みんなの〈青春〉 / 石岡学

「あの頃はよかった」と空を仰ぐ熟年から、「アオハルか!」と即座につっこみたくなる中高生まで。青春という言葉には、世代を問わず、人をうずうずさせる不思議な力が宿っている。理想の自分。かけがえのない人生の1ページ……。そんなイメージがいつの世も生き続けているのは、一体なぜなのか。大衆意識の源にせまるユニークな現代文化考。

さらば青春⁉――70年代のターニングポイント

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 今回は、かつて近代日本において規範として絶大な力を発揮していた青春という概念とはどのようなものであったのか、その由来と内実について、文学と映画を中心にまとめていくこととしよう。それをふまえて、青春が「終焉」したとされる1960-70年代において、同時代的にそのような「終焉」がどう感知されていたのかどうかについても少し触れることができればと思っている。

「青春」の誕生

 まず、「青春は普遍的なものではない」ということから、話を始めていこう。

 普遍的でないということはつまり、われわれがイメージする青春は特殊な、時代がかったものだということである。というより、青春という概念自体がそのようなものであり、言ってしまえば(19世紀以降の)近代社会の産物にほかならない。

 具体的にそれはどういうことか。まず、子どもと大人の二分法しか存在しない世界には、青春は成立しない。子どもでも大人でもない状態、すなわち「青年」が社会的に存在するようになってはじめて、青春は成立する。通過儀礼によって子どもから大人へと一足飛びに移行するような社会では、過渡期としての青年や青春の時期はそもそも存在しえないからだ。ではなぜそのような過渡期が誕生したかといえば、子どもから大人への移行をなだらかに進ませるための装置=「学校」が制度化され普及していったことが大きい。Schoolの語源が余暇であるということにあらわれているように、学校で教育を受け勉強している(だけで許される)期間というのは、それ以外のこと、すなわち労働を免除された状態である。だから、学生時代は本質的にモラトリアム期間なのだ。そのモラトリアムを10代後半になっても享受できる層は、近代初期においてはごく限られたエリート層の、主として男子に過ぎなかった。それが、19世紀以降に学校教育が制度化され普及・拡大していくにつれて、徐々に一般化していくわけである1

 このように一般化してきた青年という存在に対して、「青年期」という特有の意味づけを行ったのが19世紀末の心理学である。すなわち、青年は過渡期にあって不安定な存在であり、さまざまな危機を抱えているとされ、「青年期」は特別の配慮が必要な時期だと「科学的」に規定されるようになった。人間の発達過程における普遍的な段階の一つとも思える青年期も、実際は近代社会に特有のものなのである2

 重要なのは、ここで青年期が人間の発達過程における「本質」と捉えられたことによって、学生か否かと無関係に青年を論じることが可能になったことである。学校という仕組みが子どもから大人への移行を段階的なものとし、それによって宙ぶらりんな「青年」が誕生したわけだが、今度はそれが年齢と結びつき本質的なものとして位置づけられた。それゆえ、「勤労青年」も成立するようになったのである。


 このように青年・青春が近代特有の概念として立ち上がってくる上で学校は重要な装置だったわけだが、そもそもなぜ学校は制度化され普及・拡大していったのか。近代以前にも学校に類似したもの(日本で言えば寺子屋や藩校など)はあったのだが、それと近代の学校との最大の違いは、前者が身分秩序の再生産装置であったのに対して、後者は身分秩序を撹乱し壊す(社会の流動性を高める)ことを期待された装置だという点である。近代社会では、社会的地位決定の原理が属性主義から業績・能力主義へと(建前上は)転換された。生まれや身分といった属性に縛られない人生、それは可能性に満ちた人生ということもできるが、一方で何者になれるのかわからない、あるいはそもそも何者になるべきかわからない、という悩みも必然的に生み出す。だから、青春は希望と不安、光と闇をともに抱え込むものとなったのだ。古屋健三(2001)が以下のように表現する青春は、まさにこうした近代的青春のイメージを端的にあらわしている。

 人はそこで異性を知って恋をし、個性に目覚めて進路を見定め、生きることに思い悩み、真理を手に入れようとあがき、社会の醜さにおののいたりした。純粋で、まだ半ば夢をみていて、心の気高さだけで世間の泥沼を渡っていけると頑固に思いこんではいるが、しかし実際には内面の深い泥に足をとられて、あっぷあっぷしている、とにかく矛盾だらけで、あらゆる問題が噴き出してくる、ドラマチックな年頃であった。幼年時代のトラウマで人の営みすべてが説明されてしまう現代とは違って、近代人は自らの手で己の宿命を掘りあてなければならなかったし、それには初めて異質な他者と係わる青春を生きて、己の顔を見極める必要があったのである。(同pp.9-10)

