日々のきのこ / 飯沢耕太郎

20年ほど前に突如、きのこ熱に浮かされた著者。以来、内外の文献を渉猟し、切手やグッズを買いもとめ、折につけ山に分け入る日々をおくる。そんな「きのこハカセの異常な愛情」がほとばしる貴重なコレクションを、ビジュアルとともに紹介。はまったら抜けられない魅惑の世界がここに!

きのこ狩りの愉しみ

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 きのこ狩りの話をしよう。この連載を読んでいただいている方はおわかりだと思うが、僕はリアルなきのこよりも、どちらかといえばイマジネーションの世界のきのことかかわることの方が多い。切手、文学、映画、アートのなどの中に姿を見せるきのこたちだ。

 だが、時には本物のきのこを探し求めて、森の中に分け入りたくなることもある。今年も夏の終わり頃に、とうとう我慢ができなくなって、きのこ狩りに出かけてきた。そんな時に頼りになるのが日本各地の菌友きんゆうたちで、今回は静岡県御殿場在住のグラフィック・アーティスト、鈴木安一郎さんの案内で、富士山麓の森できのこ狩りを愉しむことができた。

 鈴木さんは東京藝術大学の出身で、大学でグラフィック・デザインを教えたり、しめ飾りをテーマにしたアート作品を制作したりしているアーティストだが、『きのこのほん』(ピエ・ブックス、2010年)などの著作もあり、富士山周辺のきのこについては生き字引とでもいうべき人だ。父親がほだ木を使った椎茸栽培をしていたので、子どもの頃から興味を持ってはいたが、本格的にきのこにはまったのは、富士山須走口の東富士山荘(きのこ料理で有名)のオーナー、米山さんに出会ったのがきっかけだったという。彼の手引きで山に入るようになり、きのこについての知見を深めていく。「食べる」だけではなく、その色彩やフォルムに惹かれて、写真も本格的に撮り始めた。図鑑とは違った、まさに森の中の生き物としてきのこを撮影した作品も多数発表している。

鈴木安一郎さん(左)と筆者

 さて、8月の最後の日曜日の朝、前日は御殿場のホテルに一泊した僕と家人のときたまさんは、迎えにきた鈴木さんの車で山梨県側の亜高山帯に向かった。富士スバルラインと並行して走る林道の途中、4合目あたり(標高約1800メートル前後)の、シラビソやコメツガなどの針葉樹林が目的地である。土壌が溶岩で、倒木や苔むした岩がゴロゴロしていて、きのこの生育には持ってこいの場所だ。今年は雨が多いので、もしかするとオオモミタケ、ヤマドリタケ、ホウキタケなどの「大物」も、というので期待が高まる。さっそく、採ったきのこを入れるためにモミの葉を下に敷いた籠と、熊除けと所在地の確認を兼ねたベルを腰につけて、かなり急な斜面を登り始めた。

 幸先よく、ヌメリイグチ、カワリハツ、アカモミタケなどが見つかる。最初はいちいち大喜びして、籠に入れ、写真を撮っていたのだが、だんだん「小物」では満足できなくなってくる。ウラグロニガイグチが生えていた。ビロードのような触感の、この「美きのこ」は、2012年に、初めて鈴木さんの案内で富士山できのこ狩りをした時にも採取した。名前の通り苦味があり、若干毒性もあるようだ。図鑑などでは毒きのこに分類されているので注意が必要だが、茹でこぼして、冷やして刺身のようにして食べると、つるりとした食感でなかなかおいしい。

 ニオイコベニタケは可憐な赤いきのこ。甲虫のような独特の匂いがする。シワカラカサタケの幼菌、細い柄のキツネタケ、ヒダが青変するキハツタケ。キツネノチャブクロは丸くて、頭頂部に胞子を飛ばす穴がある。若いうちは、皮を剥けばスポンジ状の中身は食べられる。バターで炒めて砂糖をまぶすと、ちょっとしたデザートになる。ところで、きのこの名前を偉そうに書いているが、それらはすべて鈴木さんが教えてくれたもので、食菌か毒きのこかの判断も、彼にまかせっきりだ。きのこの同定はむずかしいので、素人は下手に手を出さない方がいい。しかも、北海道の人に九州のきのこについて聞くのもかなり危険だ。地域ごとに、きのこの見かけも微妙に違ってくるからだ。

ニオイコベニダケ

キツネノチャブクロ

 いったん、林道に引き返し、持ってきたパンと飲み物、果物で昼食をとり、今度は反対側の斜面を下る。ここではオニナラタケの群生をみつけた。前回も紹介した、アメリカ・オレゴン州の森の地下に880ヘクタールにわたって菌糸を伸ばしている「世界最大の生き物」だ。ただ、ここではそんなに大きな群生ではない。鈴木さんの話では、普通ナラタケ類のきのこが出てくるのは9月半ば以降とのことなので、今年はかなり早い。どうやら、気候変動の影響が年ごとに大きくなりつつあるようだ。南方系のきのこが北上しているという話もよく聞く。

 「大物」がなかなか見つからないので、林道を少し下った別の森に移動することになった。鈴木さんの頭の中には、富士山の東西南北のきのこの生息マップが完全にインプットされている。今度の場所には、渡りをするチョウとして有名なアサギマダラが好む植物が多いので、チョウのマニアもよく来るそうだ。

 このあたりになると、僕にもようやく「きのこ目」が育ってきたようだ。「きのこ目」というのは、落ち葉や草むらなどに紛れているきのこを、すばやく発見することができるセンサーのようなものだ。さっそくタマゴタケの群生を見つけた。これは嬉しい。真っ赤な派手な色なので「毒きのこかも」と敬遠されることが多いようだが、これはとても美味しい食菌で、ヨーロッパなどでは人気が高い。濃厚な味わいで、ソテー、パスタなどの洋風料理によく合う。

