未整理な人類 どうにもとまらない私たち / インベカヲリ★

人間は不可解な生き物だ。理屈にあわないことに、御しがたい衝動をおぼえることがある。逸脱、過剰、不合理……。私たちの本質は、わりきれなさにあるのではないか? 気鋭の写真家・ノンフィクション作家が、〈理性の空白〉に広がる心象風景をつづるエッセイ。

地蔵は服を着る

share!

 事件記者歴20数年の某氏から、その話を最初に聞いたのはいつだったか。仮にA氏としておこう。
 彼ら事件記者の仕事は、世間を騒がす事件が起きると真っ先に現場へ向かい、関係者の自宅を訪問して話を聞き、犯人の近影や卒業アルバムを入手し、犯行現場の様子を取材してくるというものだ。特に関係者へのインタビューは、最初に自宅を訪れた者か、周回遅れでやってきた者が高い成功率を収めるため、掲載の早い新聞や週刊誌の記者たちは我さきにと足を運ぶ。都市の繁華街から、離島や過疎地域まで、日本全国どこにでもすぐにかけつける。一般市民がニュースで事件を知るころには、彼らはすでに現場にいるのだ。
 昨今、このような取材方法に「被害者に迷惑をかけるな」などと批判の声も向けられがちだが、事件の真相を知ることができるのも記者の仕事があってこそである。

 さて、そんなA氏が、取材をしていてあることに気づいたという。それは、凄惨な事件が起きると、いつの間にかその現場に地蔵が置かれるというものだ。きっかけは、とある県で子どもが橋から投げ落とされる殺人事件が起きたときのこと。A氏は発生から三カ月後の初公判が開かれた際に向ったというが、すでに犯行現場には地蔵が建っていたという。そのときのことを、A氏は興奮気味にこう語る。

 「それが本当に下手クソで、急に作ったような稚拙な地蔵なんですよ。地元の記者に聞いても、いつ誰が置いたのか分からないという。そういえば、昔取材した女子大生が焼き殺された場所にも、地蔵が置いてあって、きちんとしたものではなかった。それ以来、そういう場所に地蔵を置きまくってる人がいるのではないかという妄想に取りつかれているんです」

 もちろん命を落とした被害者の鎮魂のために、少しでも早くという想いで誰かが地蔵を手配したのだろう。これを期に、A氏は事件現場の地蔵に注意深く目を配るようになったが、驚いたことに「誰が地蔵を置いたか」については分からないものばかりだという。

 「地蔵設置委員会のようなものがあって、誰に頼まれたわけでもないのに、日本のいろんなところに地蔵を置いて回る人がいるのではないかと思うんですよ。あるいは地蔵110番みたいなものがあって、かけるとすぐに持ってくるのかもしれない。本当に、日本中どこにでもあるんです」

 とA氏。その地蔵たちは、事件が風化したあとも撤去されることはなく、地元の人々によって祀られ続けるという。「お供え物はハッピーターンが多い」とA氏は言うが、‟幸せが戻ってくる”という商品名の由来を考えれば、これはなんとなく想像がつく。こうして、誰が設置したのか分からぬまま、地蔵はその土地に根を下ろすのだ。
 もっとも、信仰とはそういうものかもしれない。行政が「地蔵を置こう」と言って、税金からまかなうようなものであったら逆に胡散臭い。誰かの想いだけで自然発生的に建てられるからこそ、人々が祈りに来るのだ。


 地蔵とは、ただの石像を超えたパーソナルな存在だ。私はそのことを、青森県にある「川倉賽の河原地蔵尊」へ行ったときに感じた。青森といえば、恐山やイタコなど、なにかと霊的な存在が日常にとけこんでいる地域だが、五所川原にあるこの「賽の河原地蔵尊」も独特な習俗がとけこんだ霊場である。
 賽の河原とは、親より早く亡くなった子どもたちが、その罪を償うために石を積みあげる三途の川のほとりのことだ。現世にいる親を想って、子どもたちはせっせと石塔をつくるが、大鬼によってことごとく壊されてしまう。そこに地蔵菩薩が来て子どもを救い、無事に成仏させると言われている。子どもは児童や水子を指すが、この地蔵尊では未婚の男女の霊も供養されており、奉納された地蔵の数は2000体に上るという。
 その地蔵たちの迫力が凄い。みな、色とりどりの服を着ており、中には故人が着ていたであろう服を身につけているものもある。一体一体すべてが違う個体として存在しており、一同に集まることで圧倒的なパワーを放っているのだ。

