死ぬまで生きる日記 / 土門蘭

日常生活はほとんど支障なく送れる。「楽しい」や「嬉しい」、「おもしろい」といった感情もちゃんと味わえる。それなのに、ほぼ毎日「死にたい」と思うのはなぜだろう? カウンセラーや周囲との対話を通して不可思議な自己を見つめた1年間の記録。

『自分で自分の「お母さん」になれたらいいですね』

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 初めてのカウンセリングが終わったあと、本田さんからかけてもらった「パートナー」という言葉を何度か反芻した。彼女は私が最も困っている問題――「死にたい」という気持ちが常にあること、それが時々発作のように強くなること――について、ともに考えてくれるという。

 これまでにも、近しい人にこの問題について打ち明けることはあった。でもどこか他人事のように、あるいは過去の話や笑い話のように話してしまうことが大半だった。
 「長年悩んでいるからともに考えてほしい」と伝えたり、発作中に「死にたいから助けてほしい」とすがったりすれば、相手の負担になるのではないか。私が依存してしまうのではないか。寄りかかりすぎて共倒れになるくらいなら、やっぱり病院に行くのが一番なのではないか……そんなことをぐるぐる考えていると、一番辛い時こそ、助けてほしい時こそ、大事な人に何も言えなくなってしまう。それでいつも、発作の波がおさまるまで一人でなんとかやり過ごしていた。

 でも、本田さんと私は、友達でも恋人でも家族でもなんでもない。共通の友人も誰一人いない。単に本田さんはカウンセラーで、私はクライエントとして存在している。その間にあるのは、お金とZoomリンクだけ。私が代金を支払わなければ、Zoomリンクを押さなければ、つながりはあっさりと切れてしまう。

 それでも、いや、だからこそ、私はこの、自分にとって最も大きな問題を彼女の前に差し出すことができた。私が「死にたい」と感じることで、彼女は傷ついたり不安になったりしないから。ここでは私の問題は純粋に私個人のものであり、彼女はそれを観察する人でしかない。

 私の問題が、相手に溶け出さないこと。相手の負担にならないこと。
 そうであって初めて、私は自分の問題を、二人の間のテーブルの上にそのまま置くことができた。正直に自分の感情や考えを話すことができた。

 だから本田さんの「パートナー」という言葉からは、温かさや湿っぽさのようなものは一切感じず、むしろひんやりと乾いた感触がした。人の手の感触ではなく、布の巻かれた松葉杖のような感触。「恋人」とか「親友」とは程遠くやや無機質な、だけどしんどい時には掴まっていいのだと安心できるような、そんな予感のする言葉だった。


 1回目のカウンセリングでかなり泣いてしまったのと、子供がそばにいるという落ち着かない状況だったのもあり、次のカウンセリングはあまり日を置かず翌週に入れた。

 2回目の時には保育園も再開していたので、ひとりでPCに向かう。Zoomリンクを押したあと少し迷ったものの、ビデオはオンにしておいた。ほどなくして本田さんもやってきて「こんにちは」と言い、私の顔を見ると笑顔になった。
 「今日はお顔を見せてくださるのですね」
 画面の中の私が照れ笑いし、「はい」と頷く。

 それでも実名はまだ明かしていない。「土門さん」という名前で呼ばれると、現実のしがらみに引っ張られて、子供のように素直に話すことができなくなりそうだったから。
 「R」というイニシャルとともに笑う私は、なんだか現実感が希薄に見える。この女は誰なんだろう? 話しているのも動いているのも自分なのに、自分も知らない自分がここにいるようだった。それが本来の自分なのか、新しい自分なのか、私にもよくわからない。


 「調子はどうですか?」
 と聞かれて、前よりはマシです、と答える。あの後から発作は起こっていない。
 「ただゴールデンウィークが近いので、それが不安です」
 「ゴールデンウィークに何かあるんですか?」
 「私、大型連休が苦手で。夏休みとか、年末年始とか、いつもかなり落ち込んでしまうんです」

