無垢の歌 大江健三郎と子供たちの物語 / 野崎歓

大江健三郎の文学において、子供はときに危機にさらされ、不条理な世界を一身に受けとめる存在として描かれる。なぜ物語の少年少女たちは、かくも鮮烈な印象を残し、ひときわ輝きをはなつのか。大人が失ってしまったものと、“チャイルドライク”な作家の本質にせまる、まったく新しい大江健三郎論。

反時代的ゲーム

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村の消滅にあらがって

 大江の生まれ育った愛媛県喜多郡大瀬村は、彼が東大の学生だった1955年、内子町に合併され、「村」としては消滅した。それは近代化とともに村の数が減り続けていった歴史の一つの表れだ。

 江戸時代の日本には6万を超える村があったという。それが1945年には全国で合計8,518まで減り、2021年現在ではもはや183しか存在しない(総務省HPを参照。https://www.soumu.go.jp/kouiki/kouiki.html)。行政単位としての村が1つもない県は13県にのぼる。村の数が増加することは、おそらく二度とないだろう。

 村の減少は、地方自治体が行政の合理化や財政確保の必要といった課題に直面する中で加速した現象だった。いわゆる「平成の大合併」では、地方交付税が大幅に削られる一方、合併する自治体に対しては手厚い財政支援がいわばご褒美として与えられ、市町村合併の動きがいよいよ広がったのである。

 とはいえ、それは結局のところ、村そのもののパワーダウンを反映する事態だったと考えるべきだろう。伝統に支えられた村の活力は急速に衰退し、過疎と高齢化を食い止めるすべを見出せなくなった。

 大江が1979年に刊行した『同時代ゲーム』が、村を取り巻くそうした状況を意識して書かれた作品であることは間違いない。「四国山脈のただなか」にある村の「歴史と神話」を綴ることが、この作品の語り手である露己つゆきの使命だ(先回りして言っておけば、露己の双子の妹は露巳つゆみといい、村の創建者にして神である「壊す人」の巫女役を務めている)。これは村の「創建期」にさかのぼる、「原初以来」の記憶を綴る壮大な物語なのである。ところが、その村がいまではすっかり往時の勢いを失い、「衰亡への危機」に瀕していることを露己は認めないわけにはいかない。

 そのことを端的に示すのが、この20年というもの、村には一人も新たな子供が生まれていないという事実である。自然環境も悪化し、「いまやなにもかも悪い」という悲しい事態になっている。露己自身、学生時代に村を出て以来、村の外での人生を選んでいる。村の衰退の流れのままに生きてきた男なのである。そしていまや「われわれの土地の終り」すら視野に入れなければならず、実際「廃村化」の可能性が出てきている。

 1970年代末、高度成長期の曲がり角において日本の村に生じつつあった激変をそっくり反映しているという点で、この小説の設定はとてもアクチュアルなものだった。しかしそうしたなりゆきを根底から否定し、引っくり返そうとするかのような、狂おしいまでのエネルギーを村の伝説物語に注ぎ込む点において、これは敢然と時代に背を向けた作品といえる。「同時代」という単語はぼくの見る限り、作中で一度も用いられていない。そのかわり露己が口にするのは「反時代的」の一語である。

 「われわれの土地の神話と歴史を書くことに、あるいは壊す人巫女みこたることに固執する、およそ反時代的なわれわれ自身(……)」

 時代はもはや村のものではないと意識しながらも、その意識は逆に、時代にあらがう意欲となってほとばしり出る。露己の書きつける言葉はすさまじいまでの精気をみなぎらせて伸び広がり、繁茂する。その結果、小説は大江作品としても最高度の濃密さに到達している。物語の構想自体、これまでの小説をさらにしのぐイマジネーションの巨大な膨張と展開を見せつける。そのことを象徴するのが、幾度となく繰り返される次の表現だ。

 「村=国家=小宇宙」

 語り手である露己にとって、自分の生まれ育った村は「村であり国家であり小宇宙ですらある」。もともとそれは、彼が子供のころに村にやってきた奇妙な二人組の科学者、アポ爺、ペリ爺から教わった考え方だった。その思い出に忠実に、彼は自分の村を指すとき繰り返し「村=国家=小宇宙」と書く。

