悼むひと 元兵士たちと慰霊祭 / 遠藤美幸

あの戦争から長い月日が過ぎ、慰霊祭の姿も変わりつつある。追悼の場は元兵士たちに何をもたらしてきたのか。家族、非当事者が、思いを受け継ぐことは可能なのか。20年戦場体験の聞きとりを続けてきた著者が、元兵士たちの本音、慰霊祭の知られざる舞台裏に迫る。

初年兵の「ルサンチマン」

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「ジャワは天国、ビルマは地獄、生きて帰れぬニューギニア」

 戦友会などで、「ジャワは天国、ビルマは地獄、生きて帰れぬニューギニア」とたびたび語る元兵士たちに出会う。兵士の運命は行った先の戦場で決まるのだ。しかし兵士は戦場を選べない。行き先を知らされずに数多の兵士が海を渡った。途中、敵の魚雷攻撃で海没という憂き目に合うことも珍しくなかった。1 元兵士が軍隊をもじって「運隊(うんたい)」という所以である。さりとてすべてを「運命」だとするにはあまりに忍びがたい……。

 実際に、ジャワは「天国」だったという記憶をもつ元兵士は多い。1942年3月、日本軍はジャワ島の戦いでは敵前上陸。「オランダ軍を追っ払ってやったから現地人に喜ばれてね……」と緒戦の「勝ち戦」を70数年経ても笑顔で懐かしむ元兵士もいた。ボルネオ島のサラワクでは、ほとんど空爆も戦闘もなく、「やることがないから毎日釣り三昧の生活だった」と楽し気に語る軍属もいた。

 一方で、インドネシアと地理的に近いパプアニューギニアでの戦場は最悪だった。なんたって「生きて帰れぬニューギニア」。それどころか「遺骨も戻らぬニューギニア」なのだ。あの「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる漫画家・水木しげる(1922~2015年)は、ニューギニア・ラバウル戦線の希少な生き残りである。二等兵の水木は上官のビンタの猛襲に耐え、激戦で左腕を失う不運に見舞われるが、幸運にも生きのびる。戦後、飢餓とマラリアや赤痢などの病気や深傷で死に逝く哀れな兵士の姿と戦場の不条理を戦争漫画に描いた。


 さて、「地獄のビルマ」とはいかなるものか。生きて帰れるといっても、生還率は3分の1。ビルマ戦では、約33万人の兵力が投入され、約19万人が生きて帰れなかった。2 元兵士たちは「わしらの両脇には死んだ戦友がおるんだ」と両腕を振って語る。実は、戦闘で死んだ兵士は少数派。戦死者の8割近くがマラリア、赤痢、脚気、栄養失調などが原因の餓死や傷病死で、彼らの大半が戦争神経症を同時に患っていたという。なかでも補給を無視した「インパール作戦(1944年3月~7月)」の敗残兵の消耗は甚だしく、ジャングルの中で動けなくなって坐り込んだらそこが死に場所になった。

 ある朝、同じ部隊の兵士が「今日は前を歩くからと……」と笑みを浮かべてトボトボと先に歩いて行った。その後ろ姿を見送った同年兵はイヤーな予感がしたそうだ。案の常、先に行った兵士は木に寄りかかるようにして息絶えていた。

 「こんなジャングルで死ななくてはならない無念なわが身をせめて同年兵の私に看取ってもらいたかったのだろう」。

 北ビルマのフーコンの雨期の雨量は尋常ではない。高温多湿のこの辺りは遺体の白骨化がすこぶる早かった。現地ではフーコンは「死の谷」と呼ばれる。三八式歩兵銃や防毒マスクや鉄帽などの軍装備は栄養失調で衰弱した身体には相当こたえる。銃剣を杖にする兵士もいたが、装備を軽くするため捨ててしまう者もいた。それでも最後まで……死んでも手離さなかったのが飯盒だった。

 「彼の目や口や鼻、穴という穴に蠅が真っ黒にたかって、蛆がボロボロこぼれ落ちてきて……こっちも体力もないから埋めてやることもできなくてね、小指を軍刀で千切って持ち帰るのが精いっぱいだった。それもいつのまにかどこかに落としてしまって持ち帰ってやれなかった……」。

 戦場では、遺体を焼いて骨を拾うのではなく、指を切り取り、飯盒炊さんの時に焼いて骨にするのだ。

 さらに兵士を看取った同年兵は語った。

 「遠藤さん、何十年も前だが、慰霊祭で彼の身内に会ってもね、本当のことは話せなかったよ。何でも本当のことを話せばいいってもんじゃないんだ」。

 事実だけが「真実」ではない。本当のことが話せない、あるいは嘘をつかざるをえない、そこに「真実」が隠されている。そして「真実」を明らかにしたからといってそれで終わりではないのだ。事実を探求する歴史研究者の端くれとして肝に銘じておきたい。

