人間味 小さな奇跡を生み出した料理人たち / 山本益博

一皿の料理が、それまでの常識を変えてしまうことがある。 その奇跡はたいてい、空から降ってくるものではなく、職人の日々の仕事をささえる「足もと」から生まれるのかもしれない。 指折りの高級レストランから、隠れた庶民の名店まで。 美味しいものを届けたいという思いと愚直に向きあう職人たちを追う。

一念発起のひと――荒井昇

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ナイフとフォークで味わう原体験

 私が洋食に興味を持ち出したきっかけは、小学生の時分、浅草観音裏にあったレストラン「みかさ」で、カツレツを食べたときである。

 「みかさ」はトンカツ専門店ではないので、箸ではなく、ナイフ・フォークを使って、自分でカツを切り分けて食べるスタイルの店だった。

 一生懸命ナイフとフォークを使ってカツを食べていると、隣の席のおばさんが「この子、ナイフとフォークで上手に食べるわね」と言うのが聞こえた。それが嬉しくなって、以来、洋食屋が好きになったのだった。

 浅草に「桃タロー」というやきかつが評判の店があり、当時、親に連れられて出かけてゆくと、やきかつはすでに包丁で切られていて、箸で食べられるようになっていた。私は、それが気に入らなくて、駄々をこね、親を困らせたことがあった。

 洋食「ヨシカミ」はハンバーグでもエビフライでもナイフ・フォークで食べさせてくれたが、とんかつ専門店の「河金」も、洋食屋の看板は出してないものの、とんかつには包丁が入らず、客がナイフ・フォークを使って食べる形式だった。「河金」のとんかつがお気に入りだったのも、このナイフ・フォークが多分に作用していたからかもしれない。

西洋料理・仏蘭西料理・洋食

 いまや、「西洋料理」という言葉は死語になってしまっているが、いまから半世紀ほど前には、ほぼ似た料理ながらホテル、会館のダイニングは「西洋料理」、街場の店は「洋食」と区別されていたきらいがあるように思う。

 当時、私が知っていたのは、西洋料理なら上野「精養軒」、洋食なら日本橋「たいめいけん」だった。「たいめいけん」の初代は茂出木心護さんで、パリの凱旋門で凧揚げしたことが自慢で、また「お料理110番」と称して、料理で知らない、分からないことがあって電話をすると、なんでも親切に答えてくださったものだった。また、ラーメン好きが嵩じて、店のメニューにラーメンを載せた。新築し、ビルになった「たいめいけん」でも、店の一角に立ち食いのラーメンコーナーを設けたほどである。


 1970年代当時、山本嘉次郎『東京横浜鎌倉たべあるき地図』(昭文社)というガイドブックが出版されていて、銀座、日本橋の小さなフランス料理の店は、たしか仏蘭西料理店として掲載されていた。山本嘉次郎は映画監督で、黒澤明の師匠と言われ、大の食いしん坊で知られていた。

 同じ時期、文藝春秋編『東京いい店うまい店』には、浅草観音裏の街場のフランス料理店まで記載されていたように記憶している。店名を忘れてしまったが、この店も「仏蘭西料理」と書かれていたと思う。

 今から、50年ほど前までの「西洋料理・仏蘭西料理・洋食」は、下町の小粋な旦那衆の食文化の拠点でもあったのだ。

観音裏のフランス料理店

 こうした時代背景を持った浅草で、2000年、フランス料理のレストラン「オマージュ」が開店した。「オマージュ」とは、「讃辞」と言った意味合いで、フランス語をそのまま店名につけるとは、下町浅草では、かなり時代の先をいっているといってよかった。

 オーナーシェフは荒井昇さん。1974年1月21日浅草生まれ。東京の香川調理師専門学校卒業後、東麻布のレストラン、十和田湖のホテルなどで働いた後、1998年(24歳)1年間フランスへ渡り「レジス・マルコン」などで修業した。フランス中央部オーベルニュの「レジス・マルコン」は、当時2つ星に昇格した間もない頃、フランス料理の巨匠ポール・ボキューズの名を冠した料理コンクール世界大会でも最優秀「ボキューズ・ドール」に輝いたばかりで、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。荒井シェフは、レジス・マルコンオーナーシェフが「独学」であったことに魅かれた、という。

「オマージュ」の荒井昇さん(右)と著者

 私が「オマージュ」を初めて訪れたのは、2004年春で、浅草の友達に誘われて出かけた。その時、私は何をいただいたのか忘れてしまっていたが、先日、荒井シェフにお会いすると、シェフははっきりと覚えていらして、筍を付け合わせに添えた、ほうぼうの魚料理だったという。つまり、食べたものを忘れてしまうほど、じつは印象が薄かった。

 その後、夏に近くの富士浅間神社の「植木市」が開かれているときに家族で出かけて行った。この時も浅草の観音裏で頑張ってフランス料理を作っているな、という程度の感想だった。

 そして、2005年、一筋違う通りへ移転し、モダンな新店舗「オマージュ」を開き、3800円のコースで始めた。新店舗になってから出かけたのが2010年、シェフに帰り際「わざわざ、ここまで来て食べる料理ではないかな」ときつい感想を述べてしまった。
 この私の感想にシェフは鋭く反応したそうである。「このままじゃいけない」と、すぐに、ヨーロッパへ1週間、店を閉めて出かけ、当時人気のデンマークのレストラン、フランスはブルターニュを廻って、自分の料理とのあまりの違いに衝撃を受け、目が醒めたという。

劇的な大転換

 幸運なことに、2012年「ミシュラン」1つ星を獲得すると、勢い、弾みがついて、2015年あたりから、さらに料理を変えていった。料理は自分一人で作るものではないと考えを改め、厨房のチームも徐々に出来上がっていった。

 すると、思いもよらなかったことに、2017年「ミシュランガイド東京2018」で2つ星に輝いた。驚いたのはシェフだけでなく私も同様で、しばらく出かけないうちに、料理が劇的に変わったのだろうか? と急に気になりだした。

 すぐに「オマージュ」に出かけてゆくと、レストランの内装は変わらないものの、器から料理のサービススタイルまで、かつての「オマージュ」の印象は一掃され、料理は目を瞠るほど洗練された皿となった。食材も上質なものが厳選され、野菜も魚も見違えるほど、香り高く皿の上で輝いていた。ヨーロッパの第一級のレストランの料理にひけをとらない、それでいて、「鴨フォアグラの冷製 梶谷農園のハーブサラダ」の一皿などは、「オマージュ」のスペシャリテになるほど個性的だった。

チェリートマトとモッツァレラのソルベ

 「ヨーロッパの3つ星シェフの仕事ぶりをまぢかに見る機会もあって、その仕事の丁寧さ、緻密さを、改めて見直しました」

 「ミシュラン」で2つ星をいただいたときの感想は? と訊ねると、

 「そりゃあ、嬉しかったです。でも、それもほんのつかの間、こりゃあ大変、いっそう仕事して、さらに上を目指さなければ、と思いました」

甘鯛の松笠焼き

 2つ星になると、それまでご贔屓だった近所のお客様が「敷居が高くなった」と敬遠し出したので、荒井シェフ、「オマージュ」の裏となりに「NOURA」という小粋なビストロを開いた。こういう優しさが下町浅草ならではなかろうか。

  

  

*営業時間・定休日などの記載は執筆時のものです。
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。