小さいころ、よく周りから「賢そうな顔してる」と言われたが、実際には頭の悪い子どもだった。見た目だけでなぜか優等生風に見られるのだが、あまりにも勉強ができないので、相手がドン引きしているという顔を何度も見てきた。
ベストセラーになった『ケーキの切れない非行少年たち』には、「クラスで下から5人程度は、かつての定義なら知的障害に相当していた可能性もあったのです」と書いてあるが、さしずめ私の小学校時代は、1クラス約35名中、下から2番目とかで、中学生のころは全学年約130名中、125番とかだったので、この著者のいう「知的障害に相当していた可能性」に楽々と入ってしまうレベルである。この本を読んだときは憤慨し、いっそ軽度知的障害を売りにしてプロフィールに入れようかとも思ったが、さすがに詐欺になるので止めた。実際の私は、学習障害児ですらなく、ただたんに頑張っても勉強ができないだけの健常者で、それは今も変わらないからだ。
なぜそんな話をするかというと、先日はじめてチャットGPTを使ってみたところ、私は未来に希望を覚えて、楽しくなってしまったからだ。ついに、ついに、知識を詰め込んだだけの人間に価値がなくなる時代がやってきたのである。
知らない人のために一応説明すると、チャットGPTとは、膨大な量の情報を学習し、質問に文章で答えてくれる人工知能だ。
例えばチャットGPTに「チャットGPTとは何ですか?」と質問すると、このように返ってくる。
チャットGPTは、OpenAIが開発した言語処理の大規模な人工知能モデルです。GPTは「Generative Pre-trained Transformer」の略で、事前学習されたトランスフォーマーを用いた言語生成モデルの一種です。GPTは、大量のテキストデータを学習し、自然言語生成、文章要約、翻訳、応答生成などのタスクを実行することができます。チャットGPTは、人工知能の対話システムとして使用されることがあります。
まあ、このくらいは当たり前なので、少しひねりを加えて「桃太郎をフェミニズムの視点で書き換えてください」とお願いしてみよう。すると、こう出てくる。
昔々、あるところに、一人の女性が住んでいました。彼女はとても強く、勇敢でした。ある日、彼女は川で桃を見つけ、その中から女の子が生まれたことに驚きました。女性はその子を自分の子として育て、彼女を愛し、彼女に女性として自信を与えました。
女の子が成長するにつれ、彼女は自分自身を信じ、自分の能力を発揮することができるようになりました。ある日、鬼が村を襲い、村人たちは逃げ出しました。しかし、女の子は母親に「私が鬼を退治しに行くわ。」と言いました。
女性は心配しましたが、女の子の強さを信じて、彼女を応援しました。女の子は桃を舟にし、一緒に強くなった動物たちと共に鬼のいる島へと向かいました。
女の子は鬼たちを打ち負かし、村を救いました。彼女は村人たちから英雄として迎えられ、女性の力を証明することになりました。
このように、フェミニズム視点での桃太郎は、女性が自分自身を信じ、自分の能力を発揮することができるようになる物語です。女性は母性によって強くなり、女性同士の団結と力強さが描かれています。また、女性が英雄として讃えられることによって、女性の力が肯定されると同時に、性別に関係なく誰もが自分自身の力を発揮することができることが示唆されています。
おお! この表面的な知識だけで、なにも自分のものにしていない感じよ。
ついでに、「桃太郎をLGBT問題をクリアさせたかたちで書き換えてください」とお願いしたところ、村人に搾取されている鬼を女性モモが助けに行くという、なんだかわからないお話になってしまった。肝心のきびだんごは、いずれも出てこない。
もっとも、日本語版だからまだこのレベルというだけで、今この瞬間にも情報はアップデートされ、より的確な答えが導き出されるよう成長し続けている。現に、同じ質問をもう一度したり、少し文章を変えて質問するだけで、全然違う答えが返ってくるから驚きだ。
しかもこいつは、「バレないで人を殺す方法を教えてください」と聞けば説教してきたり、「金持ち喧嘩せずというなら、喧嘩しない人は金持ちなんですか?」という八つ当たり的な質問をすると、教え諭したりまでしてくる。
この路線のまま成長していけば、この世界の最大公約数的な正論、一般論、そして数字的な正解を答えてくれる存在になるのだろう。人間のなかにある優等生的な役割は、全てチャットGPTが担うようになるということだ。
