声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語 / 瀬尾夏美

伝えたいのに言葉にできないことがある。それでも、ふいに「語り」が立ち上がり、だれかに届く瞬間があるとしたら……。 土地の人々の言葉と風景を記録してきたアーティストが、喪失、孤独、記憶をめぐる旅をかさねた。 語る人がいて、聞く人がいる。ただそのことから生まれる物語と、著者の視点による「あと語り」がおりなす、ひそやかな〈記録〉。

霧が出れば語れる

share!

 わたしの家はあたらしい地面の上にある。周りにはまだ家が少なくて、ずっと広い空き地のような感じだ。一番近い家が歩いて5分くらいだからお隣さんと呼ぶには遠すぎるけど、でも遮るものがないからその家の明かりが灯ればすぐに気づくことができる。たぶんあっちから見てもそうで、お互いを気にしあう関係が出来ているのだとすれば、それはお隣さんと呼ぶのに十分なのかもしれない。その家には30代くらいの夫婦とおじいさん、そして男の子とちいさな赤ちゃんが住んでいる。男の子は近ごろ補助輪のついた自転車に乗り始めたから、小学校に上がる前くらいだろうか。ふたりの姿を見るたびに、あの子たちは震災を知らないんだなあと思う。

 高校に通う道のりはほとんどが平らなので、わたしは自転車で通学している。うちの周りの建物がほとんどないエリアを5分ほど進むと飲食店がポツポツあって、その先は中心市街地と名付けられ、小規模だけどショッピングモールと商店街がある。お金も移動手段もない高校生的には、だいたい図書館か公園にたまって放課後を過ごす。少ないながらもまちなかに居場所が出来たのはうれしい。

 家がない、家族がいない、職場がない。そんな状況からここまで来た。みんながほんとうに気を張って、がんばっているのをずっと見てきた。いつもがんばりすぎていて、子どもなりにも、この生活がいつか崩れてしまうのではないかと心配する気持ちの方が強かった。実際こころが折れてしまった人もたくさんいた。同級生で、とつぜん言葉が話せなくなった子もいた。小学校のころまではいつも明るくてクラスの中心にいたのに、中学校に上がってからそうなって、だんだん学校にも来なくなった。彼はたしか内陸の、海の見えないまちに引っ越した。

 こんな霧の日に彼のことをよく考えるのは、空気が冷えて夢から覚めるような気がするからかもしれない。こんなに目まぐるしくいろんなことが起きているのに、わたしはふつうに暮らしていて、その方が変なのではと思うことがある。でもそれがこの10年間のわたしたちの日常で、このまちの変化と一緒に成長してきた。

 今日は親友が委員会で遅くなるので早めに帰宅する。高校から出て短い坂を下り、中心市街地を通りすぎ、草はらみたいな宅地をまっすぐに走る。霧のつぶで頬が濡れる。


 ちょうど自宅の前まで来ると、お隣さんの男の子がいた。自転車の練習をしていたらここまでたどり着いたらしい。どこに行きたかったの? と尋ねると、一番遠く! と答えるので笑ってしまった。男の子の家の方を振り返ると、玄関のところに赤ちゃんを抱いたお母さんが立っていて、こちらに気づいて会釈をした。男の子はまだまだ遊びたいという感じだし、じゃあ一緒に行こうかと声をかけると、歓喜の声を上げながら自転車を走らせる。思ったよりもおぼつかない様子を見てわたしは、ひとまずカバンと自転車を置いて男の子を追いかけることにした。男の子は山側に向かってまっすぐに進もうとしている。わたしはその後をついていき、わあ危ない、とか、じょうずじょうず、なんて声をかけながら、手持ち無沙汰に辺りを見ていた。いつもなら自転車で突っ切ってしまうから、こんなにゆっくり風景を眺めるのは初めてかもしれない。