賽の河原地蔵尊

 本堂には、地蔵とは別に遺品も奉納されており、子どものランドセルや上履き、あるいは大人の着物やスーツまである。棚や壁にびっしりと並び、天井からもぶら下がる無数の服や靴たちは、あたかも古着屋さんを彷彿とさせるが、持ち主がみんな死んでいると思うとなんとも言えない気持ちになる。

奉納されている遺品

 だが、この地蔵尊でもっとも際立っているのは、「冥界結婚」であろう。未婚のままで亡くなった子どもを想い、親の手によって死後に結婚させるというのがこの冥界結婚だ。
 敷地内にひっそりとたたずむ建物のドアを開けると、そこにはショーケースに入った日本人形が棚いっぱいに飾られている。故人の写真や名前が一緒に入っており、白無垢の花嫁人形や、紋付袴の花婿人形とともに収められている。結婚相手は架空の名前を付けた人形で、こうして彼らはあの世で夫婦になるという。よく見ると、死亡年齢が比較的最近のものもあり、今も続いている習俗であることがわかる。

数々の人形が並ぶ

 死んでもなお「結婚していなくて可哀相」と思う親がいると思うと、なんとも気が滅入るが、これこそ生きた人間の業なのだろう。そこから感じるのは、死者の無念ではなく、残された者の情念である。


 
 物には念が入る。とくに人型には念が入る。よく言われることだが、私はこれを長野県の善光寺にある「賓頭盧尊者びんずるそんじゃ像」を見たときに怖ろしいほど感じた。こちらは木製の仏像だが、身体の悪いところと同じ部分を撫でれば病が治ると言われている。長い年月をかけて撫でられ続けたためか、表面がツルツルになり顔はほとんど消えているが、念もまた参拝者の数だけ入っているのだろう。
 私は見た瞬間、「これは人だ!」と感じた。その気配たるや、背後に立たれたら振り向くだろうレベルである。私は特に霊感があるほうではないと思っているが、直接見た人はみな同じことを感じるのではないだろうか。

 随分前のことだが、私の写真アシスタントをしていた女性が、新宿二丁目付近の飲食店でアルバイトをしていたことがあった。彼女によれば、店の近くに立派な寺があり、塀を隔てて、外から大仏の背中が見えるという。ところが、塀の外側には、大量の粗大ゴミが路上に不法投棄されている。それが、ちょうど大仏の真後ろにあたるというのだ。
 彼女は、興奮気味にこう語っていた。

 「とにかく変なんです。だって、大仏の後ろにゴミが置いてあるんですよ。こんな罰当たりなことして大丈夫なのかなって、そばを通るたびに気になるんです」

 おそらく寺としても敷地外のために、手の出しようがないのだろう。いかにも新宿っぽい風景だなと私は思ったが、奈良県出身の彼女には、東京人より仏教が身近だったのかもしれない。あまりにも「変だ、変だ」と騒ぐので、ついには私がモデルを連れて撮影しに行く事態にまで発展した。

©インベカヲリ★

 仏像が粗末な扱いを受けていると、人々は落ち付かなくなってしまう。人型の物体は、侮れないのだ。

 話を地蔵に戻そう。川倉の地蔵は服を着ていたが、道端の地蔵も服を着ていることが多い。
 そもそも、なぜ地蔵は服を着るのか。これも、人々の想いの強さを表しているはずだ。素っ裸ではなく着衣だというだけで大事にされている雰囲気が漂う。
 地蔵にかかわらず、人々に愛される人型の像はだいたい服を着せられている。パッと思いつくは、JR浜松町駅の3・4番線ホームに建っている小便小僧のブロンズ像だ。衣装は「小便小僧友の会」など全国の有志から贈られ、月ごとに違う服を着せられているらしい。また、新宿区神楽坂にあるコボちゃんのブロンズ像も頻繁に服を着せ替えられており、雨の日には服が濡れないようレインコートまで羽織っている。