 20代から30代の若い兵士らが飢えと傷病に身も心も蝕まれ、道なき道に白骨化した屍を累々と重ねる惨状は、間違いなく「生き地獄」である。兵士たちはインパール作戦の退却路を「白骨街道」あるいは死んで靖国神社で会おうという意味で「靖国街道」と呼んだ。忘れてはいけないことは、これは日本兵に限ったことではない。ジャングルには英印兵も、時に現地住民の屍も散乱していた。屍に国籍も民族も階級も性別も年齢も関係ない。

 木に寄りかかって死んだあの兵士は、生前、同年兵に「死んだら靖国神社には行きたくない。俺は故郷に帰るからお前もそうしろよ」と語ったそうだ。

拉孟戦とはなにか?

 ビルマ戦線といえばインパール作戦。「地獄のビルマ」の代名詞だ。今年はコロナ禍の政府の諸々の愚策を「令和のインパール作戦」と批判するSNSをちょくちょく見かけた。現代でもインパール作戦のネガティブな影響力は半端ない。ところで、同作戦の失策(1944年7月中止)の挽回を掲げて、ビルマ防衛作戦の「最後の砦」として敢行された中国雲南省の拉孟らもう戦(1944年6月~9月)となると、その認知度は途端に低くなる。3 雲南の戦争がなんでビルマ戦線なの? という素朴な疑問はもっともで、鍵となるのは「ビルマルート」。ビルマルートとは、英米連合軍による蔣介石軍を支援する補給路で、別名「援蒋ルート」。日本軍はこの補給路を何としても遮断し、蒋介石の息の根を止め、泥沼化した日中戦争にケリをつけたかった。そこでビルマルートの重要な軍事拠点として注目されたのが雲南省西部の2000メートルの山上の拉孟。この地は古くからシルクロードとして栄えた交通の要衝だった。ちなみに拉孟とは日本軍が勝手に付けた名前で、現地では松林の山なのでシンプルに「松山」と呼ぶ。

出典:野口省己『回想ビルマ作戦』光人社、1995年、15頁

拉孟陣地付近からみた展望、著者撮影・以下同

 1944年6月から拉孟守備隊約1300名は、物量、兵力ともに雲泥の差の中国軍4万余の猛攻と兵糧攻めにも耐えながら100日余の死闘を繰り広げるが、9月7日に力尽きて「玉砕」した。アッツ島やサイパン島などの洋上の孤島ならいざ知らず、陸続きの山上での「玉砕」は戦史至上類がない。最後まで「死守せよ」。これが軍司令部の命令であった。

 私は2012年と2019年、2回拉孟を訪れた。200メートル四方の山上陣地の眼下に大蛇の如く蛇行する怒江が流れ、恵通橋という吊り橋が架かっている。山頂からの眺めは圧巻だ。日本を発ち航空機を何度も乗り換え、雲南省に入ってからも滇緬公路てんめんこうろ(中国のビルマルートの呼称で滇は雲南、緬はビルマ)を車で延々と走り続けた。中国大陸はとてつもなく広い。雲南独特の赤土の山肌が続く。70数年前もこのような景色を見ながら(といっても夜間行軍が多かったが)兵士らは歩いてひたすら歩いて拉孟までたどり着いた。気が遠くなるような道程だ。2012年に一緒に拉孟を訪れた元兵士の平田さんは「通常装備に加えて40キロの弾薬箱を担いで、滇緬公路の石畳を見ながら黙々と歩いた」と語った。平田さんは初年兵。弾薬箱を降ろして息つく暇なく分隊全員の飯炊きが待っていた。平田さんは、日本兵と中国兵の最下級兵士の「共通点」を二つ教えくれた。一つは、自分にかまう時間がないので軍服や身体が一番汚れている。もう一つは、日本兵は全員の飯盒を担ぎ、中国兵は大きな「支那鍋」を背負っているのが一番下っ端。ある時川のほとりで「支那鍋」に出くわした平田二等兵は、とっさに互いの立場を悟ってなんとも不思議な共感を覚えたそうだ。「腹が減っては戦ができぬ」。交戦は二の次で、別々に米を研ぎ、そそくさと部隊に戻った。

恵通橋

石畳の滇緬公路(ビルマルート)

