白旗を抱きしめて 〈敗北〉サブカル考 / TVOD

格差社会が当たり前のものとなって久しい。「勝ち組」「負け組」という言葉は、社会背景によってその内実をかえながら、亡霊のように私たちにまとわりついているかのようだ。 音楽、映画、小説、漫画……。サブカルチャーにおいて、挫折や敗北はどのように描かれてきたのか。私たちはそこに何を見出そうとしてきたのか。 ともに1984年に生まれ、ゼロ年代に青年期をすごしたTVODの二人が、往復書簡をとおして自在に語りながら考察する。

政治から遠く離れて、カウンターカルチャーを考える――パンスより

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カウンターカルチャーについて、改めて

 2通目を読みました。いろんな角度から返答できそうなので、どこから入っていこうか迷うところです。やはり「カウンターカルチャー」についてから始めるべきでしょうか。以前、オタクとカウンターカルチャー、みたいな話がツイッターを賑わせているのを興味深く眺めました。やはりこの辺りの過去を掘り下げていきたいという感覚はあるのかな、とも思いましたね。自分としてもじっくり書いていきたいと考えていたところです。せっかくなので、「敗北」の話からはだいぶ回り道してしまいそうですが、記述してみます。

 最近カウンターカルチャーについて語る際に参照されているのが、2通目にも登場しているジョセフ・ヒース+アンドルー・ポターの『反逆の神話』ですね。2021年に文庫化されてよく読まれているようでした。ネット上の反応を見ていると、かつてのカウンターカルチャーが消費文化になってしまった現実を受けて、=だからカウンターカルチャーは無意味だった、といった受け止め方が散見されます。まあそれはそれで当たっていなくもないのですが、この本自体はもっと長い射程を持った、というか、思想史的な本だと思います。平たく言ってしまうと、「68年」が生み出した状況への批判、反省、再解釈が詰め込まれています。
 このような流れは割と昔からあって、80年代後半にはアラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』という本がヒットしました。これはどちらかというと保守派からの批判でした。カウンターカルチャーを経た後の若者(大学生)に対する愚痴というか、やたら「ロック」が批判されるんですが、おそらくここで言われてるのは「ロック」というか同時代のMTVで流れてたようなポップスかなと余談めいたことを考えたりします。

アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』みすず書房

 ざっくりまとめてしまうと、「68年」的なものはカルチャー方面と思想方面とそれぞれに流れ込んで今や「主流」「常識」になっている。この認識から始めるのが良いと思ってます。今や学生運動もほとんどないし、ヒッピーもパンクスもかつてのような勢いを持っていないから、「68年」は衰退してしまったのだという認識は当たっていないのです。例えば、今はものを生産するために有害物質をガンガン垂れ流したり、マイノリティの権利を蔑ろにするなんてのはいけないことだと、ほとんどの人は理解すると思います(無論、理解していない人もまだいるゆえに問題は持続しています)。ただし、昔はそんなことなかったわけです。60年代の時点では、デカいビルが出来て自分の住まいの「日照権」を唱えた訴訟の最初の判決は「我慢せよ」だったと言いますが、その後も運動が続いてそれは問題だと認識されるようになったのでした。

 「68年」に世界各地で起こった運動は、こと西側諸国においては、体制を転覆させたとか若者が政権を握ったとかいった結果は生まなかったので、「敗北」したと言われがちです。特に日本だと顕著で、その後「政治意識が減退した」といった世相の変化も含めて「敗北」した、というような言説が一定層あると思います。しかし誰かが書いていましたが、その後「常識」になったとするならば「試合に負けて勝負に勝った」ようなものだと捉えることができるでしょう。

 あえて楽観的な側面に目を向けてみましたが、ただしそういった現在の状況は資本主義の枠内で起こっているというのも重要です。物事や人々の多様性が認められるのは良いことだけどそれは「多様な商品」が流通しより市場経済を活性化させる効果を生んでいるのと同義になっていて、それなのになんとなく革命っぽい素振りを見せているのってどうなの? というのが『反逆の神話』の趣旨であって、まあ正直僕としてはとりあえずそれでもいいじゃないか、とヌルいことも考えてしまうのですが。