浜松町の小便小僧と神楽坂のコボちゃん像

 もっとも、犬にも服を着せて散歩をさせるぐらいだから、人間には服を着せることで擬人化し、愛でるという性質があるのだろう。 
 ほかの動物とは違い、毛皮をまとっていない我々は、体温調整のために服を着なくてはいけない。それは、装飾することに発展した。服や靴や髪型といった装飾で、属性や生活様式や性格までもが示されると私たちは思っている。こうして、他の人とは違う個体であることをアピールしているのだ。
 それが地蔵に転じれば、服を着た時点で、地蔵はただの石造ではなくパーソナルな存在として独立する。そのほかの地蔵とは違う、誰かのために建てられたたったひとつの地蔵だ。

 そんな気持ちを逆手にとり、地蔵が誘拐される事件もたびたび起きている。

 「お地蔵さんは預かった。返してほしければ、五百円玉六百枚をこの地図の場所に埋めておけ」

 2000年3月、神戸市垂水区の地蔵堂で、このように書かれたメモとともに、約40センチの地蔵一体が忽然と姿を消していたという。報道によると、地蔵堂の管理人は身代金の要求には応えず、窃盗事件として捜査を進めているとのことだが、その後どうなったのかは分からない。
 記事を読むかぎり、とくに有名な地蔵でもなさそうだが、誘拐犯が現れるということは、よほど愛されていたのだろう。

 また2017年には、静岡県静岡市内にある墓地で、個人の墓に置かれていた高さ30センチの地蔵菩薩一体を盗んだとして、無職男性(60歳)が逮捕された。墓地付近の路上で地蔵を抱えながら歩く男を不信に思った警察官が職務質問をしたところ事件が発覚。男は「持ってきてしまった」と犯行を認め、「寂しくて、一緒にいたかった」と供述したという。

 実は地蔵をターゲットにした犯罪は珍しいことではない。
 2010年には群馬県前橋市で、霊園の入り口に置かれた地蔵10体のうち4体が何者かによって盗まれた。2022年にも、新潟県小千谷市の公園に設置された地蔵一体が盗まれ、無職男性(68歳)が逮捕されている。地蔵は、男の自宅から無事に発見されたという。

 こうして誘拐されるほど愛される地蔵がいる一方で、世の中にはかつて大事にされ、今では忘れ去られた石像もある。
 
 先述した「賽の河原地蔵尊」から約15キロ先にある、青森県の高山稲荷神社には、近県の廃稲荷から持ち込まれた大量のお狐さまが集結している。みな、魂を抜く儀式が行われたあとに放置されるようだが、中には勝手にお参りしていく参拝者もいるようで、いくつかの足元には小銭が積まれていた。



高山稲荷神社

 年月が経ったためか、割れたり崩れたりしているお狐さまもいるが、数が並ぶとこちらもやはり迫力がある。捨てられたあとも、神々しく感じるのは、人の念が残っているからだろうか。

 とはいえ、「魂入れ」されたお狐さまたちには敵わない。愛知県の豊川稲荷にある霊狐塚では、大量のお狐さまたちが今もたくさんの人々に愛されながらすっくと立っており、比較すると確かに生き生きとして見える。鋭い視線を感じるのは気のせいではないはずだ。

豊川稲荷の霊狐塚

 しかし、お狐さまも、もとはただの石だ。狐のかたちに削っただけの石に感情移入できるのも人間だけだろう。

 人や動物のかたちにならなくとも、石は特別なものに変わることがある。2022年、安部元首相が山上徹也によって銃殺されたあと、フリマサイトのメルカリでは、銃撃現場に転がっていた石が2300円で出品されていたとしてニュースになっていた。商品はすぐに落札されたという。
 元首相の殺害は、歴史的な事件だ。その現場に転がっていた石というだけで、石はただの石ではなくなる。値段をつけるなど不謹慎だと感じても、年月が経ち「歴史」になったとき、その石は確かにある種の人々の心を揺さぶるだろう。

 そもそも、ただの壺を高額で購入する人がいるのも、そこにただの壺以上の意味があるからだ。
 世界は意味づけでできている。「ただの石だ、目を覚ませ」と言っても、それは人類にとって不可能なことに違いない。

 

 

【参考文献】
2000年4月26日 産経新聞 夕刊
2017年4月21日 産経新聞
2010年5月10日 読売新聞 朝刊
2022年7月6日  NST新潟総合テレビ
2022年7月21日 SmartFLASH 「安倍元首相『銃撃現場の石』」が1個2000円で販売…『不謹慎すぎる』と批判の声」

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

error: このコンテンツのコピーは禁止されています。