非常灯の思考 対話とは何か / 戸谷洋志

別離や喪失の体験は、いとも簡単にそれまでの「当たり前」を無効化してしまう。誰しもそれを避けることはできないが、来るべき日のために、今この瞬間から「当たり前」を問い直してみることはできるかもしれない。そのとき、背中を押してくれるものーーそれが他者の存在だ。数々の哲学カフェを主催してきた著者が、新しい地平へといざなう対話について考察する。

哲学対話とは何か──あるいは風呂場のタイルを動かしてみることについて

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 私は千葉県の私立高校に通っていた。千葉というと海を連想される方が多いかも知れないが、高校は山の方にあった。家からはスクールバスで一時間程度かかった。ほどほどの田舎だった。ベッドタウンからそれほどアクセスが悪いわけではない。しかし夜になると辺りは光一つない漆黒の闇に包まれていた。スクールバスは畦道と並ぶ国道を走った。初夏になるとカエルたちの合唱がこだましていた。

 私はそのスクールバスのなかでいつも友達と話し込んでいた。よく毎日一時間も話し続けられたと思う。しかし、当時の私たちには、それでも時間が足りないくらいだった。音楽の話、進路の話、部活の話、好きな人の話、嫌いな先生の話。私たちは、とても閉ざされた世界に生きていたのに、そこには無限の話題があった。

 高校三年生になったころ、私は哲学に興味を持つようになった。哲学の入門書を買い、それを食い入るように読んでいた。誰かに話したくて仕方なかった私は、スクールバスに同乗していた友達に、哲学の話を持ち出した。確かこんな話をしたと思う。

 私たちは頭のなかで正確な正三角形を思い描くことができる。しかし、実際にペンで紙に正三角形を描こうとしても、うまく描けない。定規を使えば描けるかも知れないが、フリーハンドでは無理だろう。つまり私たちには不完全な正三角形しか描くことができない。

 そもそも、私たちの身の回りには、完全な正三角形の物体などない。特に自然物のなかには皆無だと言っていい。それなのに、そうしたものを実際に見ていなくても、私たちは完全な正三角形を思い描くことができる。これはなぜなのだろうか。

 この問題は、正三角形という幾何学的な図形を、経験的な認識によらずに理解することができるのはなぜか、という、哲学の伝統的な問いである。多分、そのとき読んでいた本に、そんなことが書いてあったのだと思う。考えれば考えるほど不思議だった。私は興奮していたし、プラトンやカントや、そうした哲学者の知識に頼らず、自分で答えを考えたいと思っていた。そしてその興奮を友達と共有したいと思ったのだ。

 今となってはその友達に心から同情する。多分、私はうまく説明できていなかったと思う。一日目、その友達はうんうんと頷きながら話を聞いてくれた。二日目もおおむねそうだった。しかし、三日目にとうとう彼は我慢ができなくなって、こう私に言い渡した。

 「戸谷、その話はもうすんな。うるせぇ」

 私はその瞬間の友達の表情と声色をよく覚えている。ついさっき聞いたみたいに頭のなかで再生することができる。もっとも私はその友達のことを悪く思っていない。そもそも彼は、私に対して、必要があれば積極的に忠告し、耳の痛いことも遠慮なく伝えてくれる人だった。その点で私は彼を尊敬していたし、それは今でも変わらない。
 
 しかし、そうは言っても、やはり彼の言葉はショックだった。私は「うるせぇ」と言われた直後に、うまく返事ができなくて、黙ってしまった。どんな顔をすればいいのかも分からなかった。そもそも、なぜその友達が私の話を、これほどまではっきりと拒絶したのかが、そのときは理解できなかった。

 それが、他者との哲学的な対話に関する、私の原体験になった。

 時間が経過した今になれば、彼が私の話を拒絶した理由も推測できる。

 スクールバスというのは、閉鎖的な空間だ。そこには毎日同じ人間が一時間居合わせる。密室になっていて、自分の意志で外に出ることはできない。しかも話していることは基本的に車内のほとんど全員に聞かれてしまう。そこには一つの村社会が成立していた。そして、そこで一度変な奴だと思われたら、ずっと白い目で見られ、やがては聞こえるように嫌味を言われるようになる。スクールバスというのはそういう場所だった。

 たぶん、三角形の話をしていた私の声は、そのスクールバスに乗っていたすべての人に聞こえたことに違いない。そんな変な話をしていたら、その友達も周りから白い目で見られるかも知れないし、あるいは彼は私のことを案じてくれたのかも知れない。 

 要するに、スクールバスというのは、哲学の話をする「場」ではなかった、ということだ。そこで哲学の話をすることは、ルール違反であり、不適切な行為になってしまうのだ。私はルールを理解していなかった。だから、友達はその不適切さを私に教えようとしたのだろう。

 しかし、なぜ、哲学の話は、そこで「変な話」になってしまうのだろうか。彼は別の話題だったら私の話を最後まで聞いてくれたように思う。たとえば私は当時、演劇部に所属していた。彼は体育会系だったから、演劇にはまるで関心がなかった。しかし、私が話す演技や脚本の話には、うんうんと耳を傾けてくれていた。ときどき気の利いた質問も投げかけてくれた。今思うとできた高校生だ。大変立派だ。そしてその彼が哲学については拒絶したのだ。


 高校生の私には、その疑問を解消させることができなかった。しかしそこから教訓を学ぶことはできた。哲学の話を気軽にしてはいけない。それは、私たちが生きている世界で、大っぴらに口にしてはいけない話題である。哲学というのは、都市伝説や下ネタのように、大きな声で話していると「おかしいやつ」だと思われるような、そうした話題の一つなのである。

 そのように思った私は、それ以来、やたらと哲学の話をしなくなった。それでも哲学への関心は途絶えなかった。友達に話すことは諦めたが、一人で、黙々と哲学の本を読むことになった。

 大学では哲学科に進学した。そこでは哲学の話を無限にすることができた。哲学の知識があればあるほど尊敬されるコミュニティが、そこにはあった。誰もが、最近読んだ哲学書の話をし、その知識を披露していた。そこは私にとってはとても居心地がよい空間だった。

 しかし、私は折につけ、高校時代のスクールバスでの出来事を思い出した。こんな風に哲学の話をして受け入れられるのは、ここが特別な場所だからだ。このコミュニティを一歩出たら、そこには哲学の話をしてはいけない世界が広がっている。そして私たちはやがてはそうした世界で生きていかなければならない。大学時代に散々哲学の話をした思い出を胸にしまって、その記憶に封をして。それはとても寂しいことのように思えた。

 なぜ、日常生活のなかで、哲学の話をしてはいけないのだろうか。

 おそらくそれは、哲学が「当たり前」を問い直す営みだからだ。といっても、哲学が世界の不都合な真実を暴露してしまうから、ということではない。いや、そういうこともあるかも知れないが、そういう内容だけが日常生活においてはばかられるわけではないのだ。哲学の話題には、もっと些細な、どうでもいい話もある。しかしそうした話題であっても日常生活を脅かすのである。

 たとえば、前述の三角形の話というのは、多くの人にとってどうでもいい話だろう。数学者の人には怒られるかも知れないが、少なくともそのスクールバスに乗り合わせていた高校生たちにとっては、紛れもなくどうでもいいことだ。その理由が分かったからといって、テストの点数が変わるわけではないし、進路に重大な変更が生じることはない。

 それでも、その話は日常生活を脅かす。日常生活を居心地の悪いものにしてしまうのである。


 どういうことだろうか。

 このようなことを考えるとき、私はよく、タイルが敷き詰められた風呂場を思い浮かべる。日常生活とは、たとえて言えば、無数のタイルが敷き詰められた空間のようなものだ。私たちがその空間に安心して身を委ねることができるのは、タイルが壁を構成し、その壁が空間を支えているからだ。

 しかし、哲学的な思考は、タイルの一つを取り外そうとする。「あれ、このタイルって動きそうですよね?」などと言って、そのタイルに触って見せる。趣味の悪い人なら、「このタイルの裏側って何があるんでしょうね?」などと言うかも知れない。そんなことを言われたら、今まで安心していたその空間は、なんだか居心地の悪い場所になってしまう。

 なかには、実際にタイルを取り外してしまう人もいるだろう。それによって、他のタイルがバラバラと落下し、これまで日常生活を構成していた空間が瓦解してしまうかも知れない。たとえ、そうならなかったとしても、タイルが一つでもかけた空間は、もう信頼できる場所ではなくなってしまう。

 「当たり前」を問い直す、ということは、要するに、そんな風に風呂場のタイルの一つをめくってしまおうとすることだ。そのタイルは、どうでもいい些細なタイルかも知れない。しかし、それが問題なのではない。重要なのは、そこにタイルが隙間なく敷き詰められていることなのだ。どんな些細なことでさえ、哲学的に何かを問われることは、日常生活をそのように居心地の悪いものにする。だからこそ、私たちは人前で哲学について話すのを控えるのである。

 風呂場のタイルを勝手に剝がそうとしている人がいたら、私はものすごく不快になると思う。たぶん、スクールバスのなかで三角形について問い直した私がしていたことは、それに近い行為だったのだろう。そして友達はそれを善意で止めてくれたのだ。今ではそのように考えている。


 日常生活で哲学的な対話をしてはいけない。なぜなら、哲学的な思考は日常生活の安定性を脅かすからだ。そうした対話は特別な場所で行わなければならない。「ここでは哲学的に思考してもよい」、ということが約束された、特殊な環境が用意されなければならない。大学はそのような場所の一つだ。しかし、誰もが大学に行けるわけではないし、入学できてもいつまでも通い続けられるわけでもない。つまり、私たちの日常生活から哲学的な対話は排除されている。

 私はこのような状況に対する非常に強い不満を抱えながら学生生活を送ることになった。しかし、大阪大学大学院に進学すると、そこである一つのムーブメントに出会うことになった。それが、「哲学対話」である。

 哲学対話は、誰もが自由に参加することのできる、対話型ワークショップの手法の一つである。「哲学カフェ」と呼ばれることもあり、両者はしばしば同一視されるが、今回は「哲学対話」という表現を使うことにしよう。その特徴は、誰もが安心して哲学的に対話できる空間を作り出すという点にあり、教育や社会連携など、様々な目的に応用可能である。街中のカフェはもちろん、書店、学校、地域のコミュニティスペース、寺院などで開かれることもある。日本では、主として二〇〇〇年代以降に普及し始めた。そしてその火付け役となったのが、大阪大学の臨床哲学研究科だった。

 哲学対話と聞くと、哲学の専門的な知識をぶつけ合う議論の場を想像されるかも知れない。実際それを期待する参加者もいる。しかしそうした議論は、結局のところ自分の知識を見せつけ合うことに終始してしまう。知識を競う議論では、知識を持つ者だけが話すようになり、知識を持たない者は話すことができなくなる。そうした格差は議論の場に非相互性を作り出す。そして、非相互的な関係から対話が生まれることはない。

 哲学対話が、日常生活のなかで哲学的に対話できる場を作り出そうとするものであれば、こうした非相互性を生み出す要因は、排除する必要がある。そのため、哲学対話では専門用語を使った議論は基本的に禁止される。あくまでも自分たちが普段使っている言葉で、日常生活に根差した概念によって考えることが、哲学対話では求められる。

 哲学対話にもいろいろなスタイルがあるが、その多くは、参加者が自ら問いを考え、その問いについて答えを出すべく対話していく、という形をとる。たとえば、「愛と恋の違いは何か」「本当の友情とは何か」「人のためについた嘘は許されるか」などだ。もちろん、こうした問いに哲学の専門的な知識を使って答えることもできるだろう。しかし哲学対話では、あくまでも参加者が自分の言葉で考え、互いの意見を交わすことが重視されるのである。


 具体的な進め方を紹介してみよう。まず、参加者が場に集まる。そのとき、参加者は初めてその哲学対話で共に話すことになる他者と出会う。哲学対話には基本的には進行役がいる。進行役はファシリテーターとも呼ばれ、対話をアシストする役回りを引き受ける。とはいえ、進行役は決して対話を支配する存在ではない。進行役が答えを知っていて、そこへ向けて参加者を操作することはない。あくまでも、その場で対話が可能となるための条件を成立させるのが進行役の役割である。 

 参加者に対して、進行役はその日の流れを伝え、哲学対話のルールを説明する。参加者にちょっとしたアイスブレイクをしてもらうこともある。簡単な自己紹介であったり、「最近あった嬉しかったこと」など、簡単なお題に答えてもらったりする。

 次に、参加者から問いを募り、出てきた問いを整理していく。参加者の人数によって受け付ける問いの数は変える。一定の数が集まったら、多数決で、今日話したい問いを決定する。スムーズに決まることもあれば割れることもある。割れた場合には、問いを統合したり、決戦投票をしたりする。とにかく一つの問いに絞り込む。