 表1のように、ビルマ戦線には日本各地から兵士が集められ、10師団以上が従軍した。4 なかでも雲南戦場の主力は、九州久留米のたつ兵団。筑豊炭田の炭鉱夫も多く、「タコツボ(一人用の小さな散兵壕)」掘りもお手のもの。日本陸軍の屈指の「強兵」と謳われた。拉孟守備隊はその先鋭部隊。雲南戦場には龍兵団以外にも勇兵団、安兵団、祭兵団、狼兵団も馳せ参じた。平田二等兵は安兵団119連隊(野中大隊)の機関銃中隊。歩兵の「花形」だ。

表1 ビルマ戦線の師団の通称号と編成(1945年8月)

やすはやすやすまつり上げ、たついさむがしのぎを削る」

 元兵士たちが集う戦友会では仲間内にしかわからない隠語が飛びかう。女子高生の「JK言葉」ではないが、戦友会ビギナーには隠語は意味不明。私も最初はほとんどおじいさんたちの話についていけなかった。「安はやすやす祭り上げ、龍と勇がしのぎを削る」。これはビルマ戦線の元兵士、なかでも龍や勇の元兵士がよく口にするフレーズ。彼らは、「ビルマ戦線に祭と安がノコノコやって来たから負けたんだ」と事あるごとに話のネタにした。東北の勇兵団は東北人らしく寡黙で忍耐強く戦争がうまい。よって、龍と勇が雲南戦場で激しく競い合いながら戦果を挙げている最中に、祭と安が足を引っ張ったとでもいいたいのか……。当時、関西地区の安と祭は「弱兵」の代名詞。京都弁や大阪弁を軟弱だという者もいた。大阪人は金儲けの話しかしないと嫌悪する者もいた。大阪連隊の歩兵第8連隊にいたっては、「またも負けたか8連隊」と「弱兵」のレッテルを貼られて揶揄された。このような「隠語フレーズ」が兵士の間でまことしやかに囁かれた。戦時中だけでなく戦後も戦友会や慰霊祭で酒が入るとつい口に出た。

 雲南戦場でのこうした安兵団の扱いに、平田さんの憤怒は積もった。戦後、平田さんは梱包関係の会社を立ち上げ経済的に成功した。おそらくかつての上官より豊かな老後を送っていたであろう。白髪頭の老人となった元兵士たちはそれぞれの人生を歩んで来たのだが、戦友会や慰霊祭では不思議なもので、軍隊時代の階級がそのままモノをいう。平田さんはいつまでも一番下っ端の初年兵。ビルマ戦線の戦友会では「おー、安の初年兵か」といわれて「値踏み」されてしまうのだ。


 それだけではない。戦後、平田さんはある戦友会の訪中旅行で雲南戦場を訪れた時、龍と兄弟師団の菊の元大尉に、安の野中大隊500名が、拉孟守備隊の救援のために龍部隊の「おとり」となって、滇緬公路の峠分哨とうげぶんしょうの先の三叉路まで進軍したことを話すと、菊の元大尉は「龍が突破できなかった峠分哨の先の三叉路に安が進軍できるわけがない」と一蹴した。安の野中大隊が峠分哨まで達したことは同行者の誰一人信じてくれなかった。平田さんは、このときの口惜しさは生涯忘れられないと語った。野中大隊の「峠分哨の戦い」は生還した将兵の間でも黙殺され、防衛庁(当時)で編纂した『戦史叢書』は言うまでもなく、第53師団(安)の部隊史にもその記録が残されていない。

拉孟陣地(現地では松山戦役)の慰霊碑 

 
 平田さんは、自分が初年兵でなかったら、安兵団でなかったら、皆が信じてくれたのに違いないと顔を歪めた。峠分哨付近の「突撃山」と名づけた禿山で、数多の兵隊の命が散った。その後の龍陵の戦いで野中大隊はほぼ全滅したのである。平田さんは戦闘で負傷し野戦病院に送られて命を繋いだ。「安はやすやす祭り上げ、龍と勇がしのぎを削る」。これは雲南戦場を生き延びた平田二等兵には決して受け入れられないフレーズ。安だって祭だって、命を賭して戦った。平田さんは会社を次世代に譲ってからは、安の野中大隊の戦場の記録を後世に残すことに執念を燃やした。死んだ戦友のことを唯一生き残った自分が書き残さなくて誰がやると、意気込んでいた。

初年兵の「ルサンチマン」

 2017年9月15日、平田さんは京都の自宅でたくさんの資料や地図を机に広げ原稿用紙に向かったままで亡くなられていた。のちにご家族が平田さんの遺志を継ぎ残された原稿を私家版にまとめた。19歳の初年兵が見たリアルな戦場体験が生き生きと描かれていた。しかし、安兵団の一兵卒としての積年の「ルサンチマン」の痕跡はどこにも見当たらなかった。ご家族があえて削除したとは思えないだけに、平田さんは後世に残す安の野中大隊の記録にはあえて初年兵の「ルサンチマン」を記載せずに、命がけで戦った安兵団の「矜持」を後世に残したのだ。