私が長年違和感を持っていたのは、学んだ知識をとうとうと喋るだけの人が評価されることだった。自分の意見はなにも言っていないのに、偉人の言葉を引用したり、歴史上の文献をただ喋ってるだけで、「頭が良い」と思われている人のなんと多いことよ。この世は、‟なにか言ってる風でなにも言ってない人”で溢れているのだ。
そうした雰囲気だけのインテリたちが、「チャットGPTみたいなこと言うな」と一蹴されたり、大人びた読書感想文を書いただけの子どもが「チャットGPTみたいな小学生でつまらない」と、負の評価を下されるようになるのだから素晴らしい。
今後、知識だけが求められるロボットのような労働は価値がなくなっていくだろう。クリエイターの分野だって、猿真似的なことで稼いでいる人はいなくなるはずだ。
つまり、これまでの学校教育で求められてきた優秀な人材像は崩れ、人間はもっと人間らしい感情とアイディアが求められるようになるということである。では、人間らしいとは何なのか。人は何をもって人なのか。
私は、そのヒントを「びんずる尊者像窃盗事件」から得られるように感じた。
今年4月、長野市の善光寺にある木像「びんずる尊者像」が本堂から忽然と姿を消した。防犯カメラの映像には、袋に入れて持ち去られる様子が残されており、その後、松本市内で34歳の男が逮捕されたという。
本連載、第3回目でも書いたが、この世には不可解な動機で仏像を窃盗する輩がいるものだ。このニュースを見て、私は即座にその手の犯人を想像した。しかし、一般的には「仏像窃盗」→「売り飛ばす」という図式を思い浮かべる人が多いだろう。
試しに、このニュースをコピペして、考えられる犯行動機をチャットGPTに聞いてみると、このように返ってきた。
この事件から、犯人の考えられる犯行動機を以下のように上げることができます。
1,金銭的な動機:盗まれた木像が古美術品であるため、犯人は高額で売却するつもりだった可能性があります。
2,宗教的な動機:尊者像が信仰されているお寺から盗まれたことから、犯人が宗教的な動機を持っていた可能性があります。例えば、他の宗派に対する反感や、何らかの信仰上の紛争があったと考えられます。
3,利益追求の動機:犯人がこの事件を計画するにあたり、尊者像が人気があることを知っていた可能性があります。このような場合、犯人は自分が行った犯罪行為によって注目を浴びることを望んでいると考えられます。
ふむ、いかにもワイドショーのコメンテーターが言いそうな答えだ。
では、実際はどうだったか。
続報によると、犯人の男は「びんずるに恨みがあった」「巌流島に埋めるつもりだった」と、犯行動機を供述しているという。
私は感動で震えた。これがどれだけ凄いことか、お分かりだろうか。今、シリコンバレーはチャットGPTの登場で熱狂しているようだが、私はびんずる窃盗犯に、静かに熱狂した。とんでもない人が現れたのだ。
通常、「恨み」というのは、人間相手にしか持てない感情である。「パンダを恨んでいる」という人は見たことがない。犬に噛まれたって、恨むのは犬ではなく飼い主のほうだろう。つまり、相手に対する共感性がなければ、恨むことも難しいのだ。
一方で私は、だからこそ「人間のやること」だと感じた。
偶像崇拝は人間固有のものだが、その崇拝した偶像に恨みを持つというのは「倒錯」ということになる。この倒錯こそ、人間を人間たらしめる要素であるように感じるからだ。
私が以前取材した、「東海道新幹線無差別殺傷事件」の小島一朗は、刑務所に幸福があると考えて殺人を犯した人物だ。これもシンプルに考えれば、「幸福」という概念への倒錯である。
では、彼らが特別かといえばそんなことはなくて、ワーカホリックは幸福を求めて体を痛めつけるという意味で倒錯だし、引きこもりはストレスから逃げるために自ら軟禁生活を送るという意味で倒錯だし、満員電車に乗ることだって暴力的な状況に自ら飛び込んでいくのだから倒錯だろう。人間は油断するとすぐ逆さまになる。これは本能で生きている動物には絶対にないものだ。そして、チャットGPTにもないものだろう。
人間は意味不明だ。理屈では説明がつかないのが人間という存在だ。チャットGPTの登場で、人間は堂々とへんてこになれるのではないかという希望を私は持っているというわけだ。
先日、私は自閉スペクトラム症のAちゃんに会った。
