声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語 / 瀬尾夏美

伝えたいのに言葉にできないことがある。それでも、ふいに「語り」が立ち上がり、だれかに届く瞬間があるとしたら……。 土地の人々の言葉と風景を記録してきたアーティストが、喪失、孤独、記憶をめぐる旅をかさねた。 語る人がいて、聞く人がいる。ただそのことから生まれる物語と、著者の視点による「あと語り」がおりなす、ひそやかな〈記録〉。

平たい石を抱く

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 わたしは軍国少女でした。戦争に行きたくて行きたくて、志願して兵隊に行った兄が羨ましくてたまりませんでした。高等科2年の頃に先生が、軍需工場へ行きたい生徒はこの紙を提出しなさいと言ったので、わたしはすぐにその紙をもらって帰り、父の印鑑をこっそり取り出して捺しました。翌日先生に提出すると、なぜ行きたいのかと問われました。わたしは、英霊として迎えられたいから、と答えました。戦死した兵隊さんたちが帰ってくるときには、町中の人びとが集まって行列になって迎えます。女に生まれて兵隊にはなれないわたしは、せめてお国のために死ねたらどんなにいいかと思っていました。その夜、先生が家にやってきて、わたしの両親にあの紙を見せ、娘さんの意志は知っていますか、と問いました。何も知らない父は驚いて事情が飲み込めない様子で、先生が帰ったあと、とても恐ろしい顔になってわたしを叱りました。戦争で死なすために育てたんじゃない。どうせ負ける戦に出すわけにいかない。父はそう怒鳴りました。日本の窮地には神風が吹くと教えられていたわたしは、父の言葉に怒りました。なんでそんなひどいことを言うんだ。兄貴も戦地にいるのに。わたしがそう叫ぶと、父の後ろにいた母が声を上げて泣き出しました。わたしは決して母のことを嫌いではありませんでしたが、母は身体が弱くて働けない人で家計の頼りにはならず、それによく泣くのでその時ときはみっともないと思っていました。軍国の母なのに。隣の家のおばさんは、息子さんを気丈に見送っていたのに。もちろん母は、兄が出征するときもしくしくと泣いていたのですから。

 でも思い返せば家の中では父はいつも、日本は戦争に負けると言っていたので、大半の大人たちはすでにそのことを悟っていたのではないでしょうか。おそらくわたしは学校の教育によって、そのような考え方に染まっていたのです。そうは言っても、わたしは他の級友たちと比べても、ずいぶん熱心な軍国少女だったと思います。もともと素直すぎる性分なのと、男で年上だからこそ兵隊に行けた兄への羨望があったからかもしれません。それに、戦地に行けば白飯が出て立派な軍服を着せてもらえる。わたしの下に5人のきょうだいがありましたので、食べるものにも困る家庭で、これ以上両親を、とくに父を困らせたくないという気持ちも幼心にあったのかもしれません。わたしは胸の膨らみかけた自分の身体を、いつも恨んでいました。

 それなのに父は、わたしがこれ以上戦争に行く気を起こさないようにと、お金もないのに女学校に入れたのです。そのうちに戦争も末期になり、結局わたしたちはほとんど勉強をしないまま、勤労奉仕であちこち耕しているうちに戦争が終わりました。玉音放送は学校の校庭に全校生徒並ばされて聞きましたが、雑音だらけで何を言っているのかはわかりませんでした。先生たちが泣き崩れるのを見て、これは日本が負けたのだろうと思いました。

 自宅に帰る道すがらでも、あちこちで大人が泣いていました。その真意はそれぞれなのだろうなあと想像するくらいに、わたしはとても冷静でした。今朝まであんなに熱を持った軍国少女だったのに。その日は不思議な解放感で、足取りが軽かったのを覚えています。

Natsumi Seo

 それから数日後、兄は戦地からひょっこりと帰ってきました。夜中に着いたのでみなを起こしては申し訳ないからと言って庭先で眠って、翌朝わが家の戸を叩いたというのです。薄暗いなか汚れた軍服を着て立っている兄の姿を見た母は、はじめ幽霊か何かと思ったようですが、ただいま戻りましたという懐かしい声を聞いてたまらずその人を抱きしめると、たしかにその身体が兄のもので、ちゃんと生きているのを実感したのだと言いました。