 その日の問いが決まったら、いよいよ対話を始める。対話するときには「コミュニケーションボール」と呼ばれる小道具を使うこともある。これは、発言するためには必ず持たなければならないアイテムであり、発言権を可視化させ、クロストークを回避するという効果をもつ。手に持って投げられるサイズで、他者と受け渡しをすることができれば、基本的には何でもいい。ボールを使うこともあれば、ぬいぐるみで代用することもある。ちなみに私はぬいぐるみを使っている。ぬいぐるみなら手足のない丸い形状のものがいい。手足があると、投げられている様子がちょっと可哀想になるからだ。

 おおよそ、冒頭の説明から問いを決定するまでを全体の二〇パーセントくらいの時間で終えられると、対話にしっかりと時間を割くことができる。しかし時間配分にはあまりこだわらなくてもよいだろう。進行役が時計ばかり気にしていたら、参加者も不安になってしまうし、焦ってしまう。場合によっては、問いを決める段階で対話が始まってしまうこともある。大切なことは、その時間、その場所で哲学的な対話が起こることだ。それが達成できるなら形式はそれほど問題ではない。

 大学院生になった私は参加者として様々な催しに参加した。二〇一五年からは自分で哲学対話の進行役を務めるようになった。学校を離れても日常生活のなかに、哲学的に対話できる場所を作りたかったので、基本的には大学の外を中心にして実践してきた。千葉県千葉市の古書店Moonlight Bookstoreのスペースをお借りして、「西千葉哲学カフェ」を主宰した他、京都府京都市にあるコミュニティスペースGACCOHにて、「GACCOH哲学カフェ」でも進行役を務めてきた。現在は、大阪府大阪市の大阪ビジネスパーク内にあるコワーキングスペース・OBPアカデミアにて、「アカデミア哲学カフェ」で進行役を担当している。一方、勤務校である関西外国語大学でも、有志の学生たちとともに立ち上げたサークル「KGU.P.CAFÉ」にて、定期的に哲学対話を行っている。

 哲学対話の面白いところは、どのような場で行うかによって、参加する人々がまったく異なるし、また語られるテーマも変わってくる、ということだ。書店で行えば、本が好きな人がやってくるし、ビジネス街で行えば、成長や人生設計に関する話が盛り上がる。大学のなかで行えば、友達や恋愛の話など、切実な人間関係について対話が深まっていく。同じテーマであっても、場によってその行方はまったく別のものになる。そして、いままで自分では考えたこともなかったような問いが提起され、「当たり前」の前提がひっくりかえるような現場に直面するとき、哲学対話は息をのむような刺激的な時間になる。
 
 前述の通り、哲学対話では一つの問いを決め、その問いへの答えを出すべく、参加者が自由に対話する。もっとも、「答えを出すべく」とは言っても、本当に答えが出ることは基本的にない。私が関わったことのある哲学対話で答えが出たことは、ただの一度もない。なぜなら、対話を重ねていく過程で、当初の問いに答えるために考えなければならない別の問いが浮かび上がってくるからだ。問いを下支えするような、つまりその前提となっているような、より深い問いが見えてくるからである。

 たとえば、「愛と恋の違いは何か」という問いについて対話が行われたとしよう。ここで期待されるのは、「愛と恋は〇〇の点で異なる。愛は〇〇において△△であり、恋は〇〇において□□である」といった形の回答だ。しかしこうした答えに到達するためには、そもそも愛と恋がそれぞれ何であるかが説明されなければならない。つまり、「愛とは何か」「恋とは何か」という、その背後にあるより根源的な問いに取り組まなければならない。

 そして、「愛とは何か」「恋とは何か」という問いに答えようとすると、同様に、さらにその背後に遡る別の問いに行き当たるのである。まるで勢いよく注がれたソーダ水の泡のように、新たな問いが次々と出現し、それらはあっという間に膨れ上がってしまう。

 だからこそ、哲学対話で提起された問いに無理やり答えを出そうとすれば、必然的に、答えを「急ぐ」ことになってしまう。本来だったらもっと時間をかけて話すべきことを、「時間も限られていますので、今はこの問題については措いておくことにしましょう」などと言い、対話を強制的に先に進めなければならなくなる。しかしそれは問いを放置することであって、哲学的な思考とはかけ離れた態度だろう。

 そのため、哲学対話に参加する人々には一つの美徳を持つことが期待される。それは、「急がない」ということだ。


 一九八〇年代からハワイで哲学対話を実践し、その社会的普及と技法の発展に寄与したトーマス・ジャクソンは、哲学対話のスローガンとして「we are no in a rush」を挙げている。自身も哲学対話を実践する土屋は、これを「あわてない、あわてない」と訳している 。そもそも答えを出すということが哲学対話の目的ではない。大切なのは哲学的に対話することができる場所を作ることである。だからこそ哲学対話では、答えを出すことに焦らなくてもよい環境、答えが分からなくなったとしてもよい空間を作り出し、維持することが目指される。