 山の形に違和感があるのは、わたしたちの暮らすこの地面が10メートルも土を盛って最近造られたものだからだ。それで山が低くなったために、お父さんが津波の時に駆け上がったという竹やぶがすぐ目の前にある。津波から2ヶ月くらい経ったあと、壊れた家を解体するからと言って連れてきてもらった時に、ここへも寄って話を聞いた。お父さんが避難したのは近所の子どもなら知っている抜け道で、小さいころのわたしと幼なじみがそこで遊んでいるのが写真に残っていた。その写真を撮ってくれた近所のおばあちゃんが流されて亡くなっていたのを知らされたのは、たしかわたしが中学生になってからのことで、大人たちなりの気遣いを感じつつも、でもそうしているうちにおばあちゃんの顔を忘れてしまった自分が悲しかった。

 わたしはあの日小学校にいた。14時46分に大きな地震があって、校庭に避難した。だんだん近所の人たちも集まってきて、そのうちの誰かが津波! と叫んだのでみんな散り散りに逃げたのだ。当時わたしは2年生の終わりで、隣の列に並んでいた5年生のお姉さんに手を引かれて校舎の3階まで上がった。結果としてうちの学校で亡くなった子はいなかったけど、新学期になったら児童の半分近くが転校してしまっていて、お姉さんもそのうちのひとりで、いまだにお礼もお別れの言葉もないままでいる。お姉さんの顔も名前もやっぱりおぼろげで、それが悲しい。

Natsumi Seo

 お姉さん! という高い声で顔を上げると、男の子が黒い大きな石碑を指さして、これは何? と聞いてくる。それはたしか昔のまちにあった何かの石碑で、わりと最近ここへ移設されたものだ。しかし、何? と正面から問われても正体はよくわからない。石碑って言うんだよ、大事なことが書いてある石。本当はこの地面のずっと下にあったの。とわたしが言うと、男の子はこの下? と言ってつまさきをトントンと地面に打ちつける。柔らかい土が跳ねる。まずいことを言ってしまった、と思った。この下に何かあるの? と問われて、でもそれを説明するのはすこしむずかしい。だってあなたの立っている地面は震災から生まれたもので、このまちすべてがあたらしくて、ほんとうはこの下にみんなが暮らしていたまちがあったんだから。でもこんなにちいさい子に、そんな話を急にしていいのかと迷ってしまう。それに聞かれたってわたしもよくわからない。まだ2年生だったからほとんど知らないし、覚えていないのだから。男の子は不思議そうな顔をしたまま、こちらをじっと見ている。詰んだ、と思った。

 むかしむかし、この下にまちがあったの。とわたしは言った。そして、とってもいいまちだったんだけど、いろんなことがあってね、あたらしいまちが必要になって、いまわたしたちはここにいるんだよ、と続けた。すると男の子は、え! と声を上げてはしゃぎだす。じゃあなんで地面は硬いの? 何があったの? 下のまちの人はどうしているの? と次々に問うてくるので、わたしはそのたびにうんうん頭をひねって答えていった。どうやったら行けるの? という問いに、下のまちが一番遠い場所かもしれないね、と返したのはなかなかよかったかなと思う。

 碁盤の目に整備された道路を並んで歩く。この下には何があるの? と何度も尋ねられるので、思い出せるものは思い出し、わからないものは適当に答える。郵便局、公民館、タケちゃん家、わたしの家……そこでまた男の子は、え! と叫ぶ。お姉さんの家があったの? と聞いてくるので、そうだよ、と答えると、いいないいなと跳ね回る。わたしは思わず笑ってしまって、たぶんあなたのお父さんやお母さんのお家もあったと思うから、あとで聞いてみたら? と言ってみる。

 霧の日は湿っぽくてにおいが濃くなる。どこかの家から流れてくる夕飯のにおい、せっけんのにおい、そしてシロツメクサのにおい。草はらのような宅地を歩いていると、小学校の帰りに寄り道して、流された町跡を歩いた時のことを思い出す。あの時も一面にシロツメクサが生えていて、昔の道路があって、ポツポツと花束が手向けてあった。ああそうか、海の見えないまちに引っ越した、あの男の子と一緒に来たのだ。時おりここに来ていると聞いて、わたしもついてきたのだ。彼は歩きながら落ちているものを拾ってはそれが何かを確かめて、また茂みの中にポイと捨てた。ちいさかったなりに、わたしたちも何かを知りたかったのかもしれない。なくなったもの、あったもの、起きたこと、これからのこと。そうだ、教室の窓からわたしたちはずっと、風景が変わるのを見ていた。遠くに海がよく見えた。あの日、大きくふくれた海。

 ねえあなたのおかげでいろいろ思い出したよ、と言うと、男の子は、そっかあとつぶやいてふたたび自転車に跨った。一気に漕ぐ速度をあげる。自転車のライトが行き先を照らす。私は小走りでついていく。

 お隣さんの玄関に明かりが灯っているのを確認して、じゃあね、と声をかけると、男の子は、またねえ! と叫ぶ。夜の霧の中をライトの光がまっすぐに進んでいくのを見届けて、わたしは、わたしの家に帰る。

Natsumi Seo

 東日本大震災から10年が経とうとするいま、いったい何を書きたいだろうと考えていた。最初は陸前高田でお世話になった故人について書こうと思っていたのだけど、ちょっと違う気がして書き直した。彼の語ったことはいつか必ず書くとして、わたしとしてはこのタイミングで、たしかに積み上げられてきたものと、あたらしく生まれつつあるものについてレポート的に記しておきたいと思った。

 わたしがこの1、2年でとくに感じていることのひとつは、震災の語りに関して、すでにあたらしい“聞き手”が生まれていて、それに付随するようにしてあたらしい“語り手”も生まれつつあるのではないかということ。10年が長いか短いかという個人の感覚には関係なく、10年経てば人は10歳年を取り、亡くなった人もいれば生まれた人もいて、もう語れなくなった人もいる。当たり前のことだけれど、それは“語り伝え”、“継承”の現場にとって大きなことだと感じている。

 震災の語りはこれまで“当事者”あるいは“体験者”と呼ばれる人たちが中心となって担ってきた。とくに近しい人を亡くした人たちはその語りを求められてきたし、強い使命感に突き動かされて自ら語ってきたとも思う。それはとてもかけがえのない営みで、聞き手の胸を打つ。けれどその語りを10年も繰り返せば、しんどい気持ちでいっぱいになってしまうこともあるだろう。これまで遺族として表に立ち続けてきたある人は、「これまでどんな場所でも語ってきたけど、やっぱり語りたくなかったのだと気がついた」と言った。辛いものは辛かったのだ。そろそろゆっくりしたい。

 また、あたらしいまちが整備され、被災した風景が目に見えなくなるにつれて、日常会話に震災の話が出ることも減ってきたと思う。自宅や店舗の再建をすれば、日々は忙しくなる。形は大きく変わったとしても、こうしてやっと日常が取り戻された。それはとても力強い事実だ。

 このように、いままで主な語り手だった“当事者”たちがあまり語らなくなってきたことを、忘却の問題としてただ悲観的に捉えるのはすこし違う気がしている。むしろ時間が経つことによる“癒え”が徐々にではあるが広がってきているように思える。防災や歴史の観点で忘れてはいけないことがある一方で、個人が個人の体験から来る辛い記憶やそのぶり返しから逃れられるようになるのは、癒えにとって必要なことだと思う。


 被災地域の変化の一方で、やはりこの1、2年で、遠く離れた場所に暮らしているような、 “当事者性”が低い(と思っている)人たちから、「いままで何もできなくて申し訳ない。でもやっと知りたいと思うようになった」と声をかけられる機会が増えた。とくに、震災の時に子どもだったような、10代、20代の年若い人たちが多かったため、最初は、「そんなに気負わなくてもいいのでは」とか、「これじゃ2011年と同じ地点で立ち止まったままじゃないか」と心配したけれど、もしかしたらそうではなくて、10年近い時間をかけて、こういった声を上げられるまでに進んできたのかもしれない。彼らは、子どもから大人になるという身体的、精神的な成長も経て、聞き手になる準備が整いつつある人たちと捉えることもできる。