 兄はもともと無口な方でしたが、帰ってきてからはますます無口でした。ぼうっとしている時間も多かった。家の畑を手伝うはずがそこまでもたどり着けず、庭先に座ったままでいることもよくありました。父も母もそんな兄を咎めることはありませんでした。兄は大変な務めを果たしてきたのだから仕方がないと思っていたのかもしれません。もしくは、兄から何かを聞いていたのかもしれません。

 そのうちにわたしは女学校を出て教師になりました。当時は自分の希望で職業を選ぶような時代ではありません。クラスの中でも先生と親しかった3人が声をかけられ、簡単な試験を受けて教壇に立ちはじめたのです。わたしは新しくなった教科書で、子どもたちに民主主義と平和について教えました。わたしは仕事が好きになり、しばらく嫁には行かずによく働きました。わたしは、働けない兄の分まで働いて家計を助けました。妹に頼るようなかっこうになって、兄はどんな思いをしているのだろう、とよく想像していました。これは、本当にわたしの弱い部分なのですが、家族で食卓を囲むとき、わたしは兄に対してちいさな優越感のようなものを覚えていた気がします。ここに並んでいる食事はわたしが支えている。戦争が終われば、女だってこうして働いて人の役に立つことができる。当時、働く女に対する世間の目はまだまだ優しいものではありませんでしたが、わたしはすくなくとも家族に頼られてうれしかったのです。

 数年経って兄は、戦争で夫を亡くした、3つ歳上の人と結婚しました。兄の嫁はものしずかでやさしい人でした。いつも兄たちは連れ立って畑に出て、朝から晩まで働いていました。ふたりの間に子どもは生まれませんでしたが、仲のよい夫婦だったと思います。

 兄嫁に関することで印象に残っているのは、ある夜、わたしが生理痛で唸っているときに、囲炉裏の隅で平べったい石を温めて布に巻いたものを、お腹に当ててください、と言って持ってきてくれたことです。とくに働く女にとって、生理は地獄でした。当時は職場でも家庭でも、生理の話など誰にもできませんでしたから。たとえば職場では、生理痛で弱っている姿を見られると、女としてみっともないと蔑まれました。だからわたしはいつも、生徒たちを帰らせた後に倒れるようにして教室でうずくまり、やっとのことで家まで帰ってきたのです。

 翌日の夜、囲炉裏の横で縫い物をしていた兄嫁にお礼を述べ、昨日の石と畳んだ布を渡して職場でのことを伝えると、彼女はうんうんと頷きました。そして、女として生まれただけで、どうしてこんなに辛いのでしょうね、と首を傾げました。囲炉裏の火で彼女の顔はチラチラと揺れていましたが、おそらくうっすらとほほえんでいたと思います。わたし、前の夫が戦争に行っていたとき、こういう平べったい石を夫の足に見立てて、いつも囲炉裏であたためていたんです。戦地でせめて彼の足が冷えないようにと願いながら、誰もいないときには、こうして石を抱いていました。彼女はちいさな声でぽつりぽつりと語りながら、わたしが渡した石を、自分のお腹にぐっと当てました。でもね、ある寒い日の朝に石がパキンと割れてしまったのです。それから間もなく、彼の戦死を知りました。そう語りながら、愛おしそうに石を撫でる彼女の姿を見ていると、わたしはただ泣けてくるのでした。ご主人を愛していたのですね、と問うと、彼女はちいさく頷きました。わたしはつづけて、あなたは兄さんを愛しているのですか、と問いました。すると彼女はふたたび首を横に傾げました。そして、ふうとため息を吐いた後、わたしはこうすることでしか生きていくことができないのです、と言いました。字も満足に書けない、子どもも産めない女ですから。

 わたしはそれから、兄嫁をすこし避けるようになりました。彼女に対して憐れみのような感情を持ちながらも、彼女が兄を裏切っている気がして嫌だったのです。どこか怖いとも、ずるいとも感じていました。そうしているうちに、わたしも職場恋愛で結婚をして、家を出てしまったので、兄夫婦とはすこし疎遠になりました。兄嫁は50になる頃に亡くなりました。それを追うようにして兄の頭は耄碌するようになり、食事を食べたことを忘れたり、家からいなくなったりするようになりました。わたしは老いた両親を手伝うために、実家に通うようになりました。

