中央線界隈の「江戸前」
私は東京生まれ下町育ちで、小さい頃から天丼、鰻丼、かつ丼、親子丼と言った「丼物」のごはんが大好きだった。後年上梓したガイドブックでは、天丼、鰻丼、かつ丼、親子丼に牛丼、鉄火丼を加え、和歌の「六歌仙」をもじって「どんぶり六花撰」と名付け、遊び心で「丼物」に敬意を払っていたほどである。
中学生のころまで住んでいたのは、上野と浅草のほぼ中間、地下鉄銀座線稲荷町駅南側の永住町という寺町だった。稲荷町から田原町まで続く大通りに仏具屋さんがずらりと並んでいるのはそのせいである。
永六輔さんの実家の最尊寺があり、昔、落語家の古今亭志ん生がいっとき住んでいたり、作家の池波正太郎が母親の実家に預けられた時住んでいたりした町で、典型的な下町には自宅で仕事をする居職の職人さんも大勢住んでいた。
私が高校生のとき、家族で札幌に転居した。父親は靴下の卸業をしていたのだが、商売の勢いがなくなり、父親が札幌のデパートに転職したのだった。東京が恋しくてたまらない私は、大学は東京と決めていて、早稲田の夜間の第2文学部に入学すると、西武新宿線で高田馬場からいける練馬区の上石神井に下宿することにした。下町育ちの人間が出かけたこともなかった上石神井に住みだすと、練馬区はなんとも田舎くさく思えたものだった。
とはいえ、大人になってふたたび下町に住む気にはなれなかった。山手線の外側で、最も下町の匂いがする町はどこだろうと探すと、都心から放射線状に延びる鉄道では、中央線界隈が最も「江戸前」だった。練馬も山の手の世田谷も私の肌には合わなかった。
中央線のなかでも、高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪がもっとも「江戸前」らしく、なかでも西荻窪は駅前に広場がなく、大通りもないため大型店舗は出店なしで、荻窪、吉祥寺と違って若者も少なかった。そうした理由で、西荻窪に住むようになったのだが、どうして、中央線沿線に「江戸」の匂いが漂っているのか? 三鷹市役所で街の歴史を調べてみると、古くは江戸時代の振袖火事がきっかけで、その避難場所を確保するため武蔵の境の三鷹まで開墾され、神田連雀町の住民が強制的に移住させられたことがわかった。三鷹に下連雀があるのはそれゆえなのである。これをきっかけに江戸の下町との縁が出来上がったのだった。
中央線ははじめ、東京駅ではなく、かつて鉄道博物館があった万世橋が始発駅だった。そのすぐ近くにそばの老舗「かんだやぶ」があり、この辺一帯が連雀町と呼ばれていた。つい近年まで、この万世橋の「かんだやぶ」から水道橋「一茶庵」、飯田橋「蕎楽亭」、新宿「矢部」、阿佐ヶ谷「慈久庵」「みや野」、荻窪「やぶそば」「本むら庵」、西荻窪「藤盛」「鞍馬」、吉祥寺「上杉」、三鷹「桂庵」までそばの名店が揃って点在していた。
西荻窪は駅から北へのびる道を進んでゆくと、青梅街道に出る。その青梅街道沿いに日産自動車があるのだが、かつてここは中島飛行機製作所があり、駅からの道筋には、飛行機の専門学校「航空高専」があった。
西荻窪駅北口からすぐそばにある定食「坂本屋」は、当初、中島飛行機製作所に通う人々の甘味処として賑わっていたという。それが食事処となったのが昭和で、現在の川端敏雄さんで3代目である。
私が西荻窪に住みだした1990年ころは、洋菓子とレストランの「こけし屋」くらいしか知らず、ネットで調べると西荻窪は骨董屋の多い町ということだった。
私は仕事柄、あちこち西荻窪駅界隈を食べ歩き、中華そばの「はつね」、たんめんの「博華」、そばの「鞍馬」、喫茶の「ダンテ」などが贔屓となった。いまなら、これに海南チキンライスの「夢飯」、カレーの「ガネーシャガル」が加わるだろうか。駅からほど近い「坂本屋」へ初めて出かけたのは、住みだしてしばらくたったころだったと思う。
青天の霹靂
我が家から駅までの道沿いにある店は、なかなかのれんをくぐりにくい。なぜなら、料理が気に入らなかったとき二度と出かけないから、毎日、その店の前を通るたび気が引けてしまうからである。
勇気を出して「坂本屋」を訪れたのは、店の前のショーケースにある「かつ丼」がずっと気になっていたからだったに違いない。ショーケースには、蝋細工の中華そば、ギョーザ、オムライスが飾ってある、いわゆる駅前食堂の趣だったので、さして期待せずに店のカウンター席に着いた。
「かつ丼」を注文すると、なんと卵でとじられた「かつ」が揚げたてだった。昼の時間がかなりすぎていて、お腹が空いていたせいもあるが、フーフー言いながら、どんぶりを掻っ込んだ。揚げたての「とんかつ」が美味しさを一段と引き立てているのだった。750円のお勘定を済ませ、お店を後にすると、近いうちにまた来ようと、大満足だった。

B級グルメの中にもキラリと光るA級
1週間ほどして再び出かけると、なんと「かつ」は揚げたてではなかった。美味しかったのだが、前回の満足感は得られなかった。お勘定の段になって、おかみさんに「今日のかつは揚げたてではないんですね?」と訊ねた。「この間、来たときはかつが揚げたてで、とても美味しかったのですが」と続けると、「この間は、かつがちょうど切れてしまったので、揚げたてをかつ丼にしたんだと思います」。
「同じかつ丼でも、揚げたては格別ですよ」と揚げたてを薦めると「次からそうします」との言葉が返ってきた。
定食屋がかつ丼専門店に
提案した以上、間を空けてはならぬと、数日後にまたまた出かけた。すると、「かつ丼」の注文のたびに「とんかつ」を揚げているではないか。帰り際に「やっぱり、揚げたてのかつ丼はとても美味しいです!」と絶賛すると、おかみさんが「あれ以来、必ず揚げたてをお出ししています」と嬉しそうに答えてくれたのだった。

川端ご夫妻
一度焚き付けた現場に再び姿を見せるのは放火魔だから、これはお節介な「味の放火魔」かもしれない。私はこれを機に、毎月レギュラー出演しているTBSラジオの早朝番組「生島ヒロシのおはよう一直線」で「揚げたてかつ丼」を紹介した。そればかりか、雑誌の連載に書き、SNSで取り上げ、ついにはTVの取材が入るまでになった。
かつ丼が昼に20食以上出るようになり、定食「坂本屋」はいつしかかつ丼の「坂本屋」になっていった。2020年からは、火・木・土の週3日それも11時半から3時までの営業となり、開店前からの行列が一層激しくなってしまった。「かつ丼」1杯800円だが、いまや、西荻名物のみならず、「揚げたてかつ丼専門店」として東京の宝物になっている感がある。
毎年暮れになると、出かけた際に川端夫妻から「色紙」を手渡される。食べた「かつ丼」に変わりがなければ、新しい年用に色紙を書くことが恒例になっている。その色紙、すでに20枚を超えている。2021年新春の色紙には、次の言葉を贈った。
「西荻窪の宝物『坂本屋』のかつ丼 いつまでも」
*営業時間・定休日などの記載は執筆時のものです。
*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。