無垢の歌 大江健三郎と子供たちの物語 / 野崎歓

大江健三郎の文学において、子供はときに危機にさらされ、不条理な世界を一身に受けとめる存在として描かれる。なぜ物語の少年少女たちは、かくも鮮烈な印象を残し、ひときわ輝きをはなつのか。大人が失ってしまったものと、“チャイルドライク”な作家の本質にせまる、まったく新しい大江健三郎論。

神隠し願望

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不屈の抵抗

 かつて日本の村々では、狐が大活躍していた。「このあいだまんまと狐に一杯食わされた」、「あの人、狐に取りつかれたよ」といった会話が、ごく普通にかわされていた。だがあるときから、人間をたぶらかす狐たちの所業はすっかり目立たなくなった。渓流釣りを愛する哲学者・内山たかしは、長年にわたり、日本各地の山里を泊まり歩いてきた経験をもつ。自身、群馬県の山村・上野村で暮らしてもいる。そんな内山は、狐の話の消滅についてこう指摘している。「一九六五年、つまり昭和四十年頃を境にして、新しく発生しなくなってしまうのである。それも、どこの地域に行っても、である。」(『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』)

 大江の育った四国の谷間の村も、狐に代表されるような自然界の超常的な力のみなぎる土地だったろう。そして内山の指摘する、狐およびそれに類するものたちの急速な衰亡も顕著に感じられたはずだ。そうした傾向がもはや打ち消しがたくなった時期に書かれながら、『同時代ゲーム』では「壊す人」をはじめとして超自然的な存在が跋扈し、「ヤマイヌ」や「天狗」が子供たちをおびやかす。反現代的な不可思議――作中の言葉でいえば「森のフシギ」――の大々的復活を企てた作品なのである。

 さらにいえば、この作品にはそんな時代の流れを推進する社会体制に逆らおうという精神がみなぎっている。反現代は反日本に通じる。それは大江の描く「村=国家=小宇宙」の成り立ちそのものに関わることだ。

 江戸時代、山の中に逃げ込み、古代にさかのぼるような村落共同体を谷間に切り拓いた「壊す人」とその仲間たち。「被追放者」だったとのみ記されているが、彼らがなぜ追放されたのかはわからないし、独自の共同体を創立した理由も明確ではない。とにかく際立つのは、自分たちを追放した者たちに、徹底して背を向けようとする態度、そして「外側の権力にいっぱい喰わせ」ようとする反骨精神である。

 「村=国家=小宇宙」には長らく、生れた子供二人をついにして一つの戸籍に登録する「戸籍の二重制」があった。それは「明治政府の権力化への全面的な組みいれに抵抗するため」に案出された「カラクリ」だった。そうやって大日本帝国の支配から逸脱し続けることにより、村人たちは「この土地に生きて暮しておるだけで、大元帥陛下に叛逆申しあげておる」ことになる(念のため注しておけば、大元帥陛下とは陸海軍の最高指揮官としての天皇のことである)。

 その行き着いた先が、大日本帝国を相手取り、「徹底的な反・国家の意志につらぬかれて」戦った、五十日に及ぶ全面戦争だった(五十日という数字は、大日本帝国の十五年戦争を「転換」した数字でもあるのか?)。村の人間たちは力を合わせて、「帝国軍隊」を押し返すべく土塁を築く。

 「さてついに完成したところの、神話における大岩塊、あるいは黒く硬い土の塊りに似た、巨大な楔のような土塁の堰堤壁面には、タールで大書した次のような文字が見られたという。――不順国神まつろわぬにくつかみ、そして不逞日人ふていにちじん。」

 これは「大日本帝国への宣戦布告」の言葉だったと、語り手・露己つゆきは考える。「国神」については、白川静『字訓』の「くにつかみ」の項を参照しよう。「天つ神に対して、地上の神、その土地の霊的な支配者としてまつられる神をいう。また天孫系に対して土着の神をいい、ときにはその地の支配者をそのようによぶこともある。」

 つまりここで「国神」は、「村=国家=小宇宙」の「霊的な支配者」にして、「天孫系」の天皇に対抗する「土着の神」である「壊す人」を意味する。「壊す人」は大日本帝国に対する不順、不服従を高らかに宣言しているわけだ。