 こういう等号で結ぶ表記法は、当時、現代思想ブームの中でしばしば見られたものだ。たとえばフランス語のreprésantationを「表象=代行=上演ルプレザンタシオン」と表記するといったやり方が、いささか懐かしく思い出される。だがその場合はあくまで、複数の語義を並べて示すというに留まっていたが、大江的用法は違う。村<国家<小宇宙という具合に、実際のところ内包するものがどんどん巨大になっているではないか。

 元来こぢんまりとした集落に過ぎないはずの村が、巨大化のメカニズムの起点となり、自らの物語を拡張していく。村衰亡の時代に真っ向から挑戦する動きを小説は生み出すのだ。

困惑させる細部について

 そうした雄渾な小説世界=宇宙にすぐさま引き込まれ、そのただなかでのびのびと遊ぶことのできる読者は幸いなるかな。

 じつをいえば、ぼく自身は残念ながら、なかなかそうはいかず、鬱蒼たる森のようなことの重なりに行く手をさえぎられて、幾度か途中で読みさし、本を閉じた経験がある(『私という小説家の作り方』で語られている逸話によれば、大江は小林秀雄に、「おれは二ページでやめたよ!」といわれたというのだが)。その後、最後まで一気に読みとおして、これはまちがいなく大江文学の代表作だと実感できた。そんな経験にかんがみて、この本に弾き返されそうな読者に語りかけたい。あまり恐れることなく、とにかく文字を目で追ってみようではないかと。全体は、露己が妹・露巳に宛てて書いた手紙という設定である。手紙がそんなに読みにくいはずがない。

 と思いたいのだが、しかし冒頭から強烈にとまどわせてくれる細部には事欠かない。出だしの一段落を引用しよう。

 「妹よ、僕がものごころついてから、自分の生涯のうちいつかはそれを書きはじめるのだと、つねに考えてきた仕事。いったん書きはじめれば、ついに見出みいだしたその書き方により、迷わず書きつづけるにちがいないと信じながら、しかしこれまで書きはじめるのをためらってきた仕事。それを僕はいま、きみあての手紙として書こうとする。妹よ、きみがジーン・パンツをはいた上に赤シャツの裾を結んで腹をのぞかせ、広いひたいをむきだして笑っている写真、それにクリップでかさねた、きみの恥毛のカラー・スライド。メキシコ・シティのアパートの眼の前の板張りにそれをピンでとめ、炎のような恥毛の力に励しをもとめながら。」

 『同時代ゲーム』といえば、まずこの「恥毛」である。気持ちが悪い、わけがわからないといわれそうだ。見て見ぬふりをして先に進みたいところだが、全編の要所要所で妹の「恥毛」は幾度も繰り返し喚起され、讃えられる。全巻の結末にも「きみは燃えるように美しい恥毛で下腹部をかざっている」云々とあるのだから、語り手が妹の身体のその部分に読者の視線を惹きつけたがっていることは間違いない。

 いったいそれは何のためなのか。語り手が陰毛フェチであることを越えて(彼はそう自認している)、どういう意味があるのか。なぜ陰毛が炎で、励ましなのか。疑問はふくれあがる。困惑し、憤慨する読者もいるだろう。そうやって攪乱し、動揺させる物語として『同時代ゲーム』は書かれているのだし、考えてみればこれまでも大江作品はたいていが、そんな性格(つまり読者を困らせるような性格)を帯びた、「恐るべき子供アンファン・テリブル」のような作品なのだった。

 そしてまた、この雄大な森のごときスケールを誇る小説の中では、「何だこれは !?」という読者の問いに対して、遠くから、木霊のように答えが帰ってくることがある。妹に関してはやがて、彼女が末期癌に侵され、自殺したといううわさが流れたことが語られる。しかもそののち、彼女が健康を取り戻し故郷に戻ったという話も伝わってくる。そして「生きかえった君の写真がほしい」と書いた兄のもとに、妹自身がくだんの写真を送ってきたのだった。そんな事情は、冒頭から300ページほど過ぎてようやくわかるのだけれども。

 つまり恥毛は、妹が「生きかえった」しるしであり、生命のよみがえりのあかしだ。語り手は写真を見ながら、妹の「アハハアハハという屈託ない笑い声がそこからきおこってくる」のを感じる。「恥」どころか恥毛は屈託なさの表れ、明るい笑いの源なのだ。しかも妹自身が自ら進んで、局部のクローズアップを提供してくれているわけである。

 「ヘアヌード」なるものが各種雑誌に出回り始めるのが『同時代ゲーム』刊行の少しあと。そう考えれば時代に即した、あるいは時代を先取りするきわどい先進性も認められるだろう。ただしここでの写真には少しも淫靡さがなく、いわゆる「劣情」をかきたてるワイセツさが欠けている。幾度も繰り返される、妹の「バターの色に輝く完全な球体の尻」への熱い賛辞ともども、エロチックというにはいささか即物的、かつあっけらかんとしていて、いやらしくない。これまた、大江作品における性的描写はたいていいつもそうで、スケベさが乏しいともいえるのだが。


 それにしてもなぜゆえに語り手は、妹の恥毛や尻のイメージにすがりつき、頼りにするのであるか。これまでの大江論ではこの問題、なぜかまともに触れられていないようなので、不粋とは知りつつ、さらにこだわってみよう。

記紀神話の世界へ

 ここで「神話」の一語を導入するならば――何しろ語り手はのっけから、これは自分の村の「神話と歴史」を記す試みなのだと明言していた――、意外なほど整合的な説明が可能となる。作品冒頭、メキシコの大学に派遣された語り手が、学生相手に『日本書記』を原文に即して解説する場面がある。こちらとしても、いわゆる記紀神話のほうへと連想を働かせながら読んでみたい。

 そうすると、露己・露巳という双子兄妹の設定はどうしたって、神代七代かみのよななよにおいて、男女二神をあわせて一代をなしたという男女神を思い起こさせずにはいない。とりわけイザナキ・イザナミだ。「イザ」は「愛に誘う意」(角川ソフィア文庫版『古事記』の武田友宏による注)であり、イザナキ・イザナミの兄妹は、大野晋『古典基礎語辞典』よれば「最初の完成された男女であり、兄妹でもある」。その二人が、聖なる結婚により日本国 (大八島おおやしま)の生みの親となるわけだ。なお同辞典によると、イザナキの「キ」は男性を、イザナミの「ミ」は女性を示すという。

 つまり、大江における露己つゆき露巳つゆみの兄妹は、まさに「キ」と「ミ」によって呼び分けられる、創世神話のカップルにつらなる者だということになる。露巳が「巫女」としての役割を負っていることは、元祖・巫女であるアマテラスをめぐる神話の記憶を呼びさましもする。アマテラスは別名ヒルメ、すなわち「」であり、「日神につかえる巫女みこ」(武田、前掲書)であった。

 そしてまた、陰毛との関係に戻るなら、アマテラスが弟スサノオのたびかさなる非道に恐れをなして天の岩屋戸の中に閉じこもってしまったときのエピソードが思い出されよう。天上の神々は困ったあげく、芸能の女神アメノウズメに一役演じさせることにする。このときアメノウズメは、『古事記』によれば神がかりになって乳房をあらわにし、裳の紐を「ほと」つまり陰部まで垂らした。原文に「ひもをほとにれき」とあるそのしぐさが何を意味するのか、気になるところだが、要するにアメノウズメは集まった神々に向かって、自分の大切な部分を開陳しているのだ。「前開きの着物の紐をホトまで押し下げれば、ホトが見えるだろう」と池澤夏樹は自らの『古事記』訳に親切な注釈をつけている。

 アメノウズメのそんな一大パフォーマンスの結果、「高天原たかまのはらとよみて八百万神やほよろづのかみともにわらひき」。つまり、天上界がどよもすほどの神々の大爆笑が巻き起こった。それに興味をかき立てられてアマテラスは岩屋戸を細目に開けたわけである。大江の小説における露巳の快活な「アハハアハハ」は、神々の哄笑のはるかなる残響ともいえる。

 このように創世神話に直結させて読むことを、『同時代ゲーム』の「恥毛」は促しているのである。それに付された「炎のような」とか「燃えるように美しい」という形容は、元来「ほとには火に関する説話が多」い(白川静『字訓』)ことと関係づけられそうだ。イザナミは神生みの最後に、火の神カグツチを産んで、そのせいで陰部に火傷を負って死んでしまう。火の起源、そして死の起源を示す神話である。妹・露巳をあがめる兄・露己の姿勢には、いにしえの、体内に火を宿すものとしての女性の力、火の母神への畏敬が重ねられている。そして「カラー・スライド」とあるのだから、これは本来プロジェクターでスクリーンに拡大投影して拝むべきものなのだ。


 はたまた、兄妹の名に含まれる「露」、つまり水滴のイメージも古代神話に結びつく。露己がメキシコの大学で講義のテキストとした『日本書紀』の一節に見えるのは、イザナキ・イザナミが天浮橋あめのうきはしに立ち、天之瓊矛あめのぬぼこで地上の混沌をかきまぜるくだりだ。このとき、矛からこぼれた「滴」が潮となり、「嶋」を生み、日本の国土が誕生する。そんな一節を、二人しか受講する学生のいない授業で解説したのち、露己は学生の一人レイチェルとテキーラを飲んで酔っ払い、その勢いでいかにも貧しく侘しい性交をする。レイチェルの秘部に関して、何ともあけすけで物理的な、大江ファンでさえ眉をひそめそうな記述がなされている(引用はやめておく)。しかしそこにある「小さなしずくのような」云々という表現は、『日本書紀』の「滴」つながりだとも考えられる。悪趣味やフェティシズムの表れかと思える細部までもが、じつは神話的な発想に通じている。そういえば、肝心の村の名前は『日本書紀』の「淡路洲」にさかのぼる「吾和地」=「アハヂ」村とされている。「あわ」や「しずく」、「つゆ」のイメージが呼応しあっている。

 というわけで、『同時代ゲーム』は「村=国家=小宇宙」の歴史を日本、さらには人類の創世神話に結びつけようとする。だが、それですべて納得がゆくかというと、そうもいかないのである。『古事記』ならば、「ほと」の話であれ何であれ、読者としてはそれこそアハハアハハと笑いつつ、古代人のおおらかな心性に思いを馳せればいい。しかしここで大江が描き出している物語には、古代神話が与えてくれるそうした安定感とは別種の危うさや緊張がつきまとう。あるいは表題にある「ゲーム」のハラハラ感といってもいい。反時代的、とはいえそこにはやはり、同時代とクロスする感覚が脈打っている。

再生する神話

 ぼくが大学に入ったのは1977年だが、その翌年になると、喫茶店のテーブルがみるみるゲーム機に置き換えられ、店内のあちこちから電子音が響いてくるようになった。『同時代ゲーム』が出た1979年は、「スペースインベーダー」襲来の翌年なのだった。

 四国の谷間、隠れ里のような村が、日本国から独立した共同体として存続し続け、やがて第二次大戦直後にはついに日本軍相手に「五十日戦争」に突入する。ゴチック体のインパクトも強烈な「壊す人」を始め、「オシコメ」や「シリメ」や「牛鬼」、「ダライ盤」や「メイスケサン」や「無名大尉」など、特異なキャラクターが次々に登場して物語を引っ張っていく。ぐいぐいと書き進めていくさまは剛腕そのもの、コインを投じたその瞬間から、盤上でゲームが始動してしまうのと同様に、待ったなしである。とにかく文字に目をさらし続けるほかないというゆえんだ。

 そのなかで浮かび上がるのは、「神話」なるものがこの小説ではまったく独自の性格を帯びているということである。『古事記』のいわゆる「天地あめつち初発はじめとき」であれば、それははてしない時のスパンを隔てた話である。そしてまた本来、それが神話というものだろう。『同時代ゲーム』の文章も随所で、悠久の時をさかのぼる思いを味わわせてくれる。とりわけ、村を取り囲む谷間の森を喚起する描写は素晴らしい。

 「早朝の夏の光に、原生林の常緑樹は重くさかんな精気をたたえ、落葉喬木きょうぼくはその大きい樹幹と不釣合いな明るくこまかな緑葉の全体できらめき震えている。岩鼻からのけぞるようにして眺めわたせば、森のひとつの層の背後にさらに幾層もの森が、遠ざかるほどなだらかになる起伏を重ね、それらのつらなりの果てを見きわめることはできない。このような原生林の大海のただなかに、よく盆地をひらいて、人間の集落を築いたと不思議な思いを誘われるほどに。」

 原生林の語が繰り返され、人の手の触れない樹木の大海原に集落が息づいていることの不思議さへと想いを誘う。人々が「古代的な住居」で暮らし、「まさに古代社会」のような共同生活を営み、「古代人そのもの」として生きたとされるのも、森に保護されていたからこそなのだ。

 だが同時に、この古代風な村が伐り拓かれたのは意外に最近で、江戸幕府の時代だったことも冒頭から明かされている。

「まだ若い壊す人にひきいられた、やはり若わかしい創建者たち、かれらの油に光るチョンマゲ。」

 つまり「壊す人」たちというのは、もともとは藩から追放された武士たちなのである。彼らはまるで落武者のごとく、「藩権力」の「下部組織の網目」を逃れて川をさかのぼった。そして山襞の隘路をふさぐ「大岩塊」を爆破し、「大悪臭」や長雨に耐え、「神話の時代」の礎を築く。そんな逃走の旅路が、時代の遡行として描き出されていることに注意が必要である。

 江戸時代、村を基盤として農民が力と富を蓄え、近代への移行を着実に準備していたころ、「壊す人」たちはそれにまったく背を向けて、原始人的な生活に飛びこんだのだ。「壊す人」は「大岩塊」を爆破した際に黒焦げになりながらも、やがて復活。他の創建者たちともども、「百歳を越えてさらに成長し、巨人化をとげ」る。壊す人の最後の妻オシコメ(=「大醜女おおしこめ」)が村の指導者となると、オシコメもまた巨人化し、若者たち相手に「性的祝祭」を繰り広げる。さらには村の家屋を焼き払うという狼藉を働き、やがては体が縮んで「童女ほどの大きさ」になって晩年を迎える。

 こうした一切が、古代ではなく江戸時代の話であることに、いささか唖然とさせられる。いま紹介した部分にも、旧約聖書の創世記や古代ローマのネロ皇帝の逸話を連想させるようなディテールが盛り込まれている。近世・近代の日本の世に、こんな話がありえただろうかといぶかしくなるような法外な伝説が、日本一国を飛び越えた要素をも含んで展開されるのだ(そういえば露巳の「完全な球体の尻」は、古代ウェヌス女神像に付される「美尻のカリピージュ」というフランス語の形容詞に発想を得たものではないかと、ぼくはにらんでいるのだが)。

 そのことが示しているのはまさしく、これが日本の話ではない・・・・・・・・ということだろう。ここで展開されているのは、日本国ではありえない別の場所、異種の歴史が、日本国内に確かに存在したのだと主張する物語なのである。四国の深い森が、そんな異界の存在を保証し、守っている。創建者たちは「森の胎内」で「もういちど赤んぼうになったように更新された生命」を得たのだとされている。さまざまな神話の記憶や断片の生命もまた、この森で更新される。ここにあるのは、太古の昔に確立され、綿々と伝えられてきた神話というわけではない。つぶさに語られるのは、近世において神話が新たに芽吹き、育っていく、その様子なのである。「神話」自体の再生が試されているといってもいい。

 それはまさに、正体不明の「壊す人」のたどる運命そのものでもある。「第二の手紙」では、妹・露巳が最近、村の山腹の「穴」で「壊す人」を見つけたという驚愕のニュースが、さらりと語られている。「キノコのように小さく乾いて冬眠していた壊す人」を、露巳は手ずからよみがえらせ、「犬ほどの大きさにまで回復させ」たのだという。

 村は危機にあるとしても、村の創建者にして守護神となった人物は転生し、「炎のような」熱源をもつ妹の膝のうえで、ぬくぬくと育ちつつある。同じ熱源に照らされて、いまこそ伝説の物語を打ち立てるときだ。この小説の言葉は、ゲームオーバーを決して認めようとしない精神によって支えられている。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。