの魚に譲ってしまう。その温厚な性格が仇となり、小さなクチボソから攻撃を受けているというわけだ。
 「ごめんねという気持ちと、君が悪いんだよという気持ちの両方がある。そんなにゆったり泳いでいたことが悪い。真面目に生きてたの? って思う」
 こうして、生き残りをかけた戦いをする魚たちを見て、彼は満ち足りているのである。
 「たまに、自分はサイコパスかな? って思うけど、よく考えると普通だと思う。僕はおかしくない。変じゃないよ。だって、みんなもそうでしょう?」
 これが人類の姿なのか。アクアリウムに、人間の真理があるということなのか。
 「これって人間らしさだよなと思うし、人間の悪いところだよなとも思うし、人間の良いところだよな、とも思うんです」
 そして、最後に彼はこう言った。
 「僕は水槽飼育を止められない」
 私の脳裏には、ブゥゥゥンという稼働音が不気味に鳴り響く四畳半の薄暗い部屋で、大きな水槽を眺める男の姿が浮かんだ。だが、期待して写真を見せてもらうと、お洒落な水槽がセンス良くレイアウトされた明るい部屋で、クソッと思うのであった。


 
 アース製薬は、「殺虫剤」という言葉を止め、「虫ケア用品」と呼び名を変えたらしい。ホームページには、その理由として「虫はケアするべき健康リスク」だからと書かれているが、意味がよく分からない。おおかた「殺」という字に抵抗があったからではないか。人類は、殺しが楽しくてたまらない。己の殺意を直視したくないがために、必死に目を逸らしているだけではないのか。不自然な自主規制の裏には、人間のやましさが隠されているはずだ。

 水槽学的に考えると(そんなものないけど)、人間はどうも環境を作って管理したい欲求があるようだ。
 私のいる日本、東京、23区という括りはもちろん、町内会にまでさまざまなルールがある。例えば、ゴミ出しの場所まで細かく決められ、ちょっと間違いも許されない。国民には番号がつけられ、何かあれば監視カメラで行動がチェックされる。
 我々は、「万人の万人に対する闘争」が起きないよう、完璧に管理された中で、「さぁ、自由に暮らせ。人生をサバイブせよ」と言われているのだ。
 そのうえ人間は、自分たちだけでなく、動物まで管理している。野良犬は殺処分され、野良猫は地域猫と称して数が増えないよう去勢される。野生動物は、絶滅したり増えすぎたり、あるいは人間を襲う個体になったりしないよう、命が調節される。

 この世は巨大な水槽だ。水槽の中にいながら、さらに小さな水槽を作り、その社会を眺めて楽しんでいる。人間は、水槽から出ることはできないのだろう。


 
 朝日新聞の記事によると、ある中学校では、生徒たちの手首にリストバンド型の端末をつけ、脈拍のデータから「集中度」を計測するという試みをしているらしい。生徒たちの集中度は、教員の端末に即座に反映され、一人づつ波型のグラフで表示される。波の振れによって、眠気やストレスなどが計れるのだそうだ。この試みは、授業の改善や、生徒自身の「振り返り」に使うことを目的としているという。
 だが、本当は誰もが気づいているはずだ。集中度合いなど、本人が一番分かっているということに。それに、測定して振り返ったところで、つまらない授業に集中できるわけでもない。それとも、数値を上げるために、レッドブルでも飲ませるのだろうか。

 人間は、自分たち人間を管理したくて仕方ないようだ。その欲求は、テクノロジーの発達によってどんどん形を変え、より高度になっていく。欲求そのものを抑える方向には進化できないのだろう。
 
 もっとも、私はこの記事を読んで閃いたことがあった。せっかく、このような便利な技術があるのなら、授業改善のためではなく、性犯罪を起こすロリコン教師の早期発見のために開発すればよいのだ。そのほうがよっぽど有意義ではないか。
 先日も、四谷大塚の塾講師が、小学生女児にわいせつな言葉を言わせて動画を撮影したり、自宅住所をロリコン仲間と共有するなどの行為が発覚して逮捕されたばかりだ。
 似たような事件は頻発しており、2021年度に子どもに対する性犯罪や性暴力で懲戒処分を受けた公立学校の教員は、93人だという。発覚しただけでこの数だから、水面下ではもっといると推定される。
 世の中では、ジャニー喜多川の性加害問題でもちきりだが、義務教育では生徒が逃げられないのだから、教員による性犯罪のほうが、よほど対策が急務なのではないだろうか。
 こうした事件が起こることで、学校や塾や幼稚園や習いごと教室等々、あらゆる子どもを相手とした商売は戦々恐々としているはずだ。ペドフィリアが一人紛れ込んで事件を起こすだけで、企業としては大打撃だからだ。
 もしも、この端末を使って脈拍を計測し、子どもと接したときの波の揺れで、危険度を「見える化」できたら、授業改善なんかよりもよっぽどありがたがられるし、世界中で飛ぶように売れると思うのだが。
 人権やプライバシーの面で抗議が来たら、既に中学生で実験しているという実績を印籠のように掲げればいい。中学生は良くて、大人はダメとは言えないはずだ。