 また「不逞日人」については露己が解説を加えて、「関東大震災に大日本帝国軍隊が治安出動するにあたって敵とした、不逞鮮人という言葉を逆手にとって」用いたのだとしている。お前たち日本人こそはけしからん不逞の輩、というのである。

 これまで、多くの大江論者が、ちっぽけな村の人々が昂然と掲げたこの反抗のメッセージに心を揺さぶられてきた。これは反体制的な精神が、もっとも純粋かつ直截に表現された一節なのである。帝国の悪を断固として拒む不服従の姿勢の潔さ。しかも五十年戦争は「村=国家=小宇宙」の壊滅的敗北に終わり、そんな戦いがあったという事実自体、歴史から消し去られ、隠蔽されてしまった。とすると、露己がそれを物語る行為自体、大いなる正義の実践となる。なお残存する帝国の抑圧を、この小説はみごと撥ねのけてみせようというのだ。

かくれんぼの魅惑

 しかしそうした文脈のみを強調すると、この小説をかえって平板にとらえてしまうことになりかねない。反体制の砦としての「村=国家=小宇宙」とは、いささか図式的な称賛のしかたではないか? それは語り手の露己自身、よく自覚していることだ。彼は随所で、自分の村の特権的な位置づけに留保を示したり、「壊す人」神話に対する疑問さえ口にしたりする。反体制といっても、創成以来、村の内部には「差別された人びと」もいて、彼らに対して村は抑圧的であり続けた。「壊す人」には「スターリン」のような独裁者じみた側面もあった。そもそも、脱藩して谷間に逃れてきた「壊す人」とその仲間は、先に定住していた者たちに対する征服者、植民者として村を作ったのだ。「征服された者らの怨み」を買ったおそれだって大いにある。

 明治維新直前の時期に、藩権力に対して「一揆」を起こした、村の英雄「メイスケサン」という大物がいる。獄死したのち村の「土俗神」となった「メイスケサン」だが、土地の歴史上「もっともいかがわしい人間」ともされている。その評価は「つねづね逆転可能の流動性をはらんでいる」。そんな「メイスケサン」のありようが示唆するとおり、「村=国家=小宇宙」の神話と歴史は、決して一枚岩の抵抗精神、不屈の正義感からなるものではない。

 それならば、この「村=国家=小宇宙」に対する信頼、あるいは希求は、いったい何に支えられているのか。四国の谷間の小村が「他の土地とはちがう世界」であり、無二の特別な場所、「あくまでも守るべき根拠地」であるとされるのはなぜなのか。

 小説に即して考えるなら、重要なのは子供時代に由来する要素、幼少年期に源をもつ事柄であることが見えてくる。その例がほかならぬ五十日戦争だ。村人たちの戦いぶりで印象的なのは、子供たちも戦闘で一役買っていることである。単に大人たちに協力するというのではない。子供だからこその提言をし、それが戦術に取り入れられる。

 「自分らはこの原生林の縁のところで、つねづね迷路遊びというものをやっている。それは追跡班にまわった者らを相手に、自分らの本当の足跡は隠しながら、様ざまなにせ・・痕跡こんせきをつくりだして、いつまでも追いつくことを許さぬ遊びである。しかもそのにせ・・の痕跡にひきずり廻される者らは、いつの間にか仕掛けられた迷路に入りこんで、どうすればそこを抜けてもとの道筋に戻れるかがわからなくなる。そのようにして追跡者をたぶらかす遊びだ。」

 迷い込めば帰れなくなりそうな原生林の「縁」を舞台とする、難易度の高い危険なかくれんぼである。それに熟達した子供たちは大人たちに、「帝国軍隊」の兵士を森の迷路に誘い込んで、彼らの戦力を無効化しようと提言したのである。その作戦が実施されると、「帝国軍隊」の兵士たちは大いにとまどい、迷路を怖れていったん後退を余儀なくされたのだった。

 しかも恐ろしいことに、その作戦において、一部の子供たちは「閉じたにみずから迷いこんで外に出ることができなくなった」。そして「子供らは外側の時間の影響から脱けだし、原生林のなかを永遠の子供となって歩きつづけると伝承はいう」。