 答えが分からなくなってもよい、ということは、言い換えるなら、「分からなくなった」と言ってもよい、ということだし、それどころか何も言わなくてもよい、ということでもある。議論の場において、私たちはつい「何か気の利いたことを言わなければ」と焦燥に駆られてしまう。あるいは「ここでずっと黙っていたら馬鹿だと思われてしまうのではないか」という不安を抱いてしまう。また、対話の場にしばらく沈黙が流れると、気まずくなって、場を繋ぐためにどうでもいいことを言ってしまうこともあるだろう。しかし、こうした行為は哲学対話には不要である。なぜなら、みんな答えが分からなくなって、誰も発言しなくなってしまったとしても、それはそれで対話の一つのあり方なのであるし、それでもそこに対話が継続しているなら、それによって哲学対話の目的は実現されているからだ。

 したがって、哲学対話の場では、しばしば全員が頭を抱えて黙ってしまう場面がある。しかしそれは決して消極的に評価されるべき事態ではない。むしろ、黙るということは、それ自体が他者に対する意思表示であり、メッセージでもある。沈黙はコミュニケーションの否定ではない。むしろその一部なのだ。だから、全員が沈黙していても、対話は刻々と進行し、呼吸を続けているのである。

 それだけではない。途中で意見が変わることさえも、哲学対話ではまったく問題視されない。そもそも私たちは答えの分からない問いについて考えるのだ。最終的にその対話がどこに行き着くのかをまったく知らないまま、語るのだ。色々と考えた結果、最初に考えたことが修正されることはよくあることだ。むしろ、修正されるべきであるにもかかわらず、一度話してしまったからという理由で意固地になることは、かえって哲学的に思考しているとは言い難いだろう。

 分からなくなる、沈黙する、意見が変わる。こうしたことは日常における議論では消極的に評価される。会社の会議でそんなことをしたら上司に怒られるだろう。しかし、哲学的な対話の場を作るためには、こうした行為が許される空間を創出することが不可欠である。

 ジャクソンは、哲学対話の場において守られるべき状況を、「知的な安全性(intellectual safety)」と呼ぶ。知的な安全性とは、何を言っても馬鹿にされないし、何を考えても怒られないと思えるような、対話の場への信頼と考えることができるだろう。私たちは対話のなかでしばしば何も分からなくなって途方に暮れてしまうし、伝えようと思っても適切な言葉が見つからなくて黙ってしまうし、話し始めたら話し始めたで、結論に着地せず、錯綜してしまう。しかしそうであって構わない。なぜなら考えるとはそうした営みであるからだ。対話には蛇行と起伏がある。興奮と凪がある。だからそれは何も間違っていないのである。

 哲学対話は日本社会における新しい哲学のムーブメントである。これまで「哲学」や「哲学者」という言葉が纏ってきたイメージを、哲学対話は刷新しつつある。数年前まで、そこまで言うのは言い過ぎだと思っていたが、今ではそうは思わない。そしてその傾向は歓迎されるべきことだと思う。少なくとも、誰とも哲学の話をできなかった高校生の私が、哲学対話に触れることができたら、きっとのめり込んでいただろう。

 その一方で、哲学対話は、実践家がどのように設計するのかによって大きく左右される。哲学対話を企画すると必ずと言っていいほど「いったい何のために哲学対話をしているのですか?」という問いに遭遇するが、これは哲学対話「観」のようなものを実践家に言語化させることを促す質問だ。答えは、その実践家が哲学対話をどのように設計しているのか、ということと密接に関係する。前述の通り、哲学対話の具体的な実践方法は、その実践家の個人的な裁量によるところが大きく、当人の哲学対話観が如実に反映されることになる。そしてそれは、そもそも哲学的な対話がどのようなものであるべきか、という、より本質な価値観にもつながっていく。
 
 この連載では、哲学的な思考と対話の関係を考えていく。そうである以上、哲学対話のムーブメントに注目し、それを手がかりとすることは、当然のことだろう。次回は、こうした哲学対話のあり方について、様々な実践家の思想を紹介しながら、さらに掘り下げて考えてみたい。

 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。