 子供の頃からそうだった。大型連休や三連休、または運動会や遠足やクリスマスなどのイベントごとといった非日常が苦手なのだ。だから連休やイベントのない6月が昔から一番好きだった。なんの変哲もない平日がずっと続けばいい。そう言うと、友達に信じられないという顔をされたけれど。

 本田さんが「連休が苦手なのはどうしてなんでしょう?」と尋ねる。
 私はちょっと考えて、「……『家』みたいなものが、浮き彫りになるからですかね」と答えた。
 「家?」
 「家族とか恋人とか友達とか……そういう、属している場所が際立つから嫌なんです。みんなちゃんとした『家』があっていいなぁって思ってしまう、というか」
 「でも……Rさんには今、ご家族がいらっしゃいますよね?」
 本田さんが、少し言いにくそうに言う。彼女の言うとおりだ。私には家族がいるし、帰る家もある。誘えば一緒に遊んでくれる友達だっている。それでもいつも不安になる。「家」に属しているのに安心感がない。「いつかいなくなってしまう」という不安感や虚無感が押し寄せて、楽しければ楽しいほど怖くなってしまう。

 「いつかいなくなってしまう?」
 本田さんにそう聞かれ、私はうなずく。
 みんな、いつかいなくなってしまう。死別という場合はもちろんだが、それよりももっと先に、私の前からいなくなってしまうように感じるのだ。
 「どうして、そのように感じるのでしょうね?」

 どうしてだろう? 改めて考えてみた。
 「だって、みんないなくなってしまうし」
 思わず繰り返し口に出た言葉とともに、涙がじんわり滲み出た。


 私は、子供の頃のことを本田さんに話した。
 「母は韓国人で、父は日本人で、私はいわゆる日韓のミックスなんです」

 母は30歳の時、職を求めて単身で日本にやってきた。知人の紹介で広島の焼肉屋に勤め、そこでお客さんとして出会ったのが溶接工の父だったという。母は日本語がほとんど話せなかったので、二人はうまく言語コミュニケーションはできなかったそうだが、周りにお膳立てされて結婚した。その間の一人娘として生まれたのが私だ。

 私が幼い頃からずっと、夫婦仲はすごく悪かった。もともと性格も合わなかったのだろうし、言葉でのやり取りもできない。お金もあまりなくて、母は稼げる夜の仕事(ホステス、のちにスナック経営)をしていた。だから昼夜すれ違いの生活で、そういういろんな要素が絡んで仲が悪かったのだと思う。

 家族旅行はおろか、家族揃ってご飯を食べることもほとんどなかった。顔を合わせると喧嘩するからいつも別行動で、夫婦バラバラに過ごしていた。その後ふたりは、私が中学に上がるタイミングで別居を選んだ。籍は、私のために抜かないでおくという。

 「Rさんは、どちらについて行かれたんですか?」
 「私は母に。でももともとお父さんっ子だったので、本当は父についていきたかったんです。言葉が通じるし、夜は家にいるし、父の方が仲が良かったし。だけど母から離れたら、彼女は完全に一人ぼっちになってしまう。日本にいる意味、いた意味が全部なくなってしまう。だから、母と一緒にいることを選びました」

 だけど、もっと本当のことを言えば、どちらとも一緒にいたくなかった。
 顔を合わせれば喧嘩ばかりする両親、団らんとは程遠い殺伐とした空気。どうして二人は結婚したんだろうと、父が怒鳴るたび、母が泣くたび、心底不思議に思った。私を産まなかったら良かったのに。そうしたら二人とも人生やり直せて、幸せだったろうに。二人がそれぞれ私を愛してくれていたことはわかっていたが、両親が言い争うのは私がいるからなのではないかとずっと思っていた。


 そういう時、私の逃げ場のようになっていたのが、近所の老夫婦の家だった。お琴が上手なおばちゃんと、読書家のおじちゃん。白猫を飼っていたので、私は彼らを「猫のおばちゃん、猫のおじちゃん」と呼んでいた。

 子供がいない老夫婦は、私のことを孫のように可愛がってくれた。「蘭ちゃんは賢くて優しい子だ」と言って、お琴を教えてくれたり、お菓子をくれたり、本を貸してくれたりした。おばちゃんはおじちゃんを尊敬していて、おじちゃんはおばちゃんを愛していた。私はその家の穏やかな空気も、柔らかな線香の匂いも、とても好きだった。ここの家の子になれたらいいのにな、といつも思っていた。

 「蘭ちゃんはほんまにいい子。うちの子に欲しいくらいじゃわ」
 おばちゃんがそう言った時、私は思い切ってずっと考えていたことを提案した。
 「本当に、養子にしてくれん?」
 おばちゃんはびっくりした顔をして、一瞬黙る。
 「養子って、難しい言葉を知っとるね」
 と笑って済まそうとするので、私は本気で懇願した。
 「お父さんとお母さんは喧嘩ばっかりじゃけん、もう家を出ていきたい。それでここの家の子になりたい。ちゃんと勉強するし、言うこと聞くし、迷惑はかけんけえ」
 困った顔でオロオロするおばちゃんを手で制して、普段は滅多に口を挟まないおじちゃんが
 「養子は無理じゃわ」
 と言った。
 「蘭ちゃんは、土門さん家の子じゃけえ。ちゃんと二人の元におりんさいね」

 そう言われた瞬間、スッと線を引かれた気がした。ここから先は来てはダメだと。「養子にしてくれ」だなんて無理なお願いだとはわかっていたが、これだけ好かれているのだから、褒められているのだから、もしかしたら頼っていいのかもしれない。そう期待しかけていた私は、一気に肌が冷たくなるのを感じた。

 私はすぐに「そうだよね、わかった」と笑って答えた。しつこくして嫌われたくなかったし、ギクシャクするのも嫌だったから。二人が好きだったし、これからもそばにいさせてほしかったから。

 その数ヶ月後に、両親の別居が決まった。私は母と家を出て引っ越すので、これからはあまり会えなくなると報告しに行くと、おばちゃんは「寂しいねえ」と言って泣いてくれた。私は笑って「また遊びに来るね」と言った。それ以来、猫のおばちゃんとおじちゃんの家には上がっていない。


 「Rさんにとって理想の『家』というのは、穏やかに安心して過ごせる場所だったのでしょうね」
 話を聞き終わって、本田さんが言う。

 「そうですね」
 「でも、Rさんのかつての『家』はそういう場所ではなかったと」
 「そうですね……」

 別居した後も、母と私は相変わらずすれ違いの生活で、ほとんど一人でご飯を食べたり眠ったりしていた。喧嘩を目の当たりにすることはなくなった代わりに、ずっと一人。それに慣れていって、途中からは寂しいとすら思わなくなっていったけれど。

 「私、ずっと『お母さん』が欲しいって思っているんですよね」
 「お母さん?」
 「実の母のことももちろん好きだし感謝しているんだけど……なんていうか、理想の『お母さん』をずっと追い求めている気がします。お母さん欲しいなぁって、ずっと思ってる」
 「それは、どんな人なんでしょう?」
 「……私のことを完全に受け入れてくれて、心から安心できる、そういう人。だから理想の『家』と『お母さん』はほぼ同義なんでしょうね」
 「実のお母さんは、そういう存在ではないですか?」
 私は「そうですね……」と言い淀んだ。

 母と私の間には、何年かけても越えられない壁があった。言葉の違い、文化の違い、それに伴う価値観の違い。
 自分の気持ちや悩みを相談しても、「蘭の言うことは難しくてわからない」と何度悲しそうに言われたかわからない。その度に私は、「難しいことは言ってはだめなのだ」と思った。お母さんが心配しないよう、自分のことは自分で解決できるようにならないといけない。わからないことは、自分でわかるようにしなくてはいけない。だから私は、母に精神的に頼ったり相談したりしたことがほとんどない。信用していないのではなく、困らせてはいけないと思っている。
 なので、韓国語は一切学ばなかった。それより日本語と日本文化を早く身につけることの方が大事だった。この日本で、私が彼女を守らないといけない。日本人として自立して、母を助けてあげないといけない。