近代日本文学と青春

 とはいえ、社会の変容にともなってライフステージのありようが変化すること自体は、ごく当然のことである。問題は、青春が単に近代になって新たに誕生したという事実にあるのではなく、それが規範として強い影響力を及ぼしたという点にある。20世紀前半の日本社会において、まずそれは文学を中心として展開された。

 「青春という言葉はかつて、疑いもなく、異様なほどの輝きを帯びていた」という三浦雅士(2001、p.7)は、著書『青春の終焉』において、日本近代文学がいかに青春を軸として展開し、それがいかに終焉したのかを論じた。三浦によれば、青春という言葉を一般に流布させたのは、1905年から翌年にかけて『読売新聞』に連載された小栗風葉『青春』である(同pp.7-8)。それ以前の1880年にyoung menの訳語として東京基督教徒青年会(YMCA)が用いた「青年」は、1880年代後半に徳富蘇峰が積極的に用いたことで一挙に普及し、これによってすでに「青春」という言葉が受容される素地はできていたという3。その後、島崎藤村『春』(1908年)、夏目漱石『三四郎』(同)、森鴎外『青年』(1910年)といった作品や、雑誌『白樺』(1910年創刊)などが続々刊行され、新しく生み出された青春という言葉は、これ以後の近代日本における文学と人の生き方を支配するにいたる。その青春のあり方とは、三浦によれば、「社会的覚醒であり、革命であり、政治的かつ芸術的前衛であり、恋愛であり、その挫折であった」という(同、p.16)。


 ところで、青春と文学ということでは、ドイツを中心として19世紀に流行したビルドゥンクス・ロマンにその源流を見出すこともできそうである。教養小説、自己形成小説、あるいは成長小説などとも訳されるこれらの作品は、若者がさまざまな体験を経て「自己形成」し「成長」していく姿を描いたものだ。たしかに、近代日本文学が青春というテーマに飛びついたことの背景に、ビルドゥンクス・ロマンが無関係であったとは考えにくい。では、青春を描いた近代日本文学はこのビルドゥンクス・ロマンの日本版に過ぎないのかといえば、ことはそう単純でない。ドイツ以外の国も含め、西洋では青春が文学の中心テーマであり続けたというような状況は、必ずしも見られなかったからである4。ことさらに青春と文学が強く結びつき、「青春かくあるべし」という規範となったのは、近代日本に特有の事態だったとみる方がよさそうだ。

 そのような、日本における文学や文芸評論の「青春ブーム」は、特に1930年代と1960年代にピークを迎えたとされるが、その具体的な様相については『青春の終焉』をはじめとした先行研究に譲りたい。ここでは、かつての日本社会で青春はこのように強烈な規範としてあった、ということをおさえておけば十分だろう。青春とは、夢・希望・不安・悩みといった矛盾を抱えるべき・・、抱えなくてはならない・・・・ものであり、逆にいえば、そうした葛藤のない青春は「偽りの青春」だったのである(わざわざ悩み苦しむことを求めるとは、何たるナルシシズム!)。

「男の世界」

 ところで、読者の中にはここまでの話で、「これって男の青春の話ではないのか?」とひっかかりを覚えた人もいるのではないだろうか。その引っかかりは間違っていないし、間違っていないどころかとても重要なポイントである。

 実際、三浦はこの点について自覚的に論じており、青春が1970年代に「終焉」した理由として、「資本主義の内実」が変わり「階級がもはや人格と結びつかなくなってしまった」ことに加え、「それ以上に重要なのは、長く抑圧されてきた女性が、その解放の端緒をつかみはじめたからである」と指摘していた(三浦2001、p.12)。また、「青春というイデオロギーは、男尊女卑というイデオロギーと矛盾することなく共存していた。青春も青年も男の専有物としてあったことに誰も気づかないほど、それは自然だったのである。透谷も独歩も恋愛至上主義者といっていいほどだったが、女性は対象であって主体ではなかった」(p.178)とも書いている。

 『青春の終焉』をめぐる三浦と上野千鶴子との対談でも、青春とジェンダーの問題が掘り下げられている(上野千鶴子・三浦雅士「青春の終焉と主体なき現在」『群像』2001年11月号)。この中で三浦は、青年や青春は近代国民国家の成立と芋づる式につながったイデオロギーだったにもかかわらず、思春期という生理的自然と簡単に重ねあわされて自然かつ自明なことと見なされるようになってしまった、と述べる。つまりそれは生産・成長第一主義と一続きであり、「女性という問題を覆い隠すかたちで機能してきた」というのだ。

