声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語 / 瀬尾夏美

伝えたいのに言葉にできないことがある。それでも、ふいに「語り」が立ち上がり、だれかに届く瞬間があるとしたら……。 土地の人々の言葉と風景を記録してきたアーティストが、喪失、孤独、記憶をめぐる旅をかさねた。 語る人がいて、聞く人がいる。ただそのことから生まれる物語と、著者の視点による「あと語り」がおりなす、ひそやかな〈記録〉。

今日という日には

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こんな風に今日を迎えるとは思ってもみなかった
朝からきれいな青空でずいぶん心地がよいのだから
あの日の朝のことは覚えていないけれど
夕暮れの吹雪はいまも目に浮かぶ
わたしは駆け上がった高台の公園で、まちが壊れていくのをじっと見ていた
大勢の人が集まっているのに身体を寄せるということはなく
ただひとりだと感じていた
眼下に広がる巨大な水たまりと
その底に沈んだわがまちを
この雪が、すべて覆ってくれればいいのにと願っていた

わたしはいまあたらしいスーパーへ買い物に来ている
夫は朝から新幹線の駅まで娘を迎えに行き
わたしは公営住宅に暮らす母とここまで歩いてきた
息を切らす彼女の背中を撫でながら
あなたが今日まで生きたことをたしかめてホッとしていた
スーパーの入り口で黒いスーツを着た娘が手を振っているのを見つけて
母がおもわず笑顔になった
再会はどんな日であれうれしい
ここに父と兄がいないことは悔やまれるけれど

平日なのに店内は家族づれで賑わっていた
われわれのように喪服を着ている者も多い
みな、あの日から10年の式典にゆくのだろう
遺族と呼ばれるようになって10年が経った
このまちの会話ではもう被災者という言葉は出ないけれど
テレビをつければ
わたしたちはまだそれを演じねばならないのだと気がつく
レジの横のイートインコーナーで
仮設団地で一緒だったおばあちゃんたちふたりを見かけて
その手に缶チューハイが握られているのでちょっと笑った
なんでもない平日を楽しんでいるのか
悲しみを癒す酒なのかはわからない
そしてふたりはまったく違う気持ちなのかもしれないけれど
今日という日に、となりあう人がいてよかったと思う

ねえせっかくだから外で食べよう
と娘が弾んだ声で提案するので
そうだなあ追悼公園も出来たし行ってみるかと夫が答えた
スーパーの駐車場を歩きながら
この真下あたりが、ばあちゃん家かなと娘がつぶやいたので
ええどうだろう違うんじゃない、ほらあの山の見え方がちょっと
とふりかえると、おもいがけず空が近い
嵩上げ工事は10メートルだっけとわたしが問うと
たしかそう新聞にあったなと夫が答える
ねえ幽霊も埋まってしまったかなと娘が言うので
みんなお空に上がったのと母が笑った

海辺の公園にはたくさんの人がいる
小さな子どもを追いかける夫婦
何も話さず寄りそっている老人たち
休憩中の工事作業員たち
ずいぶん高い防潮堤の上をひとり歩く人
それぞれにこの時間を過ごしている

海風は冷たいけれど日差しのあたたかさには代えがたい
いつもとおんなじ弁当でも今日はおいしいねと母が言うので
わたしはちょっと泣きそうになる
じいちゃんもおじさんもここに居てほしかったね
と娘がつぶやくと
みながふと顔を上げて海の方を見つめる
そうだよ、ねえなんでいないの、とわたしは思う

14時46分は海を見ていようかと夫が問うてくる
何それいいこと言うじゃんと娘が答えて
え、せっかく喪服着たのに式に行かないのとわたしは返したけど
それはいいねえと母も言うので
まあいいか、気持ちがいいしねとわたしも頷いた
こんなにおだやかな日はいつぶりだろう
やっぱりあなたたちとも一緒に過ごしたかったよ
とわたしは胸の内でつぶやく