 何とも不思議な迷路作戦だが、それは「村=国家=小宇宙」を成り立たせている深い欲望のありかを浮き彫りにするものだ。村の起源については、先に次のような説明があった。

 「われわれの土地を開いた壊す人と創建者たちは、その神話の時代からすでに、森をへだてた外部に対し自己を閉じること、共同体ごと行方不明になることをめざしていた。」

 もともと武士であった「壊す人」らは、別段迫害されて逃れてきたのではないし、重い年貢に苦しめられて逃散ちょうさんを余儀なくされたわけでもない。結局のところ彼らの脱走は、逃げ出すことを純粋な目的にしていたふしがある。しかも語り手・露己は、迷路作戦の挿話に続く部分で、子供たちの活躍を語って弾みがついたのか、それまで触れていなかったこんな伝承を明かす。「そもそもの初め壊す人にみちびかれて川筋をさかのぼり(……)盆地まで辿たどりついたのは、みな童男女であった」というのである。

 これは重大なディテールではないか。「村=国家=小宇宙」は、あらゆる大人たちに背を向けた子供たちの、大々的なかくれんぼによって築かれたものかもしれないのだ。

「神隠しに遭いやすき気質」

 長編が結末に近づくにつれ、かくれんぼへの欲求はさらに突き詰めて描かれる。それがほかならぬ語り手・露己自身の、幼年時代における重大事件の核心をなすものだったことがわかってくる。
 
 すでに述べたとおり、ぼくはそびえたつ『同時代ゲーム』の山壁に幾度か弾き返されたのち、ようやく読み終えた経験をもつ。そこで実感できたのは、これが先に進めば進むほど面白くなる小説だということである。とりわけ中盤、第四の手紙の五十日戦争から(「大日本帝国軍隊」を率いる「無名大尉」が森の妖気にあてられていくあたり、ぞくぞくする)、第五の手紙で露己の兄たちの半生が語られるくだり(大リーグ入りをめざすツユトメさんの話、笑いあり涙あり)にかけて、素晴らしい展開だ。しかも一度通読して全体の流れを知ったうえで読み返すと、いっそう興趣は増す。大江の言葉が繁らせる森の深みにはまっていく快感に酔わされる。そのことを強調したうえで、結末部分に触れてみたい。


 子供たちがかくれんぼに夢中になるのは、それがしばし、孤独のスリルを味わわせ、日常の安穏からこぼれ落ちた先の光景を垣間見せてくれる遊びだからだ。かくれんぼとは「呪術的な遊び」だと述べたのは文芸評論家の奥野健男だった。「それは他界、つまり死の世界への隠れ遊び、常世とこよへの迷路探究の遊びである」(『文学における原風景』)。

 もちろん、普通のかくれんぼでは、鬼は隠れている仲間を難なく見つけ、遊びの時間はあっけなく終わりを迎える。だがもし遊びが終わらないとすれば、「五十日戦争」での迷路作戦が示すように、「永遠の子供」となるおそれがある。より伝統的な言い方をすれば、その子供は神隠しに遭うのだ。

 柳田国男の『山の人生』は、「山に埋もれたる人生」のうちに社会や文化の古層を透視する広壮なヴィジョンによっても、また博引傍証に支えられた細部の豊かさによっても、『同時代ゲーム』に多大なインスピレーションを与えたと考えられる。その第九章で柳田は、幼い時分、弟が生まれて母親の愛情を独占できなくなったとき、衝動的に家を出て迷子になりかけた体験を披露している。そして自らの思い出に照らして、神に隠される男児には何か「宗教的」とも「物狂い」ともいうべき「共通の特徴」が認められるはずだと述べている。

 柳田のいう「神隠しに遭いやすき気質」を、大江は語り手・露己に与えた。五十日戦争ののち露己少年は、「帝国軍隊」に譲歩したかに見える父の姿勢を許せなく思い、それに対する反発から、満月の夜に家を出て、谷間の斜面を登り始める。

 「足許は暗いのだが、躰の内からとどめようなく湧いて、自分の足を急がせる力。それは森から僕を呼びよせる者のせいかと自覚された。しかし僕は子供なりの、自立した自分の意志で、森へ入ることを決めたのだ。」