 同様に上野も、青春は「現在のための現在ではなく、将来のための現在という将来からの遡及によってしか価値づけられないような過渡期」であるとし、それは手段的価値であって自己充足的価値ではないと指摘する。そのうえで、青春が近代日本文学の重要テーマになった理由について、次のようにぶった切っている。

 身もふたもなくいってしまえば、日本の近代文学の担い手は、エリートの中でも二流エリートだったんでしょう。もし青春の価値が手段的な価値だとすれば、青春とは通過すべき時間ですね。ビルドゥンクス・ロマンは、教養小説であると同時に成長物語ですから、その後にイニシエーション、つまり成熟が来るはずです。教養をくぐり抜けて、成熟に行くべき過渡期が青春でしょう。しかし、その過渡期に永遠にとどまろうとした人々は成熟に行かなかった。そこに行かないことを正当化する必要に迫られて、青春のただ中に居続けることの方が、そこをくぐり抜けて向こうに行くよりも価値が上だと言いつのる必要がある。(…)ともかく世俗的なエリートにならないもしくはなれなかった人々が、青春という記号に立てこもったのではないでしょうか。

 上野の指摘は手厳しいが、文学と青春という問題系の重要な側面を言い当てていると思う。いずれにせよ、この問題系は実は男性性と強く結びついていたのであり、ジェンダーの観点からはいずれ「終焉」しなければならない性質のものだったとも言えるだろう5

青春はカネになる!? ――映画の青春イメージ

 戦後日本において、文学以上に青春を好んで題材として取りあげ、そのイメージ構築に影響を与えたと考えられるのは、映画だろう。「日活青春映画」などとジャンル分けもされるように、青春は映画の鉄板ネタと言ってもよい。ただ、これも本格的に論じようとすれば一冊の本ですら足りないくらいの大きなテーマなので、ここでは、1970年代半ばの時点で青春映画の系譜についてまとめ、興味深い指摘をしている佐藤忠男の論を取り上げてみたい(以下、ページ数表示は全て佐藤(1976))。

 佐藤は、青春映画を「悩み苦しみながら人生の意味を手さぐりで求めるような若者たちに焦点をあてた映画」(p.290)と定義し、「青春という観念は映画によって大きくはぐくまれ」、「現代人の思想になった」(p.19)と説く。そして、ひと昔前まで、青春は「希望とか、あらゆる困難にくじけずに前進する強さとか、あくまでも理想をめざして頑張ることのできる純粋さ、といった気分」に満ちていたという。

 だが佐藤は、そういった青春のイメージについて、「青春というものがじっさいにそういうものであるからというよりも、いわゆる青春映画によってつくりあげられたものではなかったのだろうか」(p.17)と、その虚構性を問う。佐藤がこのようにいうのは、青春とは性に関する煩悶に悩まされ、将来の見通しがはっきりせず何をしても手応えに乏しく貧乏な時代であり、「どんな観点から考えても、青春とはつまらない時期であり、辛い時期であり、かわいそうな時期である」(p.16)と認識しているからである。それゆえ、「青春が人生の華の時期であるように言われるのは、じつは、現実にはいいことなんてひとつもない若者たちに、ただ夢だけを売る商売、つまり青春映画だとか、青春を賛美する歌謡曲だとかいったものが産業として成り立つようになった近々数十年のことでしかない」(p.16)と、佐藤は映画によって描かれた青春イメージについて、「功」よりも「罪」の側面を強調することになる。

 映画は、貧しい若者たちでも見れるほどの安い見世物として十九世紀末に現れ、二十世紀のはじめに世界に普及した。現在のテレビのホームドラマが中年の女性たちにおもねり、中年の女性たちを美化して描くことで視聴率をあげているように、貧しい若者たちの見世物として登場した映画は、若者たちを美化し、貧しい彼らに夢と希望と自負心と誇りを売りつけることでがっぽりと儲けたのだった。(p.18)

 ここにみられるのは、輝かしい青春のイメージは商業主義によって生み出された虚構に過ぎない、という認識である。「ヨーロッパのオペラや古典劇、近代劇、日本の歌舞伎や新派などには、青春もの、というのはあんまりない」(pp.17-18)のに、映画ではやたらと青春が取り上げられてきたのは、貧しい若者に手っ取り早く夢を売るのに都合がよかったからだ、というわけである。このような映画と青春の結びつきは、「アメリカンドリーム」という物語を有する合衆国で1910年代に成立し世界中に広がり、急激な都市化・工業化とそれにともなう人口・階級の移動が流動的であった日本社会では特に浸透したというのが、佐藤の説である。また、学校教育による立身出世のあおりとは異なり、映画が焚きつける野心は恋愛による自由と幸福を目指すものであること、エリート層に対し限定的な影響を発揮した文学に対し、映画はより大衆的な影響を及ぼしたことについても、佐藤は指摘している。

 もちろん、これはあくまで佐藤の解釈であり、当然ながら異論もあろう。だが私は、コンテンツとして消費される青春というものの一側面を鋭くえぐっていると思う。青春というネタは「カネになる」というこの事実は、青春の謎を解き明かすうえでとても重要な視点になるだろう。

変質? 消失?--同時代の認識

 このように映画が描いた青春イメージに対して批判的なスタンスをとっていた佐藤であるが、同書刊行の1976年の時点で、「希望とか、不屈の勇気とか、純粋さ」を描くような青春映画は「とっくに時代遅れなものになってしまった」とも述べている(p.164)。三浦のいう「青春の終焉」も、青春はすでに「亡霊」だとした古屋も、今回みてきたような規範的な青春が日本社会で消失したのは1970年代のことだとしていた(三浦2001、p.12)(古屋2001、p.9)。

 実際、同時代の資料をみていても、そうした青春の変質あるいは消失をめぐる語りに出くわすことは珍しくない。たとえば、雑誌『シナリオ』は1966年10月に「“青春”の仮説 現代に描くべき青春はあるか?」という、「描くに値する青春など現代にはない」という認識を裏書きするようなタイトルの特集を組んでいる6。この中で、脚本家の白坂依志夫は、「現代の青春を描くことは、むずかしくなった。というより、むしろ、青春には描くべきものがなにもなくなってしまった、という方が適切かもしれない」といい、「青年たちは、すっかり、飼いならされた羊になってしまったのだろう」と嘆き節全開である(白坂依志夫「ブルーな若者たち」『シナリオ』1966年10月)。別の記事で、哲学者・思想家の久野収も、「青春が青春の中ですでに失われ、あこがれと回復の対象でしかなくなっている」とし、同時代における「青春の退廃や消滅」を指摘していた7(久野収「喪われつつある青春の世代」『潮』1973年10月)。いずれにしても、そこで嘆かれているのは青春のヴァイタリティの消失であり、今となっては当時の青春を象徴するとも思える、「ビートルズ刈りや、ヒザ上十センチのスカートや、ラリル族」「アイビールックや、睡眠薬や、カミナリのような音をだすスポーツ・カー」(白坂)、「緊張的発散の体験、ヒッピー的脱落の体験」(久野)は、「現代の青春」が生命力や生産性を欠いていることの証として描き出されている。ただし、こうした論がみられたということは、「あるべき青春」がまだ希求されていたということも意味しており、青春をめぐる過渡的状況が反映されていたとみることもできる。


 もう一つ、当時の高校生の青春を「瀕死」と表現した『朝日ジャーナル』(1974年7月26日号)の記事についてもふれておきたい。同号の特集「高校生――瀕死の青春群像」は、当事者である高校生たちの手記をメイン記事として取り上げ、受験戦争にあえぐ高校生たちの姿を描いている。わずか10年ほど前には社会問題であった「高校全員入学」は現実のものとなり、すでにこの時期高校進学率は約9割に達していた。だが、それは高校の明確な序列づけをともなったものであったため、偏差値上位校へ進んだ者は大学受験に向けたさらなる競争に駆られ、そうでない者は「落ちこぼれ」の鬱屈を抱えながら高校生活を送っていた。記事に表れていたのは、夢も希望もなく虚しいとため息をつく高校生たちの、まさに「瀕死の青春」であった8

 学校は面白くない。週の後半になると嬉しい。僕(僕ら)はいつも「何か面白いことないかな」と思っているのだが、学校生活では明らかに行動は決まっている。もし、本当に「何か」をやりたい人間なら完全に学校を無視して、自分で食っていくはずだ。僕はそれができない。行きたくなくても、面白くなくても学校へ行く。決して優等生でも劣等生でもなく、グレるわけでもない。(RA・都立T高校)

 思うに、高校生活最大の目的、意義、そして青春といわれるものは、勉強か遊びかのどちらかではないだろうか。どちらかに割り切ってそれを実行している人は、おそらく悔いは残らないのでは…。工業高校へ入ってしまい、そして今勉強にすべてをかけているでもなく、遊びに心から楽しさを感じるでもないぼくは、完全に負け犬となってしまっているのでは。(JU・愛知県立H工高三年)

 青春の二文字はなんと空虚な響きを持って聞こえることか。いったいボクたちをこんなにしてしまったのは何だろうか。世間から二流校という不当で偏向的なレッテルをはられたことの挫折感か、それとも現代の教育はこういう人間を作るように出来ているのか。(SA・大阪府立S高校)

 こうしてみてくると、1970年代に青春は完全に終わってしまったかのように思えてくる。しかし、本当にそうなのだろうか。映画の斜陽化をもたらしたのはテレビの爆発的普及であるが、実はそこで1960年代以降、青春は頻繁に取り上げられていくこととなる。スポ根ドラマも含む、いわゆる「青春ドラマ」がこれにあたるわけだが、次回はこのあたりから話をはじめていくこととしよう。

 

【参考文献】
藤井淑禎、1994、『純愛の精神誌』、新潮社
古屋健三、2001、『青春という亡霊』、日本放送出版協会
三浦雅士、2001、『青春の終焉』、講談社
佐藤忠男、1976、『青春映画の系譜』、秋田書店
和崎光太郎、2017、『明治の〈青年〉』、ミネルヴァ書房
 

 

 

*本連載は、初回と最新2回分のみ閲覧できます。

  1. 次回で見るように、現代に近づくほど青春と学生時代との結びつきは強まっていく傾向にあるが、これはある意味で先祖返りと言えなくもない。
  2. 文化的・社会的に一人前とされる時期と身体的成熟を迎える時期が相当にずれるようになったという点も、青年期をより不安定なものにさせる理由の一つである。これは端的には性の問題に集約され、青春において恋愛や性が重要なテーマとして扱われ続けることの背景となっている。
  3. ただし、近代日本における青年・学校・青春の関係はやや複雑である。青年という言葉は、青年団や青年訓練所、青年学校といったように、どちらかといえば「学生でないノンエリート」という意味合いを持たされて通用していた(1970年代くらいまではそうである)。青春は文学が好んで取り上げている時点でエリート志向であり、どちらかといえば学生により強く結びつけられていたと考えられる。だが一方で、旧制高校生(エリート)である藤村操の自殺(1903年)が「煩悶青年」として問題化されたように、特有の危機を抱えた青年期というイメージは学生・青年をともにカバーしていた。このあたり興味深い問題だが、本連載の主眼ではないので、これ以上の追究は避けたい。さしあたりの参考文献として、和崎(2017)をあげておく。
  4. 丸谷才一は山崎正和との対談で、西洋ではどこにも青春をテーマとした評論集などないのに、日本の文芸評論ではやたらと青春を中心にしたものが多いことに違和感があったという旨の発言をしている(丸谷才一・山崎正和「特別対談 近代文学は「青春」と「不機嫌」を祀った」『文學界』2001年8月)
  5. 昭和30年代には女性を重要な担い手とする「手記」がブームとなり、そこでは青春と純愛がしばしばテーマとなった(『愛と死をみつめて』などが好例)。藤井淑禎はこれを、文学という「男性主導の制度に対する異議申し立て」であったと指摘している(藤井1994、p.193)。
  6. 概ねこの企画意図に沿った論考が多い中、『されど、われらが日々―』(1964年)で芥川賞を受賞し「暫くは、専ら『青春』専門家と見なされてしまった」という柴田翔は、「もし、現在、青春ないしは若い人たちの生活が、芸術作品において貧しくしか描き出されていないとしたら、あるいは豊かに描き出す可能性が見つからないとすれば、それは現在の青春が貧しいからではなく、現在の作家たちが貧しいからに他ならない。私たち作家が問うべきなのは、どの題材が描くに値するかということではなく、どんな素材の中へも食いこんでその中に描くべきものを見出せるだけの鋭い問いかけを自分の心が持っているかという、ただそのことだけなのである」と、この特集意図そのものに異を唱えていた(柴田翔「青春が貧しいからでなく……」『シナリオ』1966年10月)。
  7. ただし久野は、そうした青春の退廃や消滅の原因は一部の大人たちによる「老人支配」にあるとし、若者側のせいであるとは見ていない。
  8. 引用資料の原文では氏名・校名が実名で表記されているが、ここではイニシャルに変更した。