 語らなくなりつつある“当事者”と、聞きたいと願うようになった“非当事者”。あんまり語りたくはないけれど、信頼に足る人になら語ってみたい。自分が聞いていいのかわからないけれど、聞かせてもらえるなら、丁寧に向き合いたい。そんな両者が出会えば、きっといい語りの場が生まれるのではないか。(こういった発想から、実際に陸前高田で両者を引き合わせて行なった“継承のはじまりの場”の試みについては、映画やインスタレーション作品になっている『二重のまち/交代地のうたを編む』〈小森はるか+瀬尾夏美〉をご覧いただければと思う)

 そして、実際に話を聞くという経験をすると、聞き手はその後、語り手にならざるを得ないところがある。受け取ったものが大切すぎて自分の中だけで完結させてはいけないと思ったり、語りのその重みに耐えかねて、自分を守るためにも誰かに手渡さなければと動き出したりもするだろう。すぐに語り出す聞き手もいれば、その時を何年も待って語り始める人もいるかもしれない。もちろんその価値に気づかないままの人もいると思うけれど、その人の身体にも、話を聞いたその時間は刻み込まれている。

 このように、“非当事者”あるいは“当事者性”の低い人たちが、“当事者”(=他者)の話を聞くという体験を通して、その話を伝える語り手になっていくという流れは、 “継承”におけるとても基本的で強いかたちなのだと思う。たとえば、口伝えで広まっていく民話を想像してみてほしい。

 おそらく聞き手というものは、ある程度“当事者性”の中心から離れている人の方が担いやすい。震災を語り伝える場においては、語り手は“体験者”の役を引き受け、聞き手はある程度その出来事を知らない者としてふるまう。互いの距離が離れている方がそういった役割分担がしやすいだろう。そのうえで、やり取りを重ねるあいだに互いを理解し、語り手は何をどのようにどこまで話すか判断し、聞き手はそれを受け止めていく。そのとき、聞き手自身の体験や背景も尊重されていく。

 これはまったくの私見だけれど、10年が経とうとするいま、震災“継承”の営みにおいて、このあたりのことまではいろいろな形で実践されつつあると思う。


 さて、わたしがいま気にしているのは、たとえば被災地域の子どもたちが語り手となるために足りないものは何か、ということだ。先ほども述べたように、 “非当事者”と “当事者”が聞き手と語り手の関係を結びやすいのに対し、その間をグラデーションのようにつなぐ、とくに“当事者”寄りに居て語ってこなかった人たちの声が、まだまだ聞かれづらいように感じている。彼ら自身にも語るべき体験はあるはずなのに、これまで「震災は大人の問題」だと捉えて自らは語ってこなかった、子どもだった人たち。彼らも成長に伴い自らの言葉を獲得してきているはずだから、おそらく足りていないのは聞き手だ。彼らを“語り手”として相対する人。

 しかし、もしかすると、彼らのような立場の人たちは、これからもなかなか語りづらいかもしれないという予感がある。わたしが一方で行なっている戦争体験の聞き取りで、終戦当時に子どもだった人たちが、「自分は子どもだったから語るに値しない」と言葉を濁すことがある。もちろん辛い記憶を語りたくない気持ちがあるのかもしれない。けれどそれだけではないと思うのだ。

 「霧が出れば語れる」と題したこの物語では、震災の後に生まれたちいさな子どもに、震災当時小学生だった人の聞き手になってもらった。聞き手と出会うことで彼女は、語ってよいのか、どう語ろうかと惑い、彼女は自分自身の中にある“語りたいこと”と “語らねばならないこと”に気づいていくかもしれない。これからの長い時間で、彼女がまた新しい聞き手に出会えることを願いつつ。

 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。