東京の中野は、怪文書の多い街だ。
JR中野駅を降り、人の流れに沿って歩くと、壁や電柱、地図看板の裏やガードレールといったあちこちに怪文書が見られる。グラフィティのようなお洒落なものではなく、落書きというほど適当ではない。やはりそれは怪文書だ。筆跡や掲示の仕方にそれぞれの癖があるので、こういうことをしている人が、何人かいるのだろう。
想像できない人のために、まずは写真を見せよう。
中野では主に、紙に印刷してコピーを貼るというスタイルが主流のようだ。内容はもっぱら‟魂の叫び系”と‟政治批判系”で、全体的にはトランプ、小池百合子、小室圭さんなどの悪口が目立つ。かつては安部晋三もよく見られたが、銃撃事件後に一斉に街から消えてしまった。
これら怪文書は、定期的に清掃員によってはがされてしまうため、いつまでも残っているわけではない。逆に、新作は次々と出てくる。新型コロナウイルスの感染者がピークだった頃は、ドッと増えた感があったが、残念ながらそのときの狂騒は撮り逃してしまった。不安を抱えた人々にとって、こうした行為はある種のセラピー効果があるのかもしれない。
もっとも、これらは見慣れてしまうと日常の風景だ。ほとんどの中野区民は素通りするし、話題にものぼらない。あるいは、目を向けたら終わり、というプライドがどこかにあるのかもしれない。
そもそも怪文書の大半は、センスがない。よくもこんなクソ面白くもない文言をでかでかと書けるなと思う。肥大した自意識をぶつけられて腹が立つ。私も芸術家なので、見る目は肥えているつもりだ。
だが、そんな中に、突出した文学性と芸術性を持つホンモノがひとりいる。しかも、怪文「書」ではなく、現場に直で書くスタイルだ。私が最初にそれを見たのは、実は中野ではなく、ふたつ隣の大久保駅のホームだった。そのときの衝撃は今でも忘れられない。ハッとして立ち止まり、しばらくその前から動けなくなった。2019年末頃のことである。
成長する筋力で感じる鉄の重力
一篇の詩のようであるが、これが書かれているのは大久保駅ホームの鉄柱だ。電車という、鉄の塊が走る駅のホームの鉄柱に「鉄」の話を書くというセンスに私は脱帽した。鉄をテーマに、言葉だけでなく場所までもが表現のなかに組み込まれている。まるで街を使ったインスタレーションのようだ。
私はこのとき、ジム通いの青年が酔っぱらって書いたのだろうと考えた。だが、いたずらでこのような詩的な文章が書けるものだろうか。
見かけたのがちょうど年末だったため、年明けすぐに写真を撮りに行った。しばらくすると、駅の清掃員によって綺麗に消されていた。目立つ場所だったので無理もない。消される前に、写真を撮っておいてよかったと心から思った。
まさかその後、次々と同じ作者の詩に出会うようになるとは、このときは夢にも思わなかった。
二度目に見かけたのは、同じくJR中央線大久保駅のホームにある鉄柱だった。見た瞬間、同じ人物が書いたものだとすぐにわかった。
先生にあったらなんて言うんだ
前作とは打って変わって切羽詰まった様子である。ここからわかるのは「先生に会う予定がある」ことのみ。そして、作者が困っていることだけが伝わってくる。
これは明らかに、鉄柱に書く必要のない言葉だ。私はこの二度目の目撃をきっかけに、落書きではなく「作品」であることを了解した。
鉄の素材に書かれていることから、一連の作品群を「鉄柱詩」と名付け、作者を「鉄柱詩人」と呼ぶようになった。
てっきり大久保駅のホームのみで行われているのかと思ったら、探してみると活動拠点は意外にも広かったようだ。3度目に見たのは、新宿の京王百貨店近くにある横断歩道前の地図看板だった。
「感動理屈」という本を小学館に送った
筆跡を見れば、同じ作者であることはすぐにわかった。
こちらも、そこはかとなく切実さが漂う一節である。調べてみたが「感動理屈」という名の本は存在しない。自作の本を小学館へ送ったということだろうか。「感動理屈」とはどういう意味だろう。感動は、理屈より先に湧き上がってくるものではないのか。彼のロジックは、世間一般のものとはだいぶかけ離れているようだ。