14時半くらいになると他の人も動きだした
申し合わせた訳ではないのになんとなく列のように連なって
海辺の防潮堤の方へと向かってゆく
わたしたちもその列にそろそろとついてゆき
真新しい防潮堤に刻まれた階段を登り
ふたつの半島に挟まれた丸い湾口を眺める
やわらかい輪郭をした濃紺の海がゆれている
なんという青さだろう
わたしはこの青さを見ると身体から力が抜けるのだ
あの日たしかにここから海があふれ出したのだけど
あれは濃いグレーだったから別物なのかもしれない
だけど、気が遠くなるほど長い夜が明けたあのとき
やっぱりまちがないとわかって涙が出たけれど
きらきらと光る水面はどうしたってうつくしくもあった

それから今日までほんとうにせわしなかった
瓦礫の中を歩いて、娘の小学校に集まっていた家族に再会した
すぐに兄を探すための安置所めぐりがはじまった
うちはわりと早く見つかったけど
いつまでも見つからない誰かを探し続ける人の姿は切なかった
慣れない避難所暮らしでいがみ合うこともあった
仮設住宅は手狭で、動くたびに互いの身体がぶつかった
壊れた町跡が解体されるのは仕方ないと思っていたけど
実家と自宅の跡地が埋められたときにはひどく落ち込んだ
夫の職場も流されたから安定するまで時間がかかった
周りの人たちが仮設を出ていくのを見て焦り
自宅の再建について夫と口論になることもあった
父が生きているうちに家に招きたかったけれど
それが叶わなかったのはわたしの臆病のせいかもしれない
娘が高3の時に家が完成し
半年でもひとり部屋を使わせてやれたのはよかったと思う
母は週に一度デイケアに通うようになり
わたしは最近あたらしい仕事をはじめた
わたしたちなりに歳を取り、それなりに進んできた

そろそろだよと娘がつぶやく
母はシワが刻まれた手をしっかりと合わせ
夫はぼんやりとした目で正面を見つめている
長い防潮堤の上にはずっと、人びとの列が連なっている
さまざまな服装の人たち、さまざまな理由でここに立つ人たち
そのひとりひとり誰もがきっと、何かを思っている
わたしはホッとしたような気持ちで目をつむる

10回目の防災無線が鳴る
しずかな時間をともにすごす
風と波の音
海鳥の声
工事車両の行き来する音、槌音
人びとの息づかい
わたしたちは今日、ここにいる

さて、という母のつぶやきでわたしは目を開ける
ちょうど深呼吸を終えた娘に、夫が何かを話しかけている
ほんとうにいろんなことがあったねと母の肩を抱くと
まだ生きねばなんねえなあと笑っている
みんなの元気な姿をふたりにも見せたかったよ
とわたしが言うと
なあにいつも一緒にいてくれてるでしょう
と母が不思議そうな顔をする

明日から何が変わるということもないけれど
ねえここまで来ましたよ、なんて報告をしたくなる
今日という日には

Natsumi Seo

 10年目のその日のことを記録しようと思い、小さな物語をつくった。東日本大震災の津波被災の象徴として描かれがちな、“被災地”陸前高田に暮らす友人たちの、“その日”の感じを書き留めたかった。2021年3月11日は、朝からきれいに晴れて風もそれほど強くない、とてもおだやかな一日だった。この日をめがけて帰省する人も多かったのか、まちはいつもより賑わっていて、弔いの場はなによりも集いの場でもあるのだと気がつく。うれしい再会ととりとめのない思い出話、しんみりとした沈黙。集う人びとの間に、死者の居場所が出来るのだとつくづく感じた。

 新型コロナの感染拡大への懸念もあり、仙台市に暮らすわたし自身、陸前高田に行くか迷っていた。けれど、3月に入って急激に盛り上がるSNS上の議論や、報道を通して伝わってくる“震災”にある種の過剰さや遅さを感じてしまい、実際の現場はどのような雰囲気なのか、自分の目で見たいと思った。その日のことは最後に書くことにして、まずはコロナ禍にあった“10年目”のことを記述していく。