 晩年の兄の語りの大半はわけのわからないことでしたが、戦争中の記憶は部分的に鮮やかでした。繰り返し語られたことをここに記します。兄も軍国少年で、とくに航空部隊に憧れていました。でも、いざ志願するときに自分の死ぬ瞬間を想像してみると、ひとりぼっちで死んでゆく飛行機乗りよりも、仲間といっぺんに死ねる軍艦に乗った方がいいと思ったそうです。それで兄は海軍を志願し、西の海の沖で軍艦に乗っていました。日々大小の身の危険を感じながらも半年ほどが経ったある日、ついに兄たちの乗った軍艦に爆弾が落ちて沈没したのです。兄は運よく目の前に浮かんでいたベニヤ板の切れ端につかまりました。そこへ自分の名前を呼ぶ声が聞こえたのでふりむくと、網のようなものに縋ってかろうじて浮かんでいる上官を見つけました。上官は、おい、お前その板をよこせ、と繰り返し叫びました。兄は一瞬たじろぎましたが、その声を無視して必死に泳ぎ、なんとか岸にたどり着きました。そして、同じく岸に上がった同期の戦友とともに、上官が沈んでいくのを見ていたそうです。兄はこの話のおわりにいつも、戦争なんてそんなものだった、とつぶやきました。そしてつづけて、その上官に酷い仕打ちをされていたという捕虜たちのことを語ろうとして涙を流し、それ以上は嗚咽して語れなくなるのです。戦争から帰ってきた兄が抱えていたものは、いったい何だったのでしょう。それが、軍国少女だったわたしが向き合わなくてはならないことのはずなのです。

 いまの時代は食料も豊富にあり、爆弾が降ってくる心配もありませんけれど、いい時代とは言い切れません。あの時代とは違った苦しみがあり、窮地に追いやられている人もいるでしょう。そういった人びとのことを思うとき、わたしは、兄と兄嫁のことを思い出します。そして、なぜ彼らにもうすこしやさしく接して、ゆっくり話を聞いてあげなかったのだろうと悔やむのです。同じ時代を生きながら、わたしは彼らよりもすこしだけ恵まれていました。それでも決して平坦な道のりではありませんでしたが。日々忙しなく働き、子と孫を育て、わたしに残された時間はわずかです。けれど、いまからでもふたりのことを、ふたりのような人たちのことを、そして彼らが抱えていたもののことを、考えたいと思うのです。


Natsumi Seo

 わたしのずっと年上の友人に、宮城県の山間地に暮らす90歳のお姉さん、Sさんがいる。彼女は息子さん家族と二世帯住宅で暮らしているけれど、基本的には自分のことはすべて自分でやっている。電話が鳴ったら小走りで出るし、庭先の畑でつねにいろんな野菜を育てているし、近所に住んでいる同級生とは毎日一緒に散歩をしているし、とても元気な人だ。そして、おれいっつもうっかりしてるんだもなぁ、と笑いながら、きゅうりの漬物を一度に何種類もつくってしまうお茶目な人だ(しかもご近所さんたちも漬けたきゅうりをお裾分けに持ってくるので、彼女の冷蔵庫は夏の間中きゅうりだらけになる)。

 わたしは友人と連れ立って、ときおりSさんを訪ねる。お茶をいただきながら世間話をしているなかで、Sさんはよく少女時代の話を聞かせてくれるのだけど、そのほとんどは“戦争”に紐づいた記憶と言える。たとえば兄弟仲について尋ねてみると、お兄さんが志願兵になったときのエピソードが出てくるし、お母さんの人柄を問うと、軍国の母なのに泣き虫でねえ、という話し方になる。とはいえ、そのときの彼女の語りは重苦しくも説教くさくもない。いつも通り淡々としていて、体裁としては他のおしゃべりと同じだ。けれど、その声はどこかしんみりとしたトーンに変わっている。それでわたしは、Sさんが何か大切なことを語ろうとしているようだと察知して、よりしっかり話を聞こうと耳をそばだててみる。彼女の真意はわからないけれど、受け取れるものはなるべく受け取りたいと思う。ずいぶん年の差のある友人同士は、ときに“語り伝え”の協働者でもあるのだと感じている。Sさんとわたしたちは、そんな時間を一緒に過ごすのがとても好きだ。


