スノードーム / 香山哲

ある雑貨店の片隅に、古いスノードームが佇んでいる。 その中に住む者たちは、不安に駆られ、終末についての噂を交わしていた。 天空に、ある不穏な兆しがあらわれたのだ。 果たして「その時」は本当にやってくるのか? それはどんな風にやってくるのか?  小さな小さな世界の中で、静かに近づいてくる終末の記録。

違和感

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 学生たちは、コピー機の説明書を店主に返して、それ以上には何もせず店を出た。もしかしたらこのあと、どこかで3人で話をしたり、カメラを写真屋に預けたりするのかもしれない。店を出た3人が自転車に乗っていく時には、楽しそうなやり取りが聞こえた。


「記念か……」と自分は考えた。生きていく時間の中で何かの記念を作ることは、その何かを忘れないためだったり、思い出すためだったりする。生命の仕組みは、たくさんのことを忘れていくという機能を持っている。記念を作ることは、必ずしもその忘れていく機能を否定するものではない気がする。忘れたり思い出したりを繰り返しながら、何かについて詳しく覚えてもいないし全く忘れてもいない状態というのも、意外とありふれたことに思える。


 昆虫や鳥も、自分や仲間に何かを知らせる印を、木や地面や自分の体に残したりすることがあるだろう。普通それらを記念とは呼ばないけど、そこに遊びや装飾が付け加えられていることだってありそうなものだ。


 意味のない印や、でたらめな情報を積極的に残す動物は、いるだろうか。いるとすれば、そこには部分的に記念のような意図も込められるかもしれない。


 自分たちはスノードームだ。このスノードームの中には、ほとんど記念が無いように見える。というか、そもそもスノードームというもの自体、人間たちにとっての記念品である場合が多い。記念品になる側だ。今、自分たちは誰の記念品でもないけど。


 このスノードームのガラスの天に現れた傷は、ある意味で自分たちの記念になっている。これを見るといつでも、傷を発見した日を思い出す。みんなの混乱、それから続いた言葉のやり取りを思い出す。すでに少し懐かしさも感じる、過去の日だ。


 冬になった。空を飛んでいる鳥や飛行機を見ていて、雲に近づいているなと思ったら、いつの間にかすでにその雲の中に入っている。そんな感じで、もう完全に冬になっていた。


 店に来る客たちには、色んな人間がいて、それぞれ個性を持っている。いち早くマフラーを巻く人もいるし、冬のあいだ一度も使わない人もいる。それでも人間全体を見ていると、毎年大体同じようにマフラーを巻いた人が増えていって、さらに手袋や耳あて付きの帽子を身に着けた人が増えて、そして一番寒い時期になる。


 ガラスの天にある、亀裂のように見える傷を、相変わらずみんなで毎日観察していた。もうカルラもシフトもマーズも、傷に変化が無いことに慣れていた。傷の見え方は毎日一緒だったし、ガラスの別の部分に新しい傷が現れることもなかった。


 そんなある日、いつものように傷を見た時に、違和感があった。思わず「ん?」とだけ声が出て、数秒傷を見つめた。なぜ違和感を感じたのかはわからない。「ん? 何?」とマーズが聞いてきた。「どうかした?」とシフトも聞いてきた。


 自分はひとまず「ちょっと待って」と返事をして、みんなとの会話を後回しにした。傷に対して感じた違和感が消える前に、感覚に集中して、違和感の原因を探した。だけど、わからない。


  傷の大きさや形状には、全く変化が見られない。毎日観察してきたのだから、自信がある。自分の位置からは、傷の向こうに重なって見える、商品棚の板の模様を基準にして、傷の大きさや形状を確認している。もし少しでも傷に変化があれば、気付くはずだ。


 まだ、みんなは静かにしている。自分の「ちょっと待って」の言い方で、真剣さが伝わっていたのかもしれない。傷をじっと見続けた。見えている傷の姿はずっと同じだけど、捉え方や注目点を変えたり戻したりしながら、何か気付けることが無いかを探っていった。たとえば、傷には奥行きがある。ガラスの分厚さがいくらかあって、傷もその分厚さの中に立体的に存在している。自分からは傷がほぼ真上にあるので、いくら遠景と重ねて見ても、奥行きについては情報を得にくい。


 ここでようやく、自分はみんなに話しかけた。「傷の見え方が少し今までと違う気がするんだけど、気のせいかもしれない。いつも確認してる傷の長さや方向には変化が無いんだけど……」と言うと、みんながそれぞれ反応した。シフトが「え!」と驚いたあと、マーズが「こっちから見た感じも、傷に変化は無いな」と言った。それを聞いたカルラも「ここから見ても変化は無いよ」と言った。するとシフトが「今しっかり確認してみる!」と言ったので、みんな確認結果を待った。


「うーん、別に変わってないと思う」とシフトが言うと、「そうか」とカルラが応えた。自分は「ごめん、やっぱり気のせいかもしれない」とみんなに言って、いくら傷を見ても違和感の原因がわからないことも伝えた。カルラが「念のため、しばらく注意しておこう」と言った。みんなは「うん」と同意した。