ちなみに、当たり前のように「彼」と書いたが、これら鉄柱詩は、私の目線よりいくらか高い位置に書かれているため、想定される身長から男性だと判断している。
次に見たのは、中野駅の北口と南口をつなぐガード下の鉄柱だった。雷に打たれたような衝撃とはまさにこのこと。私は今でも、鉄柱詩における名作中の名作だと思っている。
アザラシがうたれた いたみだけを あつめいるとされていた
身体を撃たれ、痛みだけを集めるアザラシ。そして、童話のような過去形である。なんて、切なくロマンあふれる一節だろう。アザラシは比喩なのか。それとも人間社会と野生動物の過酷な関係を言っているのだろうか。意味が読み取れないにもかかわらず、心の奥深くを激しく揺さぶる。
しかも、いつもは黒マジックで書かれているのに、消え入りそうな鉛筆文字だ。その佇まいもまた作品の雰囲気とマッチしている。ガード下、鉄、鉛筆、という素材選びにもこだわっているのだろう。
この作品は目立たないこともあり数年のあいだ放置されていたが、残念ながらここ最近になって綺麗に消されてしまった。
私が鉄柱詩人の作品を本格的に探しはじめたのはこの頃からだったと思う。最初の目撃場所に立ち戻って、大久保駅ホームにある鉄柱をくまなく見て回ったところ、普段は意識することのない駅名看板の正面に描かれているのを見つけた。それが、この作品である。
つきじしょかんに「地球」という本を送った
どうも彼は、あちこちの出版社に本を送っているらしい。「地球」という書籍は特定できなかったが、それよりも気になるのは築地書館だ。中央区築地に実在する出版社である。刊行されている本のラインナップを見ると、確かに「地球」「人類」「海」などのワードが多く、自然科学系の本を専門としていることがわかる。大手出版社だけでなく、専門性の強い出版社にも注目しているとは、やはりかなりの読書家なのだろう。
これまでの発見場所を見ていくと、中野、大久保、新宿と、中央線沿いであることがわかる。ある日、私はJR中央線に乗り込み、各駅に下車して、ホームの端から端までの鉄柱を見て回ることにした。街で探すには範囲が広すぎるが、駅構内に書かれている確率が高いことを考えれば、比較的妥当な探索方法ではないだろうか。予想は的中し、この日はなかなかの収穫だった。
まずは本丸、中野駅のホームだ。ほとんど消えかかっているので、かなり昔に書かれたものなのだろう。解読するのに苦労した。
2代目さわむらとうじゅうろうは 自転車おきばのあった場所から いんしょくてんに 気流をながす けいやくをしていた
二代目澤村藤十郎とは、歌舞伎役者のことだ。その彼が、気流をつくる契約をするという話である。いや、ここで意味を理解しようとするのはナンセンスだろう。むしろ気になるのは、これまでの作品から見えてくる鉄柱詩人の人物像だ。「二代目澤村藤十郎」「築地書館」のワードから、文学や演劇を好むインテリであることがわかる。また、ある程度の年配者であるように思う。
中野駅のホームでは、他にもいくつかの作品を見つけた。
かきとりの大将は 小岩のきおくをひっぱっている
文字の癖が強いため「かきとり」か「やきとり」か、判断に迷うところだ。「かきとり」であれば、かつて荻窪にあった牡蠣と鳥を扱う居酒屋が予想される。一方、「やきとり大将」であれば高円寺にある居酒屋だろう。どちらも中央線沿線にあるため、判断が非常に難しい。「小岩の記憶」が意味するところはわからない。
アルソックには経ざいの方法から感動理屈にのらさない
「感動理屈」は二度目の登場だ。だが注目すべきは、ホームセキュリティのALSOKではないだろうか。これについては、たびたび言及しているようだ。
例えばこれ。
アルソックのせいたいかつどうの未来予想にT.Oをかかわらさないとどうなるか せいたいかつどうの気流の成長の考え方がアルソックにない
アルソックの未来にかんする話である。T.Oとは、何者だろう。
この鉄柱は、スターバックス中野通り店の前に立っており、よく通る道だったので、私は前日には書かれていなかったことを確認している。そして翌日には消えていた。結果的に、たった一日しか公開されない幻の作品となってしまった。さすがスターバックス。店のイメージを損なうものはすぐに消してしまうようだ。
ちょうどこの頃、私は『週刊新潮』の「週刊新潮掲示板」というページで、鉄柱詩の目撃情報を求める記事を出している。もちろん情報提供者は一人もいなかった。
また同時期、ツイッターで「鉄柱詩」アカウントを作成し、見つけるたびに写真をアップして解読を試みるようになった。するとある日、フォロワーからこんなコメントが飛んできた。
「T.Oは、トップオタのことだと思いますよ」
トップオタ。聞いたことがない。調べたところ、トップオタクの略で、オタクに認められたオタク、その界隈における代表的なオタクという意味らしい。
もしそうであるなら、「セキュリティシステムの開発にトップオタクをかかわらせなければどうなるか」という問いかけになる。彼は、過激なオタクからアイドルを守るためにALSOKはトップオタクの意見を聞くべきであり、そうでなければ企業に成長はない、と言っているのだろうか。
それにしても、文学好きな鉄柱詩人が、そんな俗っぽい用語を、しかも略称で使うだろうか。いぶかしく感じたが、その後も「T.O」は、頻発された。
アルソックにT.Oのえんしゅつさすな
こちらは、先の作品と非常に近い場所に書かれていた。シンプルに読めば、「ALSOK にトップオタクの演出をさせるな」と怒っていることになる。
また、中野駅北口前ロータリーの鉄柱には、このような詩が長々と詠われていた。
歌ったらかねにするとかってのも 歌うのをさもなかったらその歌っての 気流せおって つかえるとなってはいけたの 歌ったらの前にその歌いてを利用していた 年月にはちゃんとしたコミュニケーションが必要だ
間延びしすぎて途中で読むのに飽きてしまうが、「歌」というのはひとつヒントになる。下記の作品と合わせると、彼が音楽制作にかかわっていることがうかがえる。
こちらは、中野駅北口の壁に描かれた一作。
津で30曲はいいのがありそれをICレコーダーでろくおんしたのをけされたが歌詞をかけというならなぜその前にけしたのか
「津」とは、三重県津市のことである。津市で30曲つくってICレコーダーに録音したが、何者かによって消された。その上で「歌詞」をつけろと要求されたので怒っているという話だ。
ちなみに、同壁には住所も書かれていた。
個人情報保護のため、テキスト化は控えよう。
私は長年、鉄柱詩を追いかけているため、筆跡だけで同一人物の作品かどうか見分けられるつもりだ。しかし正直、この筆跡に関しては、言葉が短すぎるために自信がない。文字もいつもよりカクカクしている気がする。グーグルマップで検索すると、確かにこの場所には、昭和に建てられたであろう一軒家が存在する。彼が中野を拠点に活動していることを考えれば、生家である可能性もなくはない。だが、それ以上の追求は止めておこう。私が追いかけているのは、彼自身ではなく作品なのだから。
しばらく旧作の発掘が多い日々だったが、久々に新作と出会った。なぜ新作とわかるかというと、もちろんそれまでなかった場所に登場したからである。
こちらは中野駅北口の地図看板に書かれた、鉛筆文字の二作品。
野村証券の人のにぎりそうなパフォーマンスからいろいろな人達の損失がくは空間損率
「野村証券」ではじまり「空間損率」で終わる。四字熟語を効果的に使うことで、全体をグッと引き締めている。鉄柱詩人らしさを感じるユニークな作品である。
さらに、その隣にも力作があった。
ATMをこわしたのはベッキーでレベッカ側だ
混沌としたこの世界を一文でみごとに表している。読むものを迷子にさせる一行詩こそ、鉄柱詩人の真骨頂ではないだろうか。
そしてなんと、この隣の柱にもハイレベルな作品が書かれていた。別日に発見したが、おそらく同日に書かれたものだろう。
区長と公務員それぞれのすがお
このような奥ゆかしさが、鉄柱詩人にもあったことにまず驚く。区長と公務員の素顔に思いを馳せる区民が、彼のほかにどれだけいるだろうか。
