未整理な人類 どうにもとまらない私たち / インベカヲリ★

人間は不可解な生き物だ。理屈にあわないことに、御しがたい衝動をおぼえることがある。逸脱、過剰、不合理……。私たちの本質は、わりきれなさにあるのではないか? 気鋭の写真家・ノンフィクション作家が、〈理性の空白〉に広がる心象風景をつづるエッセイ。

孤独と犯罪に相関関係はあるのか?

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 孤独とは何だろう。
 無差別殺傷事件が起きると、すぐに犯人の孤独の問題について語られるが、昨今のニュースを見ていると、おいおいどこが孤独なんだよと思ってしまう。

 2021年に、死刑になりたいという犯行動機で凶行に及んだ「京王線刺傷事件」の服部恭太(当時26歳)は、中学3年から交際していた女性と同棲していたが、婚約を破棄され、他の男性と結婚されたために自殺願望が生まれたなどと供述している。だが、20代の童貞率は、40%だ。中3から彼女がいるなんて、勝ち組としか思えない。

 同じく2021年に起きた、「小田急線刺傷事件」の対馬悠介(当時36歳)は、中央大学を中退して、ナンパ師だった男だ。嫉妬の対象は、「未来がそれなりにちゃんとしていたり、ブランド物の服を着ていたり、カップルだったり、家族だったり、ちゃんと仕事をしているんだろうなと感じさせる人」で、しかも、「ちょっとしたことで僕もそっち側だったんじゃないか、ちょっとした差なんじゃないかと思うと――」などと供述している。そうかそうか、有名大学に行ける人間は、描ける未来が違うなあ。
 
 2023年、4人を刃物と猟銃で殺害した「長野立てこもり事件」の青木政憲(当時31歳)は、一軒家に家族と住み、猟友会の会員で、ジェラート屋の店長である。楽しそうな人生じゃないか。

 そういうわけで私は、無差別殺傷犯=孤独に突き動かされた犯罪者=孤独が悪い、という図式などちっとも持っていないのである。
 もちろん、孤独と孤独感は違うわけで、大勢の中にいても孤独を感じるということがあるのは事実だ。安易に「君たち、孤独じゃないじゃん」と言えてしまう私は、もしかしたら自分が理解していないだけで恵まれている側なのかもしれない。
 そんな話を、この「未整理な人類」の担当編集者に話したところ、孤独をテーマに書いてほしいと言われたので、ちょっと考えてみた。


  
 ネットのない時代を知っている私としては、SNSが当たり前にある今は、知らない人とすぐに繋がれるという時点で、昔とは孤独のレベルがまったく違うと思っている。引きこもりが増えたのも、ネット上のやりとりだけで人間関係が維持できる時代になったからだろう。
 そもそも、人が求めているのは、究極的には人間関係であることは間違いない。趣味をもったり勉強したり、本を読んだりするのも、それによって他者と交流できるからだろう。まったくアウトプットなしに、インプットだけで100%満足するということはありえないのではないか。知ったことは誰かに話して共有したくなるのが人間だ。ただ考えるだけではなく、考えたことを人に言いたいものなのだ。ツイッターで、これだけ多くの人が自分の主張を書いたり、他人に議論を吹っ掛けているのもそれが理由だろう。美味しいものを食べたり、髪型を変えたことを、いちいちネットで報告するのは、他者のリアクションが欲しいからだ。
 このようなコミュニケーションを求めたら、昔は自分の足で人と出会っていくしか方法がなかったが、今はネットで顔を見せずに交流できてしまう。引きこもりが可能になったのは、それが大きいはずだ。逆をいえば、ネットをやっている引きこもりが孤独だとは限らないのではないか。
 孤独の文脈で語るなら、2019年に起きた「川崎市登戸通り魔事件」の岩崎隆一(当時51歳)が、唯一ネットのない環境で暮らしていた引きこもりだろう。部屋には、所持品と呼べるものはほとんどなかったというから、これこそまごうことなき孤独だ。犯人は、現場で即自殺しているので迷いがない。この領域にいる人は、なかなかいないのではないか。
  
 自分自身の人間関係を考えると、私はむしろ全然楽しくないのに話を合わせて、交友関係を維持させる努力のほうにトラウマがある。学生時代がまさにそうだったからだ。なんせ一度入学したら、3年間とか6年間とか同じ人間関係が続くのだから、そのプレッシャーたるや半端じゃない。しかも、校長先生とかが「大人になると本当の友達はできません」とか「学生時代の友達は一生の友達」などと煽りまくって、恐怖に陥れてくる。その圧力のせいで、仲良くなった人が友達なのではなく、交友関係を継続するために仲良くするという逆転現象が起きるのだ。
 そういうわけで大人になる頃には、すっかり「友達」という概念が嫌いになっていた。その時一番楽しい相手と一緒にいればいいだけで、関係維持に汲々とするようになったらもう終わりである。そのためには、まず一人でいることを楽しめなくてはいけない。合わなくなったら自然に離れるという自由があってこそ、他者との健全な関係が楽しめる、というのが私の出した結論だ。
 なので、私の交友関係は広く浅い。フリーランスだから、一回の仕事で短期集中的に人と深くかかわるし、それがクルクルと入れ替わる。写真に至っては、初対面の人との関係が一番多い。結果的に、薄く繋がりながら何十年とかかわっているケースがほとんどだ。私にはそれが合っている。
 
 ところで、これを言うとビックリされることがあるのだが、私は一人でいるときが一番盛り上がって騒いでいる。一番テンションの上がる瞬間というのが、主に仕事の完成形が見えた時だからだ。つい先日も、豆腐を海に浮かべる方法を一生懸命考えていて、発泡スチロールを豆腐に見立てて作ってみたら、これが見事な豆腐になって、部屋で小躍りしていた。このとき、私の頭の中には、豆腐が海に浮かんでいるという写真を撮り、完成形を人に見せて「おお~!」と驚かれている他者のリアクションまでが映像で見えている。私は凄い。才能は裏切らない! と、万能感と多幸感があふれ出る。だから基本的に、物を制作する上でのクライマックスは、自分一人でいるときにしか味わえないのである。
 たまに、そうした状態で一人でニヤニヤしているのを目撃されると、「今何考えてるの?」「何か面白いこと考えてるでしょ?」「わかった、これ?」とか、しつこく聞いてくる人がいて嫌になる。脳内世界に没入しているのだから、放っておいてくれと思う。他人に理解できるように説明することなど不可能なのだ。

 ということを編集者氏に話したら、「インベさんには、もう一人の自分がいるから孤独じゃないんですね」と言われて、うひゃっとなった。なんだそれ。褒められている気はしないけど、悪い気はしないけど、なんか微妙だ。
 聞けば、編集者氏には、自分の応援団となるような「もう一人の自分」は、いないそうなのである。むしろいつも「そんなんじゃダメだ」「もっと頑張れ」「怠けるな」と否定する自分がいるというので驚いた。
 そうか、そう考えると、私のもう一人の自分は随分といい奴だ。というか、私以上に私のポテンシャルを高評価している人が、外の世界にいないのだ。私を楽しませられるのは、究極的には私しかいないという、割り切りがあるのである。
 
 「孤独が嫌なら犬を飼えばいいじゃない」と、犬を飼ったことのない私は安易に思ってしまけど、それは犬に期待しすぎだろうか。人が嫌がって寄り付かないような人間にも、餌をくれる飼い主というだけでなついている姿を見ると、犬は偉大だなと思う。酒とかギャンブルとか覚せい剤に比べると、犬はもっとも安全な依存先に感じる。だが、実際には犬を飼っている人でも殺人事件は起こすようだ。
 今は休刊してしまった、老舗の某愛犬雑誌の編集者から聞いた話だ。この雑誌は、創刊から50年以上を誇る歴史の中で、誌面に登場した愛犬家の中に、後に死刑囚となった人が二人もいるという。「埼玉愛犬家連続殺人事件」の関根元と「首都圏連続不審死事件」の木嶋佳苗である。日本を震撼させた二大サイコパスが、事件を起こす前に同じ愛犬雑誌に登場しているというのはなかなか凄いことだ。「愛犬家にはたまにヤバイのがいる」というのが、愛犬雑誌編集者の共通認識だそうで、数々の逸話が残されているという。
 こういうことは、猫では聞かないから不思議だ。猫の場合、嫌な飼い主からは逃げてしまうからかもしれない。では、逆に犬は、犯罪を誘発させる何かがあるのだろうか。飼い主に万能感を与え、危険な道に走らせるということはありえなくもなさそうだ。


