未整理な人類 どうにもとまらない私たち / インベカヲリ★

人間は不可解な生き物だ。理屈にあわないことに、御しがたい衝動をおぼえることがある。逸脱、過剰、不合理……。私たちの本質は、わりきれなさにあるのではないか? 気鋭の写真家・ノンフィクション作家が、〈理性の空白〉に広がる心象風景をつづるエッセイ。

うまく定義できない何か

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 芸術と犯罪と症状は、「表現」という意味でどれも似ている。随分前からそんなことを考えていた。
 
 私は、美術に関する勉強はしてきていないけれど、写真家ではある。作品づくりは表現行為そのものだ。その表現欲求の初期衝動がどこから出てくるのかと言えば、抑圧されていた感情の爆発だったと思う。形にして見せなければ、考えていることが伝わらないから作品にしているのだ。

 犯罪はまさにそうだろう。万引きにせよ殺人にせよ、どれも出どころは一緒で、言いたいことが伝わらないから行動になる。自分の思っていることが理解されるなら、問題行動を起こす必要はなくなるのではないか。犯罪の直接の被害者が「言いたい相手」とは限らない。むしろ親をはじめとした、人格形成にかかわる人びとへの間接的な表現であることが多いと思う。

 では病気の症状はどうか。一つの説として「言いたいことを抑えているから病気になる」と言われている。自分が本当に思っていることを表現すれば、症状が消えるということもあるらしい。これはメンタルでもフィジカルでも言える。人間の身体は、感情を抑え込むとバランスを崩すようにできているのだろう。

 「言いたいこと」を自覚できている人は少ないと思う。それに比べて、表現ははるかに自由だ。勢いに任せて描いた絵や文章のなかに、自分がよく表れていたりする。逆に「言葉」にしようとすればするほど、どこまでが本心なのか疑わしくなってくる。言葉を操ることは、意外と難しい。

 さて、そんな話から入ると、さもこの連載が芸術と犯罪と症状をテーマにしたものだと思われるかもしれないが、そういうわけではない。
 世の中には、綺麗にまとめられることなどほとんどない。混沌として意味不明で、言葉で言い表すことが難しいもので溢れている。
 人間は一番のブラックボックスだと思う。他人のことも自分のことも、突き詰めていくと何もわからない。むしろ、‟止めたくても止められない”ものにこそ人間の本質は現れるのではないか。

 この連載では、そうしたものを、綺麗にまとめることなく書き投げてみようと思う。


 記憶にある最初の芸術体験は、保育園時代に遭遇した「路上のトマト事件」だ。
 ある朝、保育園に行くため母親と一緒に環状七号線沿いの歩道を歩いていると、アスファルトの真ん中に、トマトが1個置いてあることに気が付いた。なんということだろう! それまでトマトというものをスーパーや食卓でしか見たことのなかった私は、アスファルトの上にトマトが置いてあるという状況にとてつもなく興奮した。‟捨てられている”でも‟転がっている”でもなく、それは確かに置いてあったからだ。幼児ながらに、「これだ!」と思った。もちろんこのとき、芸術などという言葉を知っていたわけではない。それでも、身震いするような感動と衝撃は、すぐれた作品に触れたときのそれと同種のものであったことは間違いない。
 私はこの感動を伝えようと、必死に「凄い! 凄い!」と叫んだが、それ以上の語彙力があるはずもなく、美大出身であるはずの母にはまるで通じなかった。あまりに大騒ぎして喜ぶ私に、「次の日のお弁当にトマトを入れる」という返しが来て、私は失望した。当時の私は、トマトが嫌いだったからだ。
 感動した理由は、街なかで遭遇した違和に対してであり、アスファルトの上にあるものは、鮭の切り身でも、ハンバーグ定食でも、豆腐1丁でも、なんでもよかったのである。私はこのとき、自分の持っている感性は、他者には伝わらないのだと悟った。

 もっとも当時の私が、「違和」との関連に気がつけていたわけではない。そのトマトを持ち帰って、家の庭のあちこちに配置してみたが、どうにもあのときの感動が蘇らず、これはどうしたものかと酷く困惑したことを覚えている。

 ときが経って、21歳頃から写真を撮り始めたが、私の写真表現には「なぜそんな場所に、こんなものがあるのか」という表現がやたらと多い。ブランコに乗ったお寿司や、水溜まりを泳ぐ金魚、ショッピングデートの格好でロッククライミングをする女性、などといったものだ。
 まさか、あのときのトマトが原体験になっているとは思わないが。

©インベカヲリ★

 

 表現行為というものは、‟なんだかわからないけど、やらないと自分の人生が成立しない”何かだと思う。例えば、人に見せることを前提としない表現であれば、私は日常的に行っている。思っていることは全部ノートに書いてしまうし、思春期の頃は、それはたびたび自動書記になった。手が勝手に動くので、それを見て自分が今なにを考えているかを知る、という状態だ。
 何だかよくわからない行動にこそ、その人のパーソナリティが表れる。そして、ときにその行為は犯罪になってしまう。

 2010年、横浜市の青葉区役所敷地内にある郵便ポストに、高野豆腐2丁を入れたとして、51歳の女が逮捕された。同様の事件が以前より相次いでおり、張り込んでいた郵便局員によって取り押さえられたという。

 事件のポイントはやはり高野豆腐だろう。正確には、高野豆腐のほかにも、空の弁当箱や割り箸などのゴミも入れていたようだが、そんなつまらない情報は私の耳がスルーした。ここは高野豆腐一択でいって欲しい。茶色で、平たく、乾燥した高野豆腐は、なるほど確かにハガキっぽい。これを郵便ポストに入れるという行為に、どこか詩的なものを感じてしまう。
 
 芸術の世界には、「ハプニング」と呼ばれるジャンルがある。1950年代から60年代を中心に展開された前衛芸術運動で、一回性を重視した演劇的出来事というような説明をされる。日本では芸術家集団「ハイレッド・センター」などが有名で、1964年に行われた「首都圏清掃整理促進運動」では、白衣姿で銀座の歩道を雑巾がけするなどのパフォーマンスが行われた。ほかにも、前衛芸術家のダダカンは、1970年の大阪万博で、会場を全裸で走りまわったが、これも「ハプニング」である。
 この説明で伝わっただろうか。「路上のトマト」との違いは、作品の場合、そこにはコンセプトが存在するということだ。

 しかし私には、高野豆腐を毎日ポストに入れる行為も、それに準ずるものに見えてしまう。犯人は「郵便局を困らせたかった」と供述しており、無理やりこじつけるならこれがコンセプトに当たるだろう。
 郵便局を困らせたいほどの怒りを抱いているなら、それを言葉で伝えれば済む話である。しかし、正論などというものを、そもそも人類は求めていない。やはり表現行為、この場合は問題行動になるからこそ「何か」を感じてしまうのだ。


 もっとも、表現行為が犯罪になるのは、法に触れた場合のみだ。通常はそうはならない。

 以前、私の作品の被写体になってくれた女性がいた。お母さんは、彼女が子どもの頃から統合失調症だという。かれこれ30年以上も患っており、その症状は刻々と変化している。あるときは「タヌキが憑依した」と言って、道路の真ん中でポンポコ叫びながらお腹を叩きだしたり、またあるときは、除霊のために部屋のあちこちにキラキラのシールを貼ったりしたそうだ。
 ここ最近は、食卓の誰もいない席に、毎日食事の用意をしているらしく、先日彼女が実家に帰省した際は、10人分のコーヒーを淹れ、誰もいない食卓でコーヒーパーティを開いている姿を目撃したという。
 