 柳田的な「気質」の目覚めである。露己少年は「壊す人」の不思議な存在を心身に受け止めながら、たったひとり、森で六日間も過ごすことになる。そこに大江自身の実体験が投影されているのかどうかは、もちろん定かではない(のちの作品『Ⅿ/Tと森のフシギの物語』では「Kちゃんが子供の時、森で神隠し・・・にあって」、『静かな生活』では、「パパは森で神隠しに会った後、自分の名前を急には思い出せなくなって」云々とあり、作家自身の原体験が暗示されている)。確かなのはそれが、谷間の村を取り囲む深い森の魔術的、呪術的な影響なしではなりたたない冒険だということである。

 ときは秋の暮れ、山中は冷えるだろうに露己少年はなぜか素っ裸になって――まさに己を露わにした姿――家を出た。その際、彼は「顔から胸、腹からもも、それにチンポコから尻の割れ目まで」紅粉を塗りたくった。旅芸人だった母の鏡台にあった紅粉である。母は父=神主に追い払われ、化粧道具を残して去ったのだ。そうやって裸身にペインティングをほどこすことで、少年は「きれいな食べ物としての自分を、喰い手の所へ配達するとでもいうよう」な気持ちになっている。喰い手とは森の奥に待つ鬼である。しかしそれは実のところ、「壊す人」との出会いに向けての化粧なのだった。

 「僕はその谷間と原生林の狭いはざまに立って、いま森の厚い樹木の層からにじみ出す力に全身を憑依されるようであり、永くじっとしていることはできなかった。そのように躰を真赤に塗り、腿から下を擦り傷、引っき傷だらけにして、わずかに血を滲ませ、盆地の高みをめぐる風の冷気に鳥肌だっている僕を、さらに確実に憑依すべく、見えない触手を伸ばしてくる力。それを僕は壊す人よりほかのものの力とは思わなかった。」

 少年は父や村に背を向け、自分の属する共同体から逃れ、自らを行方不明にしてしまいたいと願う。だがそれは、父からその伝承を日々教え聞かされてきた「壊す人」の意思が、密林から「滲み出す力」を介して、彼の心身に及んでいるからでもある。少年は森に呪縛され、酔っぱらったような状態に陥っている。全身を傷だらけにしながら、彼は生死の境を超えるようなぎりぎりの体験に向かって歩みを進める。

少年は境界を超える

 露己がかつて、神隠し的体験をしていたことは、すでに作品の途中で何度かほのめかされていた。「天狗のカゲマ」という表現によってである。自分は村で「天狗のカゲマ」と呼ばれていた、そう呼ばれる理由となった事件があったのだと匂わしていたのだ。カゲマとはすなわち男色を売る少年のことだから、そこには淫靡な経験への暗示がある。柳田国男の『山の人生』には、「天狗のカゲマ」とは「運強くして神隠しから戻ってきた児童」を揶揄する呼び方だったと解説されていた。

 それにしても、大江読者にとっては、露己少年の裸身と化粧は『万延元年のフットボール』を想起させずにはおかない。あの長編の冒頭で、「僕」は夜明け前の一刻、「土に同化」するようにして庭に掘られた貯水槽の穴にはまりこんでいた。そして「自分の内部の夜の森」に沈潜しながら、友の自殺に思いを巡らせた。

 「この夏の終りに僕の友人は朱色の塗料で頭と顔をぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜きゅうりをさしこみ、縊死いししたのである。」

 その突飛さで読者を仰天させる出だしだった。しかしそこにはヒントも隠されていた。実家からやってきた故人の祖母は「――サルダヒコのような」と呟いていたのである。『古典基礎語辞典』等によれば、猿田毘古は記紀神話に登場する「境界神」にして、長大な鼻をもつ「陽根神」であり、天狗の原形とされる。友人はサルダヒコに同一化しつつ、同時にわが身を性的ないけにえとしてサルダヒコに捧げ、彼岸への移行を図ったのだ。それに対し、貯水槽の穴ぼこに閉じこもった「僕」は、いわば神隠し願望を鬱々ともてあましながら、夜明けの時を待つばかりだったのである。

 これら『万延元年のフットボール』における都会のインテリ男たちの行動は、いかにも悲痛な奇矯さを帯びていた。『同時代ゲーム』はそれに対する雪辱戦ともいえる。少年時代にさかのぼり、谷間の森を舞台とすることで、神隠し願望は十全の規模で実現され、魔法のような高揚をもたらす。かくれんぼを徹底的に純粋化したゲームのただなかで、少年は非日常的な充溢を味わう。