 2020年の春からコロナ禍に見舞われ、いまだ状況は改善されていない。最初の頃、東北地方は感染者がそれほど多くはなく、とくに陸前高田のある岩手県は、7月の終わりまで感染者が出なかったために、かえってその閉塞感が強かったように思う。こまかい話でいうと、陸前高田の住民からすれば、おとなり宮城県は仕事や買い物のための生活圏であるにも関わらず、他県との往来は避けるべしとされたため、日々の生活にも支障が出るような状況になった。当然飲食店を訪れる人や観光客は減り、とくに商売をする人たちの生活は苦しくなる。「やっと再建したところにコロナで大変」なんて嘆きの声が、友人たちのSNSの投稿にも多く見られた。経済難と未知の病への不安、そして差別への恐れが、“被災地”をも襲う。体験したことのない感染症の流行にどう対応するかが目下の課題であるのは、全国的な状況と同じだったと思う。

 一方で、震災報道に携わる人たちは悩んでいた。とくに秋頃くらいまでは、彼らから、「遠方から取材に入れず困っている」とか「(コロナを差し置いて)震災だけを扱うことが難しくて悩む」といった話を幾度となく聞いた。こんな状況だったため、しばらくの間は震災報道自体があまり多くはなかったかもしれず、ここではあえて被災地の内と外という表現を使う(もちろんその境界など曖昧で、ふたつの立場はグラデーションでつながっている)けれど、基本的にメディアを通して震災に触れる “被災地の外”の人たちにとっては、震災との距離を縮める機会が少ない “10年目”だったのかもしれない。とはいえ結果的には、徐々に感染症対策をすれば取材ができるようになったのか、被災地域を直接映し、“震災”だけを扱った番組も、3月11日付近に多数放送されていた。映される人たちもみなマスクをつけたまま、さまざまな制限がかかるなか急ピッチで取り組まなくてはならないなど、取材の際には、多くの苦悩があったのではと想像する。

 しかし、この辺りのやりとりはなかなか奇妙なものでもある。そもそも、キリのいい数字だからと言って、なぜ“10年目”をメモリアルな時間としなくてはならないのだろう。被災地の内外を問わず、誰にとってもその前後の時間との境は特にないはずなのに、突然特別な節目を迎えているような気分にならなければならないのは不思議なことだ。とはいえ個人的には、それを問うこと自体にはあまり意味がない気がしている。キリのいい数字はどうしたって、多くの人の共通言語として、とてもよく機能するからだ。

 わたしとしてはそれよりも、この1年間、震災に関する会話の最初に、「10年が節目というわけではないですが」とつくことが多かったのが引っかかっている。まるでこれが、震災に関する “当事者性”がより強い人に話しかける際の作法のようになっていたけれど、本当に必要だったのだろうかという疑問がある。この文言をめぐる各所での反応を見ていくと、被災地の内と外のズレのようなものがわかる気がするので、このことについて書いてみる。


 まず、この文言をもっとも気を使いながら多用していたのは、ふだん“被災地の外”にいる人たちである。震災取材をする人のほとんどがこの文言から会話を始めていたと言っても過言ではないと思うし、とくに取材ではなくとも、“被災地の外”の人から日常的な会話として震災の話を振られるときにも、これがついてくることが多かった。「10年目だから来た」「10年目だから思い出している」ことへ後ろめたさがあるのだろうか。それとも、それをわきまえているという素ぶりが必要だと感じてしまうのだろうか。