 この話を聞いて、私は「あえのこと」を思い出した。
 ユネスコ世界無形遺産にも登録された石川県奥能登地方の民俗行事「あえのこと」は、一年の収穫を感謝し、五穀豊穣を祈る農耕儀礼だ。毎年12月5日になると、農家の主人が、田んぼにいる神様を呼んで家に招き入れ、食事を提供し、お風呂に入れ、布団で寝かせる。翌年2月9日には、ふたたび神様を田んぼに返すというものだ。
 私はこの行事の様子をテレビで見たことがあるが、誰もいない空間に向ってずっと話しかけている主人の姿は、なかなか衝撃的だった。お風呂に入れる際は、「寒かったらこのボタンを押して調節してください」などと追い炊きの説明までしている。神様が現代の機器に適応できるよう配慮しているのだ。こうして農家の人々は、一人芝居をして神様をもてなしている。

 この統合失調症のお母さんの場合、おそらく相手が見えているのだろう。10人分のコーヒーを淹れることも、毎日1人分の食事をつくることも大変な労力だと思う。
 神事と症状は、実はそれほど離れていない、人間の精神を象徴する何かなのかもしれない。


 「食べる」という行為は、問答無用に人の心を満たす。もしも「美味しい」という感覚がなければ、食事という行為は苦痛でしかなくなってしまうだろう。私はこれを、新型コロナウイルスに感染して、しばらく味覚障害に陥ったときに感じた。美味しいからこそ、食事で人をもてなしたり、食べ物を求めて頑張ってしまう。「美味しい」は、人を行動に駆り立てる。

 だがしかし、それが執着になると、犯罪へとまっしぐらになってしまう。

 2017年、東京都武蔵野市で、税理士事務所のドアをバールでブチ破って侵入し、冷蔵庫のアイスクリームを食べたとして、51歳の男が逮捕された。男は、2013年から東京都と石川県の2か所で、同種の事務所荒らしを繰り返しており、犯行現場にはチョコレートやプリンやジュースといった甘いものが食べ散らかされた跡が残されていたという。警察は、現場の状況から「犯人は甘党」とあたりをつけ、「窃糖犯」や「甘盗」などと呼び、捜査を続けていたという。

 私は2017年に、この裁判を立川簡易裁判所で傍聴している。

 事件当日、税理士事務所の職員が出勤すると、窓枠が破られ、ハシゴがかけられており、引き出しに入っていたものが部屋に散乱していたという。机の上には、破られたアイスクリームの包装紙が放置され、窓を割った際に怪我をしたのか、真新しい血液が付着していた。これが被告人の血液と一致、逮捕されたのだった。盗み食いされたアイスクリームは、2個で1100円である。

 被告人は、都内の大学を卒業後、出版社に勤務していたが、ここ十数年は無職。石川県で実父と暮らしていた。2犯の前科があり、住居侵入、建造物侵入で懲役1年だった。 

 一体どんな人物なのかと思いきや、被告人はなんと法廷に車いすで現れ、言葉もほとんど発することができない状態だった。なぜケーキ屋さんではなく会社事務所を狙うのか? なぜ税理士事務所の冷蔵庫に高級アイスクリームが入っていることを知っていたのか? なぜリスクを犯してまでその場で食い散らかすのか? そうした疑問には何一つ答えられない状況だったので、酷くガッカリしたのを覚えている。
 のちに『暴走老人・犯罪劇場』(高橋ユキ)を読み、車椅子は殆ど偽装、弁護人は心神耗弱状態で責任能力について争うと主張するのがお約束、だと知り衝撃を受けた。冷静になって考えてみれば、バールでドアをブチ破る体力や、食欲旺盛さは、元気いっぱいの証ではないか。
 
 「食べる」と言えば、2022年にも、サンマの切り身を盗み食いしたとして、21歳の男性巡査が書類送検されている。警察署の留置場で配るお弁当から、約1カ月半に渡ってサンマだけを抜いており、「小腹がすいたので食べた」と供述しているという。彼はその後、依願退職したらしい。
 小腹がすいてついつい甘いものを食べてしまう人が多いなか、お魚を食べるなんて健康的じゃないか。という問題ではもちろんなく、警察官という職業柄、盗み食いは許されなかったのだろう。
 
 結局、私はこの連載で何を書こうとしているのか。それは今は、まだわからない。混沌を混沌のまま、「うまく定義できない何か」について書いていこうと思う。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

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