 なかなか「敗北」の話に繋げられそうで繋げられなくて難儀なのですが、もう少しこのまま続けます。一応補足しておくと、体制変革を求めるような「左翼的な」感覚は、資本にのみこまれるような形に終始してしまったのですが、あくまでもそれは大まかな流れであって、ローカルというかマイナーなカルチャーの中には息づいているというのが僕の見方です。でなければいまだに自分もアンダーグラウンドな表現を追っかけたりしていないので……。『反逆の神話』と並んで最近人気のマーク・フィッシャーを読むと、全部資本主義だ……、とばかりにいろいろと嘆きながらも這いずり回るようにして思考し、最終的にカウンターカルチャー的なものに残る可能性を指摘しそうなところで筆を絶ってしまったわけですが、僕としてはもう少し「絶望しない」ことを大切にしようというか、そうでないとやってられんだろうってスタンスでいたいですね。

1990年代を擁護したいかも(でも……)

 さて、ここで1通目に記した90年代の話に戻ります。特に日本の状況に着目します。数年前くらいからインターネットで1990年代のサブカルDISみたいな動きが見られ、僕は当時のカルチャーに対する思い入れなどもあるので、今っぽい言葉でいうなら「擁護派」としてがんばっており、TVODの記事でも息巻いて語っているのですが、引き続き考え続けていくにつれて、なんかあまり擁護できないかも……、と思い始めている今日この頃です。ただし、その理由は90年代カルチャーに非倫理的な側面があったからとか、ネットによく書いてあるようなことではありません。

 1通目で僕は90年代にカウンターカルチャーリバイバル的な側面があると書いていますが、それはあくまでもアイテム的、ノリ的な感覚のリバイバルであって、60~70年代にあった変革の可能性からは結構遠かったのではないか。なぜそう思うかというと、あえて堅苦しい言い方をするならば、国家とか権力とかいったものとカルチャーの結びつきが極めて希薄だったから。ちなみにTVODの前著『政治家失言クロニクル』でも僕は少しこの辺に触れていて、それでも豊潤なカルチャーが生まれていたのでOK、としているのですが。しかし……やはり当時起こり得たであろういろんな可能性、直截に言えば「政治的な変革」の可能性がなかったのはすごく大きなポイントで、だからダメだったと断罪したいわけではないけれど、興味深く思うわけです。
 90年代における政治的な側面、「若者の社会運動」で代表的なものといえば薬害エイズ問題へのコミットですが、特に同時代のカルチャーとリンクしてはいなかったはずです(確か泉谷しげるが参加してたとか、そんな感じだったかと)。そんな中で深く介入していたのが小林よしのりで、当時の彼には最近のリベラルにも通じるようなアプローチが垣間見られるのですが、話がズレてしまうので深入りしません。そしてよく知られているように、彼はその後市民運動と袂を分かって「右派の」市民運動に没入した。その後の流れがゼロ年代以降の右派を生み出すわけで、良し悪しは置いといてこれ自体は実に「政治的な」現象でした。しかしこの一連の動きの中にはラディカリズムは存在しない。あるいはラディカリズム的なものを右派が持っていってしまったのかもしれない。

 『オルタ・カルチャー』をパラパラめくると伝わってくるように、90年代には前述した「非倫理的な」と(今では)されるようなものも含めて、カウンターカルチャー「的なカルチャー」はたくさんありました。ただしそれらは政治的ラディカリズムとは無縁だった。そして、「政治的」なるものは一方ではリベラルで穏健なもの、もう一方では右派によるものがそれぞれ存在する、現在にも続く構造が築かれたのもこの時期だったといえます。

 そしてゼロ年代に入るにあたり、ここでようやく「敗北」の話に戻れるかもしれません。インターネットの普及によってもたらされたのは、無名の人々も含めて開かれた情報発信の自由でしたが、同時にそれは平準化でもあったと捉えています。そうなるとよりラディカルなものの居場所はなくなっていくんです。いや、ネット上に内在するラディカルさ(というか面白さ?)は僕も認識していたつもりですが、総じてみれば平準化した群衆によるコミュニケーションの中で問題とされるのは、「勝ち負け」の世界であり、その競争がどんどん身もふたもなくなっていくさまを見せつけられながら、いまこの時代にまで来ているのではないでしょうか。まず念頭に置いているのは、恋愛弱者であることを率直に表明しつつ恋愛至上主義を告発した「非モテ」とかその辺りですが。

 というわけで、「ゼロ年代リバイバル」はまだとくに来ていないようですが、この時代に対する見解についてコメカ君に聞いてみたいです。引き続きよろしくです。

 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。