 だから、母にとって私はかなり「いい子」だったように思う。あまり手のかからない、自分のことは自分でする、しっかりとした子供。日本語の読み書きができない母の代わりに書類関係は引き受け、難しい大人同士の話もわかる範囲で噛み砕いて伝えた。周りの大人はみんな、「蘭ちゃんはいい子だ」と言った。猫のおばちゃんとおじちゃんのように。

 でも中学生になったある時、母のスナックにやってきたお客さんに注意をされたことがある。お土産の寿司があるから食べにこいと呼び出され、特上寿司をご馳走になっていたのだけど、私の箸の持ち方が違うと言われたのだ。
 「母親が韓国人じゃけえ、マナーがなってないんじゃわ」
 カチンと来て言い返そうとしたら、母に何も言うなとたしなめられた。母は
 「ごめんね。そういうのはうちにはよくわからんけえ、お客さんが教えてやって」
 と笑って言う。お客さんは気持ちよさそうに箸の持ち方の講釈を垂れた。ちなみに箸の持ち方は韓国でも一緒だ。違う持ち方をしているのは、私の勝手なのだ。

 それ以来、母の自慢の娘になろうとますます躍起になり始めたように思う。韓国人だから、父と離れているから……そんな理由で母の育児が蔑ろにされるのは許せなかった。良い学校に入り、良い会社に入ろう。そう思って、努力した。合格した時、就職した時、本が出たり、新聞に載ったりした時には、真っ先に母に電話した。「お客さんに自慢しといてや」と言って。それは、今でも続いている。

 異国から来た母は、大学卒業するまで私を立派に育ててくれた。
 でも私にとって母はずっと、守ってくれる存在ではなく守らねばならない存在だったのだ。


 話しながらそんなことに気づいて、また涙が出た。
 「だからずっと、『ちゃんとしないといけない』って思ってたのかなぁ」
 と、つぶやく。
 「だから、『お母さん』が欲しいのかもしれない。ちゃんとしなくても安心していられる『お母さん』。自分が自分の『お母さん』になれたら、一番いいのかもしれないけど……」

 すると本田さんが「それはいいですね」と言った。
 「自分が自分にとっての『お母さん』になれたら、いつも安心ですものね」

 本田さんは続ける。
 「幼少期の体験は、人格形成にかなり影響を与えます。例えば幼少期に親の元で不安なく過ごすことができると、自分は無条件で受け入れられる存在なのだという絶対的な安心感が養われていきます。するとそれが自分に対しての信頼、ひいては他人、世界に対しての信頼感として培われていくんですね」
 「はい」
 「でもRさんは、幼少期にそういう感覚をなかなか味わうことができなかった。母親と言葉が通じなかったり、両親が喧嘩や別居をしたり、近所の信頼する方に拒まれたり、母親に対する差別を目の当たりにしたり……そういう体験を重ねるうちに、『ここは安心できない場所だ』と恐れるようになったのではないでしょうか。だから、自分自身が強くならなくては、認められる人間にならなくてはと、相対的・条件付きで自分を見る癖がついてしまったのではないかなと感じます」
 「なるほど」

 そう言われてみたら、確かにそんな気がする。両親には無条件で愛されているとは思うが、「家」が安心できる場所だとは思えなかった。ましてや「家」の外などもっと怖いところだと。自分が強くならなくては、賢くならなくては、いろんなものに潰されてしまうといつも怯えていた気がする。

 そう話すと、
 「Rさんは、母性が不足しているのかもしれませんね。逆に、父性がものすごく強いのかもしれない」
 と本田さんが言った。

 「母性と父性?」
 「簡単に言えば、母性とは絶対的に存在を受け入れるもの。父性とは、社会的、相対的に存在を高めていくものです。Rさんの場合は、圧倒的に父性が強く、母性が慢性的に不足している状態なのかもしれません」

 なるほど、と思う。だからいつも緊張していたり、不安だったりするのかもしれない。
 「そうかもしれませんね。相対的な価値でしかご自分を見ていないので、常に周りの目が気になったり、誰かに認めてもらわないと安心できないのかもしれません」
 「そっか。大型連休が怖いのは、相対的に認められるための『仕事』から離れると、何をすればいいのかわからなくなるから、というのもあるかもしれないですね……」