中野ばかりではない。新宿駅の出口の壁にも二作連続で増えていた。この頃は、新型コロナウイルスによる外出自粛が促されており、新宿にもあまり人が歩いていなかった時期だ。開放的な気分になったのか、かなり大胆な長文を書いている。
新宿の会社のどれくらいが さがやが借用書をかくすことにせいこうしているのかどうか
「さがや」は人名だと思われるが、新宿で金を借りまくってるのだろうか。
アルソックはホテルルートインの安西を利用し他人の声をいつわらせてロボットにごかいさせていた
こちらもホテルルートインの安西という、かなり具体的な人名を出しているが、「声を偽らせロボットに誤解させる」という、妙にほのぼのした展開である。
さらに、すぐ近くの自転車放置禁止区域看板からも発見された。
(撤去日)する予定日か。した日か。
元からある文章に書き加えるという、非常に新しい手法を使っている。末尾に「。」をつけるのも珍しい。筆跡だけでは判断が難しいところだが、この作風はやはり鉄柱詩人だと言わざるを得ない。
また新宿では、西口や南口あたりを中心とした地図看板からもいくつか見つかった。
インターバルをすうとしたにんぷがこのあたりによくあらわれていた
いつもは余白に書かれているが、こちらは地図そのものを効果的に使っている。花園神社の近くに、妊婦がインタバールをする場所があるのだろう。
バレタコトが伝わっていたかどうか
バレたうえに、それが伝わったことを危惧しているようだ。
俺の成長をうたがわない
比較的、不安や迷いについて表現することが多い鉄柱詩人だが、ここではなぜか自信に溢れている。文字が薄すぎてほとんど読めないのは、言葉に躊躇いがあったからではないのか。
ところで、これらが書かれているのは、基本的に人の流れが多い場所だ。通行人の目線がいきやすい場所をあえて選んでいるように感じる。よく捕まらないものだと感心するが、恐らく彼はササっと書いて、数秒足らずでその場から立ち去っているだろう。このライブ感も鉄柱詩人の特徴である。
なかでも圧巻だったのは、三井住友銀行中野支店の壁だ。中野サンプラザやドン・キホーテ中野駅前店に向かう通りであり、昼夜問わず人が多い。放置自転車が散乱し、道幅も狭い場所だ。誰にも目撃されないなどということは、まずありえない。
さすがの鉄柱詩人も焦りのなかで書いたのか、文章の途中で縦書きから横書きに変化し、歪みすぎてほとんど読めない。ひょっとすると、前を向きながら後ろ手で書いたのかもしれない。
何で銀行員にはじげんの–にうといの-いるの
大事な部分が解読不能だが、三井住友銀行の行員について言及しているのだろう。
この頃は挑戦的な気分が高まっていたのか、行動が大胆になっていたことがうかがえる。例えばこの地図看板。二作あるうち、長文については文字が歪みすぎて読めなかったが、どうも北川景子とイノシシとミカエルについて言っているようだ。それはさておき、問題はこの場所である。
殺人をしたのを他人とするなら法的なとっけんは解じょ
なにが凄いって、この地図看板、中野駅南口交番のすぐ横にあるのだ。
警察官が常時4人は在駐する駅前交番である。私も拾った財布を届けたことがあるが、「鍵をなくした」「Suicaを拾った」などなど、ひっきりなしに人が集まってくる人気交番だ。その横でこれだけの長文を書くというのは、ちょっと想像がつかない。しかも、短文のほうは殺人に関する記述であり、やや左翼的な印象も受ける。
また偶然なのか、この付近では殺人への言及が多く見られた。こちらは、交番の先にある中野郵便局の鉄柱。文字が薄くて写真にはほとんど映らなかったが、近づいて見るとハッキリと見える。
人殺しをかばわないとするたてまえの思考とは
殺人犯について、国家権力に訴えたいことがあったのだろうか。
緊急事態宣言にも慣れ、電車に乗らない日々が当たり前になっていたある日、知人からとんでもない知らせが届いた。なんと鉄柱詩人の作品を亀戸で見たというのだ。まさか、そんな遠い場所で!? 冗談かと思ったが、考えてみれば亀戸駅も中央線とつながる中央・総武線が通っている。あり得ない話ではない。急がないと消される可能性もあるため、私はすぐに飛んで行った。