 戦後、平田さんは龍兵団の元兵士と協力して、激しい戦闘地となった龍陵の白塔村に贖罪の気持ちを込めて小学校を寄贈した。その際、戦友会や遺族から募った建設費用700万円のうち平田さんが300万円を寄付した。安の初年兵の心意気である。
 
 平田さんの「ルサンチマン」を少しでも軽くできないかと、私は「ビルマ戦線と龍陵の戦場」と題して平田二等兵の証言記録を論稿にまとめた。安の野中大隊の壮絶な戦争の実像の記録と日本軍による加害の実態を明らかにした。ところが、日本軍の加害の記録が平田さんには受け入れがたく、日本軍は軍規律が厳格で現地住民にひどいことはしていないと叱られた。その後二度と会ってくれなくなったのである。京都の自宅マンションまで行っても門前払い。一緒に雲南を旅したこと、三日三晩ホテルに泊まり込み、缶詰状態で戦争体験の聞き取りをした。こんなに凝縮した時間をともに過ごした元兵士の方はいなかった。それだけに平田さんの強固な拒絶はさすがに堪えた。しかし今となっては、この拒絶が私を鍛えてくれたと思っている。これがなかったら私は平田さんの交錯した心の複雑な葛藤をわかったつもりでいて生涯わからなかった。

 しばらくして、娘さんから「父は、本当は遠藤さんにとても感謝していました」と告げられ、身体の力が抜けた。

 平田さんは復員した時のことを次のように記している。

 「父が畑仕事の帰りで一人待っていてくれた。駅前の広場の石に腰かけていた父が言った言葉『村で仰山の人が戦死している。三人出征して三人共戦死した家もある。うちは三人共帰って来た。お前一人位は戦死して来れん事には、村の者に顔向けならん』。」

 親子で人に見られないようにこっそりと村に帰った。

 さらに平田さんはこう綴る。

 「帰りたかった日本。だが帰ったら内地は変わっていた。…生きて帰ってきた者は悪者扱いか、妬まれて、居る場所がない。帰らねばよかったのか…。」

 戦地に行くときは万歳三唱で送り出されて、「地獄のビルマ」から生きて帰ってきたら、父からも日本社会からも疎まれる……。その時の平田さんは「肩身が狭い」と書いている。

 戦地で死んだ戦友も何のために死んだのか……。

 戦後の日本は、生き延びた兵士たちには生きづらい社会に様変わりしていた。その変貌にうまく順応できる人ばかりではなかったはずだ。戦場に送られた兵士たちは、加害に加担させられるという被害を被った。戦争を起こした責任者たちは、侵略した国や地域に多大な被害を与えたと同時に、自国の人びとを戦争に駆り立て身心ともに深刻な被害をもたらしたことにもっと真剣に向き合うべきであった。これは、現代の私たちへの問いかけでもある。兵士を英雄や英霊と表面的に称えることは、そうした事実から目をそらさせようとするものでしかない。平田さんの「ルサンチマン」を深く掘り下げてみればそういうものだったのではなかったのか……。

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. アジア・太平洋戦争における日本の海没死者の数は35万人以上で、日露戦争の戦死者約9万人と比べてもとんでもない数である(『日本軍兵士』中公新書、2017年、42頁)。
  2. 全ビルマ戦友団体連絡協議会編集委員会『ビルマ・インド・タイ戦没者遺骨収集の記録「勇士はここに眠れるか」』(1980年)、17頁。正確な数は兵力32万8501人、戦没者19万899人。
  3. 拉孟戦の詳細については、拙著『「戦場体験」を受け継ぐということ――ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』(高文研、2014年)を参照。
  4. 兵団とは陸軍の編成の基本単位で、歩兵4個連隊を軸に平時2万人、戦時2万5000人が目安。軍の編成は、総軍⇒方面軍⇒軍⇒師団⇒旅団⇒連隊⇒大隊⇒中隊⇒小隊⇒分隊と右に行くほど編成単位が小さくなる。ビルマ戦線でいえば、南方軍⇒ビルマ方面軍(森)⇒15軍(林)、28軍(策)、33軍(昆)⇒第31師団(烈)、第33師団(弓)、第15師団(祭)、第53師団(安)、第54師団(兵)、第55師団(壮)、第2師団(勇)、第56師団(龍)、第18師団(菊)、第49師団(狼)。( )は通称号。インパール作戦は祭、烈、弓の3師団による。