 時計を見ると、もうすぐカウンセリングが終わる時間だった。自分がなぜ連休を怖がるのかはなんとなくわかったが、なんの解決策もないまま大型連休に入るのは不安だ。
 それで「何か宿題をくれませんか?」と言った。
 「宿題?」
 「次回のカウンセリングまでに、連休中に具体的に取り掛かれるような宿題があると、ちょっと不安が取り除かれるような気がするので」
 すると本田さんは少し笑って、「やはり『父性』が強いのですね」と言った。やるべきことがないと、休むことすらできない。私は苦笑する。

 すると本田さんが、
 「ちなみに、Rさんが幸せだと感じる瞬間は、どんな時ですか?」
 と突然尋ねてきた。私は戸惑いながらも、
 「そうですね……書いた文章を人に喜んでもらえた時とか、家で子供が楽しそうにしている時とか……かな?」
 と答える。
 「あとは……なんだろう」
 「他にはないですか?」
 「いや、ちゃんと考えたことがなくて」
 「じゃあ、それを一度考えてみるのはどうでしょう?」

 本田さんが言う。
 「今挙げてくださった二つの例は、どちらも他人の関与する『条件付き』の幸せですよね。人に喜んでもらえた、その証としての言動を受け取った時です。もちろん良いことなのですが、それとは別に、他人の関与しない『条件なし』の幸せについても考えてみてはいかがでしょうか」
 「条件なし?」
 「はい。例えば、お風呂に入って気持ちがいい時とか、お花を見て綺麗だなと思う時とか、好きな食べ物を食べる時とか。他人の言動いかんによらず、単に自分一人が喜ぶ。そういう意味での『条件なし』の幸せです」
 「それは……自己満足のようなもの?」
 「そうです! まさに、自己満足」

 私はその幸せについてちょっと考えてみた。そう言われてみると、いくつかある気がする。
 「そういった幸せを、まずはリストアップしてみましょうか。その後に、リストの中からできそうなことを連休中に実行してみるのはどうでしょう?」
 「なるほど」
 メモをとりながら、何だかほっとした。連休中にやるべきことが見つかって、少し安心する。

 「他人の言動によってではなく、自分で自分を幸せにする練習をしてみましょう。それが、自分が自分の『お母さん』になるための、大事な一歩になると思います」

 「がんばります」
 そう言うと、本田さんは笑った。


 自分で自分を幸せにする。
 Zoomを切った後、自分のメモを見返しながら考えた。

 これまでは、他人に認められるよう努力することこそが「自分で自分を幸せにする」ことだった。居場所を作らなくてはいけない、認められたり好かれたりしなくてはいけない。そのためにたくさん努力をした。だけどそれは「他人に幸せにしてもらう」ことでしかなかったのかもしれない。

 自分で自分を幸せにする……そんなことができるのかな。
 でも、もしもできたら、それってすごいことだよな。
 だって、自分の中に居場所ができるっていうことだから。頑張らなくても、努力しなくても、常に自分の中に心地よくいられる場所があるってことだから。
 もしかして、それが私の欲していた「お母さん」なんじゃないのかな。

 そんなことを思いながら、私はゴールデンウィークを待った。
 いつもなら前日あたりに発作が出るのだが、今年は何も起きないままに、連休を迎えることができた。

 

 

江國香織『きらきらひかる』(新潮社 1994年)

『きらきらひかる』は、私が初めて読んだ恋愛小説だ。その時「この人たちは、自分と似ている」と思った。「ひとりなのは、私ひとりじゃないんだな」と。もうだめかもしれないと思う時、必ずこの小説を読み返す。たくさん涙を流して読み終わったら、本質的な自分に戻って、少し冷静になっている気がする。
あとがきにはこんな言葉がある。「ごく基本的な恋愛小説を書こうと思いました。誰かを好きになるということ、その人を感じるということ。人はみんな天涯孤独だと、私は思っています」

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。