スノードーム / 香山哲

ある雑貨店の片隅に、古いスノードームが佇んでいる。 その中に住む者たちは、不安に駆られ、終末についての噂を交わしていた。 天空に、ある不穏な兆しがあらわれたのだ。 果たして「その時」は本当にやってくるのか? それはどんな風にやってくるのか?  小さな小さな世界の中で、静かに近づいてくる終末の記録。

平均と特異

share!



 あまり突飛にならないように想像してみると、おそらく人間の中の一部だけが、大寒波を意識して生きているのだと思う。帽子の学生と傘の学生もそうだ。2人の学校にどれぐらいの生徒が在籍しているかは分からないが、たぶん全生徒の中で一番大寒波に関心を持っている2人だろう。



 その帽子と傘の学生2人も、他にもっと熱心に大寒波について調べたり発表する学生がいたら、もしかしたら冊子作りをしていなかったかもしれない。時々人間は、「空いている空間を埋める」ように考えや行動を選ぶことがある。群れの中で役割分担する動物とか、同じ森で住み分ける植物のように。



 ただ、こういうことについては想像が難しい。帽子と傘の学生がこれまでこの店内では話していないだけで、実は同じサバイバルクラブ内に大寒波についての冊子を作っているグループが他にあるかもしれないし、別の学校にそういう仲間がいたりするかもしれない。特に15歳ぐらいの人間には、短い間隔で何かに熱中したり、新しい興味に展開したり、目まぐるしい人も少なくないようだ。



 人間の世界では、たくさんの固有の人間たちがいて、さらにお互いに影響しあいながら、それぞれの人間の考えや行動が決まっていく。「大寒波が地球を襲う」という不確かな予測があって、それに対して「私は来ると思う」とか「そんなのは嘘だ」とか「何かのきっかけがあれば低い確率で起こるかもしれない」とか、人間それぞれが固有に反応する。そして互いに、「あの人が話題にしていたから意識するようになった」とか「あの人が言うようなことは信じない」とか、相互に考えや行動の方向性や強弱の具合を調整し合う。海の表面のように、人々がバラバラさを保ったまま、絶えず揺れ動いている。



 平均的に振る舞おうとする人間もいれば、「あまのじゃく」と呼ばれる人間もいる。たとえばある人は、「まだみんなが真剣に向き合っていないから」こそ、大寒波を真剣にとらえる。すばやく動き、たとえば研究して、たまたま科学的な根拠が見つかり、それに大勢の人が影響されて、大寒波の被害を抑えられることもあるかもしれない。別に何もしないかもしれない。研究しても何も見つからないかもしれない。発表しても誰からも相手にされないかもしれない。また逆に、「周囲のみんなが真剣になっても、最後まで向き合わない」という人間もいるだろう。そういう、色んな方向に特異な人間が少数いながら、多数は平均的な範囲に収まっているのが人間社会の印象だ。大寒波はきっと現在のところ、平均的な人間たちがそれほど真剣に考えてはいない話題なのだろうと思う。



 しかしサバイバルクラブの2人は、雑誌や映画で大寒波について知ったのだろうか。大寒波について知ったのが先か、サバイバルクラブに入ったから大寒波について知ったのか、どちらだろうか。冊子を作って、どこでどうやって配布しているのだろうか。そして誰が読んで、どう思うのだろうか。まったく想像もつかないことが多い。



 また、大寒波を真剣に思っているという点においては、サバイバルクラブの2人は「珍しい側の人間」かもしれないが、他の点についてはどうなんだろう。食事や勉強、人間関係や買い物、きっと「ありふれた面」もたくさん持っていると思う。そういったバランスや組み合わせが、人間それぞれ違っているのだろう。自然なことだけど、不思議だなと思う。