 
 世の中には良い変態と、悪い変態がいる。というと語弊があるので、私が個人的に興味を惹かれる変態と、嫌悪感しか持てない変態がいる、くらいに考えてもらおうか。
 悪い変態は、被害者に致命的な傷を与えるが、良い変態は、時に私を笑顔にする。

 2023年9月24日、福岡県古賀市で、下半身を露出した男たち約20人を目撃したという通行人からの通報があった。男らは、全裸が約10人、ガーターベルト着用が約10人で、9月24日現在も逃走中だという。
 もっとも、全裸で歩くことが法で認められていれば、彼らは果たして全裸になるだろうか? なったとしても、きっとその悦びは半減するに違いない。
 実は、水槽の中で暮らす人間たちは、社会規範に縛られることへの抑圧から抜け出そうとする過程で文化を生み出している。彼らは、ルールで縛られれば縛られるほど、そこから逸脱する快感に身もだえするのである。完全なる自由など、おそらく変態たちは求めていない。

 「生まれ変わったら道になりたい」という言葉で有名な盗撮犯が、3度目の逮捕となった。その、無職・男性(36歳)は、2023年9月14日、側溝の中で四つん這いになって潜んでいたところを警察に発見された。彼は過去に2回、側溝の中に寝そべり、女性のスカートの中をのぞきこんで逮捕されている。
 おそらく彼は、側溝に入れるのなら、逮捕などもろともしないのだろう。逆に、彼から側溝を取ったら、生きる目的がなくなってしまうかもしれない。

 みなそれぞれの方法で、水槽の中で生きのびようと必死なのである。


 
 生きのびると言えば、最近はインボイス制度がはじまるということで、私は生きのびれるのか不安になっている。こうも税金の仕組みが複雑すぎると、私の頭では理解が追い付かず、生きていく自信がなくなってくるのだ。社会は、一般市民がみな頭が良いはずだと思い込みすぎではないだろうか。
 もしも、インボイス登録者の全員が、確定申告を手書きで提出して、一斉に書き間違えたとしたらどうなるのだろう。役所の作業が追い付かず、新しい形のボイコットとなりえそうだ。ルールができたところで、国民が言われた通りに動かなければ、効力はないのである。
 そうした意味において、引きこもりは強い。

 第三次世界大戦がはじまるなどと言われるけれど、日本には引きこもりという強い味方がいる。赤紙が来たとしても、彼らは絶対に動かない。3.11では、津波が来ても部屋から出なかった猛者がいたくらいだ。命をかけて引きこもっているのである。
 日本に無気力な若者が大量に溢れれば、ただそれだけでボイコットになる。そう考えると、彼らは社会活動をしているともいえる。動かないけれどアクティビストだ。

 大規模な自然災害が起きたら、社会のルールも一発で無効になるだろう。
 私は地球滅亡に立ち会える自信はないが、生きている間に富士山噴火ぐらいはあるのではないかと思っている。
 オカルトの世界では、「富士山の噴火を止めているのは私だ!」と公言している人物が何名かいるらしい。彼らがいなければ、とっくに噴火しているのかもしれない。
 もしも噴火したら、東京には灰が積もり、住める状態ではなくなる可能性がある。あるいは、関東の人口の半分くらいが死ぬということもあるかもしれない。
 芸能人が半分いなくなったら、テレビはどうなるのか。私はテレビを見ないけれど、タモリがいなくなった後のテレビは想像がつかない。情報一つとっても、我々は細かく管理されているのである。

 その管理が、もしもなくなったら? 市民が一斉に水槽の外へ放たれたとき、私たちは何を始めるのか。そこで暗躍するのは、社会規範に汚染されていない、引きこもりたちかもしれない。

*ご愛読有難うございました。本連載を加筆訂正の上、書下ろしを加え書籍化する予定です。

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。