 
 連載第5回「鉄柱詩における、芸術と犯罪と症状」(期間限定で特別に公開)は、この連載においてもっとも話題になった回だ。読んでいない人のために簡単に説明すると、鉄柱詩人とは、街中にある鉄柱や地図看板に、解読の難しい言葉を書き残していく謎の人物だ。例えば、こんなものがある。
 「小津はバーナーをどうおもってたかを日高屋はどうおもったのか知らんでいいが身体が苦しい人のまわりではちょっと気にしよう」
 「かぜのかなぶんをあつめるとかいってるのが亀戸にいんのか」
 私は勝手に鉄柱詩人と名付け、同一人物と思しき作品を写真に撮って集めている。だが、残念ながら、ここ最近は、新作がさっぱり見られない。時間が経つと、街にある作品はどんどん消されていくので、名作と言える中で今も残っているのは、東京都中野区にある一カ所のみだ。それも、場所的に中野サンプラザの取り壊しとともに消えてしまうだろうと思われる。私が記録していなかったら、これらの作品は誰にも知られることがなかっただろうと思うと感慨深い。

 そんなある日、以前、被写体になった女性から、驚きの便りが届いた。なんと、この鉄柱詩人にインスパイヤされて、同じように街に文字を書く活動を始めたという。もっとも、鉄柱詩のような犯罪スタイルではなく、付箋に書いて貼るという安全なものだ。それも、鉄柱詩のような謎めいた自己主張ではなく、見た人の心を潤すものである。
 その名も「ポジティブ鉄柱付箋」。コンセプトは、「元気がでそうな言葉の付箋を町のそのへんに捕まらない程度に貼っていくあそび」だそうだ。

 彼女は長野で活動しているので、送ってくれた写真を、ここに発表しよう。


 おお! これはまさに孤独対策ではないか。この付箋を街中で目にした人は、間違いなく自分へのメッセージだと捉えるだろう。
 鉄柱詩の影響から、癒し活動が生み出されるとは予想外だった。一番驚くのは鉄柱詩人本人だと思うが、どこの誰かわからない上、おそらく危険人物なので、伝えられないのが残念である。


 
 シンとした中では仕事がはかどらないので、いつもカフェ・ベローチェを使うという話はもう何度もしているけれど、閉店時間が早いので、夜はたまにスターバックスを使う。
 どうも、カフェの喧騒を求めているのは私だけではないようで、探してみると、カフェの雑音を延々流しているYouTubeが結構あるようだ。適度なザワザワ感は、精神の安定をもたらすのだろうか。人間は完全な無音状態の部屋に居続けると、幻聴が聞こえてくると聞いたことがある。そう考えると、人は無意識のうちに、あらゆる方法で孤独を回避しているのかもしれない。

 ところで、近所のスターバックスでは、閉店時間になっても帰る様子を見せずに居座りつづける客が意外と多い。そういうときに、店員が手を叩きながら客席を周っているのを見たことがあった。この効果が絶大で、みないそいそと帰り支度をはじめる。店員は手を叩いだだけで、何も言ってはいないにもかかわらずだ。
 日本人はどうも手を叩かれると、そこに意味を見出すらしい。この場合、「はいはい、終わりだよー」という意味に勝手に脳内変換され、パブロフの犬のごとく一斉に動きだしたのだろう。この店員はなかなかやるなと思った。
 恐らく、欧米のスターバックスでは通用しない手法だろう。日本ならではのスターバックスだと、関心したのを覚えている。

 ひょっとすると、電車内で無差別殺傷事件が起きた場合でも、駅員が手を叩きながら通路を歩いたら、犯人はいそいそと帰り支度を始めてしまうのではないか。人間の条件反射は、意外と侮れないように感じる。

 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

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