 いつの間にか震災について話を聞かれる立場になっているわたしとしては、それだけ震災を語ることが、“当事者”だけの特権のようになっていることに危うさを感じていた。もう10年も経っているのだから、外の人がふだんは震災のことを忘れていたり、それについて話す機会がなかったりするのは自然なことだと思う。一方で、時間が経ったからこそやっと、“当事者性”の低い人たちも自身の体験に向き合えるようになってきているはずで、もしいま震災について話したい、考えたいと感じるのだとしたら、むしろ節目をうまく使ってほしいと伝えてみてはいた。

 つづいて、被災地とその他の地域をつなぐ拠点のひとつである仙台の中心部には、自らも地震被害を経験しながら、沿岸部などの支援を続ける人たちがいる。わたし自身そういった活動をする友人が多いので、 “10年目”をどうするかという話し合いに参加することが多々あった。どうしたって活動の資金援助や機会が“節目”に向けて集中するので、作戦会議が必要となるのだ。ある友人は、「戦略的10年目」という言葉を使った。被災地域の内側をよく知っており、外への発信力も獲得してきた彼にとっては、久々に目が注がれるタイミングをうまい形で利用し、この先へとつなげていきたいという思いがあった。

 もしかすれば、被災地の内と外の間に立つ支援者たちこそ、もっとも直接的に、“10年目”というものを問われたり、考えたりする機会が多かったかもしれない。だからこそ、“10年目”という言葉に拒否感がある人も多いように感じている。節目だからと言って集まってくる人たちに、被災地や被災者が消費されるのは許せない。そんなことは未然に防がなくてはという使命感もある。支援者たちは、「被災地にとって10年目は節目ではない」とあえて語った。それは、自分たちよりも、より“当事者”である人たちを守るための壁をつくる技でもあった。

 そして、この10年間被災地として語られてきた陸前高田について。陸前高田で嵩上げ工事の目処が立ち、あたらしいまちが動き出したのは2017年の春である。その後周辺の造成も進んだため、住宅を再建する人も急増した。被災直後からこのまちを訪ねてきたわたしの視点では、そうして生活が“仮”の状態を抜け出し、日常の風景に被災の傷跡が見られなくなった2018年あたりが、ひとつの変わり目だったように感じている。2018年3月の7回忌も重なって、「そろそろ進んでもいいよね」と亡くなった家族に語りかけたのだと教えてくれた人もいた。

 そんな風に、すでに日常を取り戻しはじめて久しい陸前高田での“10年目”の会話には、「もう10年も経つんだもんなあ」という言葉がごくふつうに使われていた。10年経って10歳年を取り、子どもや孫が生まれたり、誰かを看取ったりした人もいる。震災はものすごく大きな出来事だったけれど、もちろんそれぞれの人生はそれだけではない。むしろ、あのときから必死に一歩一歩を積み重ねて生活を立て直してきたからこそ、10年という外的な節目を使って、ふと立ち止まる時間を愛おしむこともあったのではと思う。あの時得た悲しみや傷が完全に癒えたわけではないだろう。時間が経ってより傷が痛んでいる人もいるかもしれない。けれど、陸前高田の人たちにとってあの出来事が大きいからこそ、人生の中の経験としてそれをふりかえり、現在地を確かめるための節目が必要だったと思う。

Natsumi Seo

 ということで、被災地の内と外、そしてその間について事例をあげてみた。この一年でわたしが気づかされたのは、“被災地の外”の人が持つ“被災地”のイメージは、“不幸の降りかかった場所”からあまり更新されてはいないようだ、ということだった。いよいよ震災報道が盛り上がった3月のSNSには、「節目ではない」「まだまだ傷ついている人がいる」「不謹慎」などの言葉がたくさん書き込まれ、「震災を忘れない」という言葉とともに拡散されていった。それはすべて正しくもあるのだけれど、一方でそれだけではないということがなかなか伝わっていない。被災地域の人たちには、一歩一歩と進んできた実感があるのに、そのことがむしろ語りづらい。いつまでも悲しみに暮れる姿が描かれるのに対して、彼らが違和感や怒りを感じるのはもっともだと思う。

