わたしは食べた本でできている / 赤坂憲雄

書物は食べ物だ。東北文化から文学、サブカルチャーまで、幅広い領域を研究対象としてきた民俗学者は、これまで何を「糧」としてきたのか。人間存在の深みへといざなわれた一冊、ぬきさしならぬ問いをつきつけられた一冊、人生の通りすがりに出会った一冊を、記憶の淵からたぐりよせる試み。予定調和なしの不定期連載。

はじめに

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 わたしのからだは食べたものでできている、というのはだれの言葉であったか。それならば、わたしの頭は読んだ本でできている、といえるかもしれない。そんなことを考えているうちに、こんな連載をしてみたくなった。気まぐれサーフィンのような、なんて言葉が不意打ちにやって来る。そんな、変幻自在にいい加減で、いつ始まるのか、終わるのかも知れぬでたらめな連載をしてみたい。

 わたしはどうやら飽きっぽい。中途でやめてしまったり、打ち切られた連載がいくつもある。数えあげればキリがない。凶状持ちだ。なにしろ、わたしはいつだって、まともな構想やらメモもなしに連載にいきなり取りかかるものだから、座礁したり難破したりは、どうにも避けがたい。心が痛い。迷惑ばかりかけてきた。情けない言い訳だが、わたしは本を書き下ろすときにも、たいていはまともな構想もなしに書いてゆく。帆を上げた小舟が、まるで予期していなかった見知らぬ湊に漂着したときなど、わたしの歓びは最高潮に達する。ゴールが見えているとき、わたしは船出そのものができない。

 たとえば、タイトルは『わたしはこんな本を食べてきた』とか、『わたしは食べた本でできている』とか、どうかな。昔々、旧制高校の学生たちは辞書をほんとに食べたらしいけれど、いったい身についたのだろうか。胃袋のなかを、消化しきれずにのたうち回るインクの紙くずが頭に浮かんで、なんだか切ない気分にもなる。

 食べることにこだわり出してから、人はいわゆる食べ物だけでなく、恋人をお菓子のように食べたくなったり、ときには本だってむしゃむしゃ食べずにはいられない、奇妙な動物なのかもしれないと思うようになった。すると、本という奴にはとびっきり苦かったり、変に甘ったるかったり、ときが経つほどに芳醇な味わいが生まれたりと、それぞれに喩えられるべき味覚がありそうな気がしてくる。本は食べ物である、そう、あらためて口にしてみる。


 そういえば、大学生になったころから、図書館を使わなくなった。本は買うものになったのだ。本に線を引いて読むことを覚えてからは、自然とそうならざるをえなかった。まず黒鉛筆で線を引き、気になるところを赤鉛筆でなぞり、さらに忘れがたい箇所に黄色いマーカーで上塗りする。そんな本読みの作法がいつしかできあがった。映像的な記憶になって、ある本の、あるページが思いだされることが、ときおりある。すくなくとも、二度、三度と読みかえす本の場合には、いたって省エネになる。むろん、かなりの歳月を隔てて再読して、読み流した白いページに大事な発見をすることは多い。

 とはいえ、当然ながら、若いころは定職にもつかず、二十代半ばには結婚して子どもも生まれたから、ひどく貧しかった。本を買う余裕などかけらもなかった。古本屋さんでなんとか買うか、市立図書館で借りて読んだ。借りた本は仕方なく、大切と思う箇所があればコピーを取って線を引いた。たくさんコピーして読んだはずだが、結局、それはみな散逸して読んだ記憶すらあいまいだ。綺麗にファイルし分類して、どこかに収めるといった能力は、残念ながら、ない。

 おかげで、物書きとなり、ほんのわずかでも原稿料や印税を稼げるようになってからは、その稼ぎの大半が本を買うために使われるようになった。本を買うために本を書いてきた。どの論文でも本でも、それを書くために買い集めた資料の値段の合計よりも、原稿料や印税が上回ったことは、おそらく一度もない。注ぎこんだ金銭以上に利益をだすことが経済行為であるならば、わたしの書く仕事は、じつは経済行為として成り立ったことがない。本を売ることもほとんどない。売ったところで、線引きのある本など二束三文でしか買い取ってもらえない。

 だから、わたしの所蔵する本はひたすら増えつづける一方で、たぶん四、五万冊はあるはずだが、正確な数は知らない、数えたことがない。最近は、死ぬまでに読み切れるわけがないと観念して、わたし自身よりも大切に読んでくれそうな人や場所に移すことをはじめている。生前贈与のようなものだ。


 情けないことに、断言してもいいが、わたしはきっと、みずからの蔵書のほんの数パーセントか、よくて十パーセントに欠けるくらいの本しか読むことがないだろう。だって、一日に一冊の本を読んだとしても、一年間で三百六十五冊しか読めないし、それを五十年間続けても一万八千二百五十冊にしかならない。十日間かかっても読み終わらぬ本はいくらでもあるし、何年もかけてすこしずつ読んでゆく本だってある。ほんの一ページを読みたいばかりに買う本だってあるし、書棚にあるだけで読む必要のない本は思いがけずたくさんある。本という奴は食べ物だから、丸ごと食べるのもあれば、おいしいところを選んで齧るのもあり、匂いを嗅ぐだけでいいのもあり、買ったけれども腐ってゆくのを眺めているだけのもあって、さまざまだ。

 まったく馬鹿げている。しかし、これが現実だ。

 くりかえすが、わたしの頭は食べたものでできている。むろん、いまとなっては、食べたはずの本をすべて書きだして読書履歴を作成するなんて芸当は、不可能に決まっている。記憶の底に埋もれている履歴のほんの一部を掘り起こし、それがわたしの頭に残している痕跡をたどってみることくらいしかできやしない。とりあえずは、それでいい、それ以上は望まないことにする。

 さて、へたくそな前口上は、ここまでである。気まぐれサーフィンのはじまりだ。なにから始めようか。すこしだけドキドキする。これがいい。やはり、ゴールはない。どこか、思いも寄らぬ小さな湊に漂着することを願って……。

 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。