 ゲームの規則は、夢のお告げによって少年に知らされた。巨大な「壊す人」の肉体の断片が、森の随所に埋められている。少年はその上を「ひとかけらをも見落すことなく」通りすぎていかなければならない。踏破がなしとげられたあかつきには、「壊す人」は復活するだろう。

 「壊す人をバラバラにして埋めた場所の道筋は、レーザー光線で森じゅうに投影された地図のように、僕の発熱した頭にくっきりと展開していた。」

 これは森の空間をフルに活用して繰り広げられるゲームなのだ。しかも一切は、「僕」の脳内でのみ展開される事柄である。バーチャルリアリティと外界の現実が重なりあうそのとき、ゲームは異次元へのトリップとしての強度を獲得する。

 「バラバラに解体された壊す人のすべての破片を覆うために歩いていた僕の眼の前に、分子模型の硝子玉のように明るい空間がひらき、樹木と蔓に囲われたそのなかに「犬曳き屋」や、シリメがいるのが見えた。そのようにして僕は次つぎにあらわれて来る硝子玉のように明るい空間に、ありとあるわれわれの土地の伝承の人物たちを見たのだった。それも未来の出来事にかかわる者らまで、誰もかれもが同時に共存しているのを。」

 過去の人物と未来の人物とが、現在を生きる「僕」を介して同時に共存している。それこそは「同時代」ゲームたるゆえんではないか。少年の前には、「ほとんど無限に近い空間×時間のユニットの、一望のもとにある眺め」が輝かしく広がっている。壮大なヴィジョンに少年は心を奪われる。時空の境を脱したかのようなそのとき、少年は「明るい空間」の中心をなす地点に、妹の未来の姿を幻視する。「娘に成長した」妹は、蘇生した「壊す人」とおぼしき「犬ほどの大きさのもの」をかたわらに従えているのだった。

 そのイメージとともに作品は円環を閉じ、読者は現在時へと送り返される。はたしていま、妹は「壊す人」を育てているのだろうか。「壊す人」は――何度目かの――復活を遂げるのだろうか。

 だが、それ以上にわれわれが強く感じるのは、この巨大な小説が、どれほど孤独な言葉からなっているかということである。妹への手紙という形式が最初から予想させていたことだが、妹自身は一度たりとも露己の前に姿を現さない。神話的なカップルを形作るはずが、露己と露巳は遠く隔てられたままであり、露己は写真ごしに露巳に語りかけるほかはない。露己はつねに独り身であり続ける。それは彼が子供のころから背負ってきたあり方なのだ。

 彼の育った「村=国家=小宇宙」は、「外側世界への否定の意志を内包した共同体」として成り立っていた。村のあり方そのものを自ら再現するようにして、かつて露己少年はかくれんぼ/神隠しの遊戯をたったひとり、原生林のさなかで演じ切ろうとした。そこで彼の得たのは、「森のフシギ」と一体化するような、深く壮麗な体験だった。だがその体験を経て、素っ裸の少年は、ふたたびこの世に生まれ直さなければならなかった。露己は「救助隊の消防団員たちにとり押えられた後、いつまでも泣き叫んでいた」。

 少年は無理やり夢から引きずり出された。あるいは、力づくで生の此岸に引き戻されたといってもいい。他の村人たちから見れば、彼は神隠しの結果「天狗のカゲマ」となった。隠されていたあいだに何があったのか、彼はだれにも語らず、沈黙し続けた。妹でさえ、この手紙によって初めてその六日間の内実を知らされたのである。

 「僕が生きている谷間での現実生活、そのいかなる局面よりも、堅固に意味のそなわっている世界を僕は見てきたのだ」。

 少年時のその経験が「自分の生涯の根柢こんてい的な条件づけ」となったのだと露己は記している。その経験にふさわしい言葉を紡ぎ出すことが、大江の小説にとっての「根底的」な条件だった。それは大人となりながらも、少年のほとんど絶対的な孤独に連帯し、傷つき餓えたその心身の発熱状態をともに生きることである。大人と子供の境界を踏み越えて、存在の森の奥底にひとり降り立つ。『同時代ゲーム』で作家が力の限りをふりしぼってなしとげたのは、そんな仕事だった。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。