 ドクヤマドリの近縁種も生えていた。傘の下の部分がヒダではなく、管孔という小さな穴になっているイグチ類のきのこには、毒きのこはないといわれてきた。ところが、ドクヤマドリはかなり危険なきのこで、死者も出ているのだそうだ。でも、見かけはヤマドリタケとそっくりの立派なきのこなので、残念としか言いようがない。管孔の部分に傷をつけると青変するので、字を書くことができる。「ドク」と書いて捨ててあるのを、見かけることもあるという。

ドクヤマドリ

ドクヤマドリ(傘の裏)

 それでも「大物」は見つからない。そろそろ日も傾き、心残りだが引き揚げなくてはと思っていた頃に、樹の根本に顔を覗かせている、黒っぽい大型のきのこが目に入った。鈴木さんに声をかけて来てもらうと、「オオモミタケじゃないですか!」。なんと最後の最後に、ついに「大物」にめぐりあったのだ。

 上に顔を覗かせているのは5センチほどで、あとは地面に深く柄を伸ばしている。山芋を掘る要領で、周りから少しずつ掘り進めていく。焦ると折れてしまうので、時間をかけて、少しずつ土を取り除いていくと、長さ20センチ以上の堂々たる大きのこが姿をあらわした。これが、時にはマツタケ以上に珍重されるというオオモミタケかと感動する。半日あまり山の中を歩き回った疲れも、いっぺんに吹き飛んでしまった。

 それにしても、きのこ狩りというのは不思議なイベントだ。いいきのこが採れるか採れないかは、その年の気象条件、その日の天候、歩き回るルート、「きのこ目」のでき具合などに左右されていて、絶対的な正解などあり得ない。一日中、足を棒にして森の中をさまよっても、はかばかしい成果が得られないことはよくある。逆に、短い時間で次々に素晴らしいきのこが見つかる、夢のような時間を過ごすこともある。きのこ狩りがうまくいくかどうかは、山の神様の気分次第、人間にはコントロールすることができない。

 それでも、山の神様も情け深いところがあって、きのこ狩りの巡礼者たち苦労にちゃんと報いてくれるようだ。今回も、最後にオオモミタケをプレゼントしてくれた。実は、前回鈴木安一郎さんと富士山の森できのこ狩りをした時にも同じようなことがあった。その日も、いろいろなきのこを採ることができたのだが、目当ての「大物」にはなかなかめぐりあわなかった。歩き疲れて、そろそろ終わりという気分だったのだが、鈴木さんは何か確信があるらしく、森の奥へ奥へと進んでいく。するとそこに巨大なハナビラタケが姿をあらわしたのだ。後で測ってみたら、1キロ以上もあった。

 この時も感じたのだが、どうやらきのこ狩りのコツは、あまり「見つけよう、獲ろう」と思い詰めないことのようだ。肩に力が入れば入るほど、きのこたちの逃げ足が早まる。それよりは、ちょっと気を抜いて「今日はもうおしまいかな。そろそろ帰ろうかな」という雰囲気を醸し出すといい。すると、きのこたちも油断をして、顔を見せるようになるだろう。そのあたりの駆け引きに、きのこ狩りの醍醐味がありそうだ。

本日の収穫の一部。オオモミタケ、タマゴタケ、コガネヤマドリなど

 もう一つ感じたのは、きのこ狩りは愉しいけれどちょっと怖いということだ。山の斜面から斜面へと、地面に目をやりながら辿っていくと、そのうち自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。今回のように鈴木さんやときたまさんと、互いの声が聞こえる範囲で一緒に行動していれば、それほど心配ないかもしれない。それでも、時折二人の姿が見えなくなって、急に不安を感じることもあった。

 これが一人ならかなり怖い。森の中はどこも同じような景色で、目印もあまりないので、道に迷うことは大いにあり得る。霧やもやに包み込まれたらどうしようもない。ふと気づいたら、沢に突き出た崖の上などということもあるだろう。よく、きのこ狩りで山に入って転落死という記事を見かけたりするが、たしかにそうなりかねないと思ってしまう。

 柳田國男は『山の人生』(郷土研究社、1925年[初出は『アサヒグラフ』1925年1月7日号〜8月12日号])で、子供の頃に「母と弟二人と茸狩りに行つた」時のことを書いている。

遠くから常に見てゐる小山であつたが、山の向こうの谷に暗い淋しい池があつて、しばらくその岸へ下りて休んだ。夕日になつてから再び茸をさがしながら、同じ山を越えて元登った方の山の口へきたと思つたら、どんな風にあるいたものか、またまた同じ淋しい池の岸へ戻つてきてしまつたのである。その時もぼうとしたやうな気がしたが、えらい声で母親がどなるのでたちまち普通の心持こころもちになった。この時の私がもし一人であつたら、恐らくはまた一つの神隠しの例を残したことと思つてゐる。

 飾磨県神東郡辻川村(現・兵庫県神崎郡福崎町辻川)出身の柳田國男は、どうやら「神隠し」に遭いやすい気質の持ち主だったらしく、「神戸には叔母さんがある」と信じ込んで歩き始め、家から「二十何町離れた松林の道傍」をふらふら歩いているのを発見されるというようなこともあったようだ。だが、ここに記されたエピソードには、絵空事ではない強いリアリティを感じてしまう。きのこ狩りそのものに、どこかに魂を置き忘れてしまうような魔力が潜んでおり、人を「ぼうとした」気分に誘い込んでしまうのではないだろうか。

 きのこ狩りは愉しい。でも少し怖い。だからこそ、心をときめかせる魅力がある。ただし「神隠し」に遭わないように、一人では行かない方がいいようだ。

 

 

 

 
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。