 総じて、コロナ禍にあった“10年目”、というかこの10年間は、被災地の内と外とのコミュニケーションが足りていなかったし、あったとしてもどこかに偏っていたのだと感じている。だから“被災地の外”の人たちは「被災した人は傷ついている」という認識を固定化し、直接彼らの話を聞こうともせず、その不幸を救うための議論を勝手に進めてしまう。その間にいる支援者たちがもっと通訳のように動ければよかったのかもしれないけれど、現場の支援をする彼らがそれをも担うのは大変なことだ。と、どちらかと言えば支援者的な立場にいて、しかも伝えることを担ってきたわたしがこんなことを書いているのもおかしいし、穴があったら入りたいような反省だらけではあるけれど、いままたこの10年間を顧みつつ、これからに必要なコミュニケーションを考える契機としたい。


 さて、ずいぶん長々書いてしまったけれど、最後にわたしが2021年3月11日に陸前高田で見聞きしたことを報告したい。“外の人”が想像するよりもきっとおだやかな時間がそこにはあった。

 まず、嵩上げ地の中心市街地はどのお店もとても忙しそうだった。コロナでお正月に帰って来られなかった分、その日に合わせて帰ってきた人たちも多いという。久しぶりの再会を喜びあう声がそこここで聞こえた。

 14時46分は嵩上げ地の際まで行った。海からは離れているけれど、かつての地面を近くに感じられる。いろんな人がいた。地元の人、移住者、マスコミ、旅行者、そして工事作業の手を止めてやってきた人たち。市職員によるアナウンスの声が響き、黙祷の時間。10回目の防災無線が響き渡る。日常の手をしばし休める、しずかな、しずかな時間。

 そのあと、この10年で出会った人たちに会うことができた。みんなとてもおだやかで、なんだかカラッとしていた。震災の日の話はほとんど出なくて、ふつうの日常のこと、そしてすこし先の未来の話をしていたのが印象に残る。

 このまちの人と結婚し、公務員として働いていた娘さんを亡くしたご夫婦は、いま自分たちが暮らしている四国のまちの防災に取り組んでいると語った。「ここには災害は来ない言うてる市民が多くてかなわん。地域防災はいかに弱い人たちを助けられるかにかかっとる思うて。もう災害で亡くなる人は見たないから」。福祉施設と連携してニーズ調査をし、市に要望も出しているのだという。

 家族を亡くしたばあちゃんは、いま高台で一人暮らしをしている。「あらあ、よく来たこと。今日は10年の命日だもんね」と言って、たくさんの花に囲まれた祭壇に案内してくれる。「まず最近はひとりにも慣れて、元気にやっております。元気でなければ生きていかれないもんね。だって、生きねばなんねえもんね」と笑う。

 夜には、手づくりのイルミネーションを見に行った。このイベントは地元有志によって2014年から毎年開かれており、復興工事の過程に合わせて開催場所が変化してきた。被災した市街地跡の駅通りを灯していた年もあったし、消防団の慰霊碑近くを彩っていた年もあった。そして今年は嵩上げ地の上のあたらしいまちで。

 このイベントの首謀者のおじちゃんの言葉が、分けられてしまったままの被災地の内と外をゆるやかにつなげてくれると思うので、ここでお裾分けしたい。

 今日がみんなにとってどんな日なのかなって思うんだっけな。ひとりでしんみりしてる人もいれば、元気に生活してるのを見せたいって俺みたいな人もいる。地元の人でも、もう忘れてるみでな人もいるし。でも反対にまだまだ辛い人もいて、そういう人さは声かけなばなんねえし。辛い思いしても一歩一歩進んで、気持ち抱えながらも一生懸命、ふつうに、元気に生活してるわけだし。
 なんだか外の人の方がしんみりしてしまってな。気使わねえで、楽しんで。今日という日に、みんな一緒にいられればそれでじゅうぶん。たとえ離れてても思いは伝わってるから。気負わねえで、ね。

 

 

 

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