情報によると、亀戸駅北口を出てすぐの地図看板にその作品はあるという。確かに地図看板は存在するが、何も書かれていなかったため、私は周辺をグルグルと周り、その前を何度も通り過ぎた。しかし、どうも駅前の地図看板といえば一カ所しかないらしい。私は近づいてよくよく目を凝らし、そして一歩引いたところで「あっ!!」と声を上げた。あまりにも大胆に書いているため、地図と同化してまったく目に入らなかったのだ。
小津はバーナーをどうおもってたかを日高屋はどうおもったのか知らんでいいが身体が苦しい人のまわりではちょっと気にしよう
地図の真んなかを横断するように、ダイナミックに筆を走らせている。まるで風を切るようだ。
「小津」とは、亀戸の「古石場文化センター」内にある「小津安二郎紹介展示コーナー」のことだろう。バーナーとは何だ? と思ったら、同地図上にある二作目にヒントがあった。
日高屋はバーナーをしていた もうどうけんバーナーとか言っていた
「バーナー」とは、盲導犬のことだった。
この二作を連句のように考えると、日高屋亀戸店にて盲導犬を連れた客を見ているひとりの男の姿が浮かび上がる。彼は中華を食べながら、「日高屋の店員と小津安二郎が、盲導犬をどう思ったのかを自分が知る必要はない」と考え、しかし「身体の不自由な人のことはいたわろうよ」と思ったわけだ。
彼は、その心象風景を駅前の地図看板に走り書きし、総武線に乗りこんで帰路についたのである。
鉄柱詩人の轍を追いかけるようにして私も亀戸駅のホームに佇むと、なんともう一作品見つけてしまった。まるで奇跡のような出会いだ。
かぜのかなぶんをあつめるとかいってるのが亀戸にいんのか
「風邪のカナブン」という言葉の美しさに心を打たれるが、それを集めてイキってる奴が亀戸にいると聞いて怒っている。これほどの透明感を持った怒りを、私はほかに見たことがない。
私の脳内にイメージされる鉄柱詩人は、文学、動物、経済を愛し、この世界から2ミリほど浮いた場所で独自の宇宙を築いているような人物だ。
ところがである。私はあるときふと気づいてしまった。
「カナブンを集める」「アザラシが撃たれた、痛みだけを集めているとされていた」、これらの表現が、任天堂のコンピュータゲーム『あつまれ どうぶつの森』のことを言っているのではないかということに。
いや、まさか、そんな。あれほどの作品を生み出した人物が?
ここで、「トップオタ」というワードが再び脳裏を駆け巡る。ガッカリか。いやガッカリじゃない。私の心は右往左往した。この現実をどう受け止めたらいいのだろう。
実はここ最近、鉄柱詩の新作を見かけることをほとんどなくなってしまった。アーティストにはノっている時期というものがあるが、彼のピークは過ぎたのかもしれない。あるいは私が、無意識に探さなくなってしまったのだろうか。そんなつもりはないのだが。
久々の出会いは、そんなある日のことだった。信号待ちをしながら、ふと目をやると、見慣れた鉛筆文字が地図の余白を走っている。心臓が高鳴り、身体が震えていくのを感じた。それはまさに、「実は凡人なのでは」という疑念を一蹴する、最新作にして最高傑作だったからである。
場所は、これまで何度も前を歩いていた中野サンプラザ裏の地図看板。安部元首相が銃撃され、国葬反対の声が強まり世の中が沸き立っていたまさにその頃。詩人は、握りしめた鉛筆で、現代の世相をこうつづったのである。
これはどのくらいの税金とのかかわりがあるのか ぜいむしょ員のまつげの上に安倍はいた
なんて清らかな表現だろう。「税務署員のまつげの上」などと、ほかに誰が言えるだろう。
私は胸がいっぱいになった。
現在、鉄柱詩人は昔ほど頻繁には表現活動をしなくなってしまったようだ。よほどのことが起こらないと筆をとらなくなったのか、あるいはどこか別の街へと引っ越したのか。残念ながらこの作品が、私が最後に見かけた鉄柱詩となってしまった。2022年9月上旬のことである。
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