人間味 小さな奇跡を生み出した料理人たち / 山本益博

一皿の料理が、それまでの常識を変えてしまうことがある。 その奇跡はたいてい、空から降ってくるものではなく、職人の日々の仕事をささえる「足もと」から生まれるのかもしれない。 指折りの高級レストランから、隠れた庶民の名店まで。 美味しいものを届けたいという思いと愚直に向きあう職人たちを追う。

小さな奇跡とは何か?

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 2年前に亡くなったフランス料理の巨匠ジョエル・ロブションが、かつての自分の料理を振り返って、こんなことを言ったことがある。

 「私の料理で最も評判になったものといえば、オマール海老のジュレの中にキャヴィアを浮かべた前菜でもなければ、トリュフを円盤状にスライスし、薄いタルトの生地の上に、幾何学模様のように並べたトリュフのタルトでもありません。子羊のローストに付け合わせたじゃがいものピューレ。これが、私を世界に広めてくれた料理なのです。

 1980年代のフランスでは、じゃがいもは取るに足らない野菜、食材でした。でも、とりわけ素晴らしいじゃがいもを見つけた瞬間、何としてでも美味しいじゃがいものピューレを作りたくなりました。今まで誰も作ったことがないようなじゃがいものピューレをね。

 レストランでは、誰もが私のじゃがいものピューレをお替りしました。皆さん、このじゃがいものピューレが召し上がりたくて、お店にやってきたものです」

 こう言ってから、最後に次の言葉で締めくくった。

 「ごくごくありふれた食材から、小さな奇跡を生み出すこと。これが料理人に課せられた仕事なんです」

 本来「究極」も「絶品」も料理には似合わない讃辞だが、「小さな奇跡」というのは、ありうるのかもしれない。

 これから始まる私の連載「人間味 小さな奇跡を生み出した料理人たち」では、皆さんよくご存じの、銀座「すきやばし次郎」の小野二郎さんもいれば、我が町、東京は杉並区西荻の定食「坂本屋」の川端敏雄さんも登場する。

 私が、今から30年以上前に「二郎さんが日本一の鮨職人」と声を大にしても、ほとんどの鮨通の方たちは信じなかった。

 ところが、見る見るうちにわずか10年余りで「世界のJIRO」になってしまった。小野二郎のたゆまぬ努力の賜物ではあるが、これも料理人本人が起こした「小さな奇跡」と呼んでよいのではなかろうか。

 一方、西荻窪の「坂本屋」は、20年前までは、どこの町でも見かけるごくありふれた、メンチかつもあれば、中華丼、餃子もある定食屋だった。ところが、揚げたてのとんかつが評判を呼び850円の「かつ丼」がいつしか名物になって、昨年からは「かつ丼」専門店になってしまった。現在は、火曜日木曜日土曜日の週3日、それも11時半から3時までの営業となり、以前にも増して、行列が長くなってしまっている。

 しがない「定食屋」だった川端夫婦が思いもよらなかったことで、これもまた「小さな奇跡」と呼んでいいのではなかろうか?

 「すきやばし次郎」と「坂本屋」に共通するのは、料理人の出世欲や名誉欲とは一切無縁の「美味しいもの」を生み出したい一心から起きた「小さな奇跡」なのである。


 私は、食べ歩きをはじめて50年近くになるが、お店を訪ねて、気に入ると、すぐに再訪し、吉原の廓(くるわ)言葉でいうと、裏を返して、なじみになることが多い。

 料理が美味しかったことはもちろんだが、それ以上に料理人、職人さんの仕事ぶりに惚れて通い始めるというのが本音である。優れた料理人、職人探しの最良の道は、じつは、徹底した食べ歩きにおいて他にない。それも、同じ料理のジャンルを立て続けに食べ歩く。とんかつならとんかつ定食を1週間に何軒も食べ歩く。最近では、2か月の間に30軒の東京のラーメンを食べ歩いた。すると、必ず、自分の好みの店が見つかるのだ。

 「好み」と言っても、単純に自分の嗜好に合っているというのではなく、永年の経験から得た知識、感覚などを総動員しての「好み」の判別である。このとき大きく支配するのが、料理人、職人の技巧、感性、そして、とりわけ人柄が大きくものを言う。人柄は「職業的良心」と言い換えてもよい。どんなに料理が飛びぬけて素晴らしくても、人柄がそれに相応しくないと、ただ「ご馳走様」とだけ言い、私は店を後にしてしまう。

 料理が気に入り、料理人、職人の仕事ぶりが気に入ると、帰り際のあいさつに気合が入り、時には感想を言って、ちょっかいを出すことになる。このほんの「ちょっかい」から料理人、職人と私の間で、ドラマが始まり、ストーリーが生まれることになるのだ。

 つまり、私は美味しいものが大好きな「食いしん坊」というより、料理人、職人が皿に込めた人生を味わいたくて、通い詰めているのではないかと思う。もし、それを一言でいうならば滋味も妙味もある「人間味」。

 わざわざ店に出かけなくとも、この連載で料理人、職人の「人間味」を堪能することができるだろう。その「味」の虜になったら、その時はぜひ足を運んでいただきたい。