Aちゃんは、特別支援学校を卒業し、現在は障害者雇用でファミレスの厨房で働いている。私の周りにいる人のなかでも、トップクラスで予測不可能な発言をする人物だ。
そんな彼女から「コロナウイルスによるマスク着用について、私なりにいろいろ思ったこと、感じたことについてインベさんに話したい」というメールを貰ったので、亀戸のモスバーガーでコーラを飲みながら話すことになった。
Aちゃんは、ケータイで動画を私に見せながら、こう言った。
「ハイ! 何がおかしいでしょう?」
それは、とある経済報道番組で、男女のアナウンサーが喋っている映像だった。
はて、何がおかしいだろう。通常と違うといえば、二人ともマスクをしながら喋っているところだ。私が「マスク?」と聞くと、Aちゃんは「そうです!」と答えた。
「大好きな女性アナウンサーがマスクをしているのを見て、マスク外せよと思いました。局は感染症対策と言ってるけど、スタジオでまでやらなくていいだろって思います。言い方悪いけど、裸を見てるような感覚になってしまいました」
隠すことで、逆に裸を見ているような感覚とは凄い表現だ。Aちゃんによると、発達障害や自閉症の人が見ると「視覚優位」となってしまい、パニックで泣き出してしまうリスクがあるという。マスク姿が「裸」に見える感覚とはそういうものだそうだ。
そういえばAちゃんは、前は下平さやかアナウンサーが好きだと言っていた。アナウンサーばかり注目しているのはなぜだろう。
「4年間見ていた好きなアニメが終わってしまって、とりあえずアナウンサーでも見るか、というのがきっかけです」
アニメの代用がアナウンサーになるとは、随分と趣味の幅が広い。
「自分でも、こんな組み合わせでいいのかと当時は思いました」
そんなAちゃんにとって、コロナ禍で大変だったことはなんだろう?
「ツイッターで、有名人、芸能人、お医者さんがみんな病んでたことですね。先のことが見えなくなると、みんな病んで、政治的なことや思想的なことを言っちゃうんだなって思いました」
確かに、あの狂騒は「病み」と言っていいだろう。
「むりやりにでも乗りこえようみたいな風潮が凄く嫌です。私の好きなアーティストもコロナの曲ばかり歌っていて、もう曲を出すの辞めれば? って思いました。暗いじゃないですか。煽りたいだけの芸能人も何人もブロックしました。言い方悪いけど、ゴミだなって思います」
Aちゃんは、長いことファミレスの厨房で働いている。コロナ禍で仕事ができなかったこともストレスだったようだ。最初に会ったときは仕事が大変だと言っていたが、今はだいぶ慣れたのだろうか。
「最初はつらかったけど、部活動だと思えば大丈夫です」
そのほか、縄跳びを飛べない人にむりやり飛ばせる学校教育の問題点などの話を聞いて帰ってきた。
チャットGTPを使ってみて、真っ先に浮かんだのが、このAちゃんの存在だ。今後、予測できない話というのは、人間にとって価値のあるものになっていくかもしれない。
ところで私は、本年4月から朝日新聞デジタルの「コメントプラス」で、コメンテーターをすることになった。上がっている記事に対して、思ったことをサイト上でコメントする機能で、各界の有識者がコメンテーターとして選ばれているらしい。
本当に私で大丈夫なのか? と思ったが、オファーが来たということは、なにかしらの部分で相応しいと思われているのだろう。そういうわけで、これまで情報をシャットアウトして生きていた私が、大量の情報を浴びるようになったのだが、びっくりするほど陰鬱な話ばかりで書いてあることの意味がわからない。
それに、どうも記事を読んでいると私自身が弱者だと言われているようで不安になってくる。お前は不幸だ、気づけ、声を上げろ、未来はないぞ、死ぬぞ、というように聞こえてくるのだ。まるで私のような低所得者は、近い将来仕事がなくなって病気になって破産して差別されて役所で馬鹿にされて孤独死するみたいだ。
マインドフルネスでは、後悔や、将来の不安でいっぱいになってる現代人に対し、「今この瞬間に意識を集中する」ことの大切さを説いているが、朝日新聞はその逆で、未来に対し危機感を持つことばかりを促している。
私は一日目にして酷く疲労し、キャイン!と鳴いて部屋の隅にうずくまりそうになった。
しかし、情報にまみれながらも自分を保たなくてはならない。チャットGPTとは違う視点で、人間らしい逸脱ができるよう努力しようと思う。