 ある日、いつものようにSさんの少女時代の語りを聞きながら、ふと、物資が何もなく、女性の立場がとても低い時代の生理事情はどうなっていたのだろうとわたしは思った。いまの時代でさえ生理期間はケアが大変なのに、およそ80年前、いまでは想像も及ばないくらいに困難な戦時を、彼女たちはどのように過ごしていたのだろう。そんな疑問を投げかけると、Sさんは一瞬ピリッとした表情になって、女の人は本当に大変だったんです、と答えた。そしてまた優しい声色に戻って、あんたたちは馬鹿にしたりしないからな、次来た時にちゃんと話すから、と続けた。あ、これは何かが託されるかもしれない、とわたしは思った。

 数週間後、お盆の終わり頃にもう一度訪ねると、Sさんは「今日話すこと」のプログラムをつくってくれていた。生理、出産、夫との死別、継ぎ縁(家を存続させるため、戦死した夫の弟と再婚すること)……テーマは、“女の苦労”だった。Sさんは書かれた文字を指でなぞりながら、例のしんみりとしたトーンで語りはじめる。戦時の、あるいは終戦間もない頃の女性の暮らしはたしかに壮絶だった。たとえば、当時は生理についてきちんと教わる機会がないため、初潮が来た時は、自分の身に何が起きているのかさえわからなかったという。もちろん生理用品もないので、Sさんは雑紙を揉んで柔らかくしたものを股に挟んでしのいでいたが、紙があるだけマシだった。腹が痛んでもただ耐えるしかない。他の人たちがどうしていたのか知らないのは、当時は女同士でも、生理で苦しむ姿を晒すのは恥という空気があったからだという。たしかに物理的な課題も苦しいけれど、本来苦しみを分かち合えるはずの者同士が攻撃しあう構図になることほど悲しいことはない、とわたしは思う。ええ、それって悲しすぎませんかと返すと、そうなんだよねぇ、とSさんは頷く。これまでのSさんの人生に、このような話をする機会があったのだろうか。あったとすれば、当時は語りにくかったことが語りあえるようになったのはいつだったのだろう。そして、いまわたしたちにこれを話すことは、彼女にとってどんな意味を持っているのだろう。

 出産時の話も印象深い。子どもが生まれると近所の人がお祝いを持ってくるのだけど、そのとき決して家には上がってこない。「産火いろう(拾う)から」、つまり穢れを持ち帰るのがよくないのだそうだ。Sさんの暮らすまちには山岳信仰があり、女性である山の神様が出産の血を嫌うのだという。それで、穢れが移った身体で山仕事に入ると事故が起こるので、訪問者は出産した女性には会ってはいけないのだという。最も労わられなければならない母親が穢れたものとして扱われる。Sさんのメモには、「不浄」という言葉が大きく書かれている。わたしはそれを見つけて息を飲む。

 わたしはそれまで、このまちの山岳信仰について、郷土史家のおじさんから何度か話を聞いていた。おもには祖先の魂が還る場所としての山について。おじさんは、あの山だよ、と言って広い田んぼのずっと奥を指し示す。生活のなかの風景に祖先のいる山がある。その思想はとてもうつくしい。さらにその思想が、年中行事や冠婚葬祭の作法、地域の風習として日々実践されており、それを教えてもらうたびにわたしは感動していた。Sさんが語った出産の話は、郷土史家のおじさんからは聞いたことがなかった。同じ時代、近しい場所に暮らしていても、立場によって、とくに性差によって、こんなに見えているものが違うのか。もちろんおじさんに聞いた話の価値が揺らぐことはないけれど、その事実は衝撃的だった。

 わたしたちが絶句していると、Sさんは、昔は大変な時代だったんだもねぇ、と笑った。そして、いまはナプキンでもなんでも堂々と宣伝してるし、出産はもちろん喜ばれるものだからゎ、とってもいいんだもんね。でもね、いまもっと見えにくくなってるかもしれねえけど、違うかたちで苦労してる人、あると思うんだ、と続けた。

 Sさんが伝えようとしていたのは“かつての女の苦労”ではなく、それがいまだなくならず、現代を生きる若い誰かの苦しみとして残っている、ということだったのかと気がつく。彼女は、あんたらそれがちゃんとわかっているか、とわたしたちに問うている。翻って、Sさんは戦争の話も、そうやっていまの問題として語っていたのだろうと遅ればせながら勘づく。

 渦中のなかの渦中にあって語るのが憚られていたものごとが、数十年の時を経て、たまたまの出会いの交点にて、ふと語られる。彼女らは過去にあった苦しみや間違いをいままさに語っている。そのとき託されるものは過去の事実だけではなくて、これからのための問いかけを含んでいるということを忘れずにおきたい。

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます