スノードーム / 香山哲

ある雑貨店の片隅に、古いスノードームが佇んでいる。 その中に住む者たちは、不安に駆られ、終末についての噂を交わしていた。 天空に、ある不穏な兆しがあらわれたのだ。 果たして「その時」は本当にやってくるのか? それはどんな風にやってくるのか?  小さな小さな世界の中で、静かに近づいてくる終末の記録。

天井

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 店主は、学生が落とした商品を確認し、「大丈夫、片付けるから下がってて。ガラスに気をつけて」と言いながらカウンターに戻った。この店の商品のうち、落として壊れやすいのはセラミックの食器や置物が多い。だから、液体が床にこぼれていることは店主にとって意外だったかもしれない。


 店主はカウンターの近くに立てかけてあった床掃除用のモップを手に取った。学生たちは3人とも、割れたガラスから離れて静かにしていた。



 床に落ちた自分の周りでは、たくさんの言葉が飛び交っている。右上の方向からも、左からも、後ろからも。「どうしよう」と慌てた声が聞こえたり、「何が起こった?」と問いも聞こえる。「ガラスが割れた」。「どういう状態?」。誰が誰に向かって話しているのかも分からない声が続いた。


 混乱した状況ではあったが、とにかく今、店の天井が自分には見えている。忙しく色々な言葉が散らばる中で、自分も言葉を投げかけてみた。誰に話しかけるわけでもない感じで、「天井が見える」と言った。今自分が持っている情報を、みんなに共有したい気持ちだった。1秒か2秒遅れて、右奥の方から「天井が、見える?」と聞こえてきた。


 そこで自分は、もう一度、さっきよりもはっきりと「天井が見える」と言ってみた。すると、ここに自分がいて天井が見えている、という感覚が、強く安定したように思えた。雑然としていた周囲の声も、静まっていくように感じた。


 天井が見えている視界の下の方には、棚が見えた。自分たちが置かれていた棚だ。棚の一番上から床まで目線を落とすと、割れたスノードームが見える。そのスノードームの中に、シフト、マーズ、カルラ、そして自分も見えた。


 壊れたスノードームの中に、たしかに4者の姿が見えている。自分の姿が見えているというのは、どういうことだろうか。



「ごめんなさい」と学生のうちの誰かが店主に言ったのが聞こえた。「大丈夫、大丈夫」と返す店主の声が聞こえ、モップが床を拭っていった。割れたスノードームの液体はモップに吸収され、そのついでにガラスの破片たちも掃き集められた。


 店主はひとまず、大まかに液体を拭いた後、一度モップを棚に立てかけ、スノードームやガラスの破片をちりとりに入れた。その間、学生たちは後ろで少し話し合っていたが、傘の学生が店主に「すいません、弁償というか、それを買ってもいいですか?」と聞いた。店主は「必要ないよ、気にしないで」と答えたが、傘の学生は「いえ、割れてても問題ないんで、その本体だけ買いたいんです」と言った。


 店主は、ちりとりの中を一瞬見て、「まあ、本当に欲しいなら、いいけど」と言って、そのあと「でもちょっと危ないから、本体に残ったガラスもできるだけ外しておくね」と言った。それを聞いた学生たちは、ほっとした様子になった。


 自分はその様子を、モップのブラシの位置から見聞きしていることに気が付いた。そして、店主や学生たちの会話を聞いている間に、自分はスノードームの中の石のオブジェクトではなく、スノードームを満たしていた、あの液体だったのではないかと思い始めていた。


 真冬の店内には、強めに暖房が使われている。本当に自分があの液体だったとすれば、モップに拭き取られた自分も、まだ床に残っている自分も、いつか蒸発してしまうかもしれない。しかし、あまり不安などは感じないし、それが自分にとって困ることとは限らない、と思った。


 カウンターのほうでは、学生たちが店主とやり取りをしながら、割れたスノードームの購入を進めていた。学生たちには何かアイデアがあるのかもしれない。オブジェクトたちを土台から外して、3人で分け合ったりもできるし、ただそのまま飾ることもできる。3人の学生たちは、偶然起こった失敗に、申し訳なさや落ち込みばかりではなく、愛着のようなものも感じている風に見えた。


 買い物を終えて、学生たちは店を出ていった。店主は去っていく学生たちの様子をしばらく見ていたが、やがてカウンターから出た。落とされなかった同型のスノードームを手に取り、同じ棚の、食器などが置かれているスペースに移動させた。そのあと、モップをカウンターのほうに持っていった。自分の知覚も、モップと共に移動した。